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平家物語(巻第十一)と絵画

巻第十一のダイジェスト & 絵画のページです。

巻第十一
  1185(元暦二)年 1月~6月
逆櫓 ( さかろ )
1185(元暦2)年正月10日、源義経 は参院し「今度こそ、平家を攻め滅ぼすまでは、都に戻りませぬ」と宣言する。後白河法皇 は大いに感動した。
一方、平家は屋島に渡って早 3年。常に、東国から九州から敵が攻めてくるとの噂を聞くたびに、びくびくしていた。
2月3日、源義経 は都を出発。屋島へ船を出さんと用意している時、義経 と反りが合わぬ 梶原景時 が「今回の船には逆櫓(船の先に付ける艪)を付けたい」と言う。これに対し 義経 は「最初から逃げ支度なんか、ダメダメ」と即却下。呆れた 景時 は「猪武者でさえ、そんな融通の利かないことは言いません」と反論。義経 は「いくさは一気に攻めて勝つものだ」と取り合わない。
日が暮れ、義経 は船を出すよう命じる。船頭水夫が沖は風が強いだろうからと渋ると、義経 は怒り、出さなければ射殺せと指示。伊勢義盛佐藤嗣信、佐藤忠信、江田源三、熊井太郎、武蔵坊弁慶 らが、矢をつがえた弓を持って駆け回った。こうして、2月17日の午前 1時ごろ、200艘の内の 5艘だけが出発。普通 3日かかるところを 5時間ほどで渡り、明け方には阿波に着いてしまったのである。
勝浦 ( かつうら )
浜に平家の赤旗が少し見える。陸に上がった 源義経伊勢義盛 に、向かいの軍勢の中から役に立ちそうな者を調略してくるよう指示すると、義盛は 近藤親家という者を連れてきた。彼に聞くと、ココは「勝浦」と言う。義経 は「こりゃ縁起が良い」と気を良くした。 続けて、義経 は本戦前に血祭りに上げるべく良い敵がいないかと聞くと、阿波民部重能 の弟 桜間能遠 がいるとの事。早速、義経 は 桜間能遠 の城を攻める。能遠 は命からがら逃げ落ちたが、義経 は防戦していた兵から20人の首を斬って勝利の鬨をあげ、「門出よし」と喜んだ。
現在、屋島の平家が手薄であり、ここから 2日路だということを知った 義経 は「敵が気が付く前に攻め込むぞ」と、夜を徹して阿波と讃岐の境の大坂越という山を越えて行った。そして、明けた 18日の未明、高松の民家に火をつけて屋島の要害に攻め寄せる。
その頃、平家では、田内教能河野通信 を攻撃して、通信には逃げられてしまうものの、討ち取って送って来た首の実検をしていた。そこに「高松の民家から火が出た」という急報が入り、すわ源氏の大軍が攻めて来たと慌てた一門は、我先にと船に乗り込み岸から離れた。
嗣信最期 ( つぎのぶ さいご )

源義経 のその日の装束は、赤地の錦の直垂に、紫裾濃の鎧、黄金で飾った太刀、切斑の矢を背負い、しげ藤の弓を真ん中を持って、「後白河法皇の使者、源義経」と大音声を上げた。

松岡映丘 『 屋島の義経 』 1929 (S04) 
 東京国立近代美術館 


続いて、田代信綱、金子家忠、与一親範、伊勢義盛 が名乗り、後藤実基、後藤基清、佐藤嗣信、佐藤忠信、江田源三、熊井太郎、武蔵坊弁慶 などの強者どもが、声々に名乗って馳せ参じる。
後藤実基 は浜での戦いには参加せず、内裏へ向かい、次々と火を放って焼き落とした。 敵兵が 7~80騎ぐらいしかない事が判った 平宗盛 は、あわてて船に乗って内裏を焼かせてしまったことを後悔する。
ここで大声での毒舌合戦が始まる。
 平盛嗣 名乗っとったようだが、遠くて聞こえんかった。今日の大将軍は誰ぞ?
伊勢義盛 言うまでもない。源頼朝殿の弟、源義経殿だ
 平盛嗣 そうか、去る平治の乱で父を討たれて孤児になったのが、鞍馬寺で稚児をし、後に黄金商人の下僕となり、食いもん背負って奥州へ落ち下った小冠者の事か?
伊勢義盛 好き勝手に言いおって! お前こそ、倶利伽羅峠で追い落とされ、命からがら生き延び、乞食をして京に戻った者だろが!
 平盛嗣 そういうお前こそ、伊勢の鈴鹿山で山賊しとったくせによぉ!
源氏の 与一親範 が射た矢が 平盛嗣 の鎧の胸板に当たると、舌戦は止んだ。
  安田靫彦 『 鞍馬寺参籠の牛若 』 1974 (S49)    滋賀県立近代美術館
  松岡映丘 『 鞍馬山 』 不明  松岡美術館
  安田靫彦 『 平泉の義経 』 1965 (S40)  山種美術館
『平家物語』の中に義経の経歴についての記述はほどんと無い。
 唯一、ココで非難される形で表記されている。
平教経 が「船いくさとは、このようにするのだ」と、矢を射始める。教経 は大将軍の 義経 を射落とそうと狙ったのだが、源氏の強者どもが馬の頭を並べて、矢面に立って 義経 を守った。教経 は「矢面の雑人ども、そこ退け」と、矢をさんざんに射ると、最前列に居た 佐藤嗣信 が、左の肩から右のわき腹までを射抜かれ、馬から逆さまに落ちた。教経 の 菊王丸 という童が 嗣信 の首を掻こうと飛び掛かってきたが、嗣信 の弟 佐藤忠信 に射ぬかれてしまう。
松岡映久:矢面
  松岡映丘 『 矢表 』 1937 (S12)    姫路市立美術館

義経 は 佐藤嗣信 を陣の後ろへ担ぎ込ませ、「この世に思い置く事はないか?」と尋ねる。
嗣信 は息絶え絶えに「弓矢取る者が敵の矢に当たって死ぬことは、元より覚悟する処。奥州の佐藤嗣信という者が讃岐の屋島で主の命に代わり討たれたと末代までも語られる事こそ、この世の名誉、冥途の土産です」と、最後に告げた。

  下村観山 『 嗣信最期 』 1897 (M30)    東京藝術大学大学美術館 

義経 は近くの僧を呼んで「経を書いて弔ってください」と頼み、そして、鵯越の坂を駆け下りた「大夫黒」という名馬をお布施に差し出した。周りの侍どもは「義経のためなら命を捨てても、全然惜しくない」と、全員で感涙したのであった。 那須与一 ( なすの よいち )
そのうち日が暮れてきたため、源平互いに退き始めたところに、沖から派手に飾った小舟が一艘、汀へ漕ぎ出して来た。そして、陸から 80メートルぐらいの所で舟を横にした。源氏方が「何だ、ありゃ?」と見ていると、柳の五衣に紅の袴を着た若い優美な女房が出てきて、金箔で日の丸を描いた紅色の扇を、舟のせがいに立て、陸へ向かって手招きをする。
源義経 は、腕が確かという 那須与一 に扇を射るよう命じる。与一は馬の手綱を取って汀へ向かった。折節、北風が激しく、波も高くて船は上下に揺れ、扇は風にはためいている。
那須与一 は目を閉じ、「南無八幡大菩薩、あの扇の真ん中を射させたまえ」と念じて、ひょうと放った。鏑矢は誤まることなく要から一寸ほどのところから扇を射切った。鏑矢は海へ落ち、扇は空へ舞い上がる。両軍「おみごと!」と歓喜。
  小堀鞆音 『 那須宗隆射扇図 』 1890 (M23)  山種美術館

中村岳陵 『 与一宗隆図 』 1906 (M39)
菊池契月 『 那須宗高 』 不明

弓流 ( ゆみ ながし )
あまりの面白さに、船の中から 50歳ほどの男が長刀を杖にして舞を舞い始めた。 那須与一 は、ここで再び、伊勢義盛 から 「ご命令だ、殺れ」と言われる。再度、弓を引き矢を放つと、舞っていた男に命中した。源氏方は盛り上がるが、平家方はシ~ンと静まりかえった。
これに怒った平家方から、伊藤景清 ら 3武者が陸に上がってきた。源氏方と討ち合いが始まると「景清を討たすな」と、平家方も 200人あまりが汀に上陸。義経方がさらに援軍を出すと、平家側は皆、船に退却する。

中村岳陵 『 景清之図 』 1906 (M39)


源義経 は勝ちに乗じて汀に攻め寄せた。平家は船の上から源氏の兵を引っ掻けようと熊手や鎌を出してくる。その時、義経 が自分の弓を海に落としてしまった。
  『 源平合戦図 』 弓流(部分) 江戸時代  赤間神社
馬上で、うっ伏して鞭で寄せて拾い上げて戻ると、老武者たちは「弓のために命に落とすところでしたぞ」と諫める。義経 は「弓が惜しかったのではない。張りの弱い弓を敵に拾われ『源氏の大将軍の弓だぁ』と馬鹿にされたくなかったので、命に代えて拾ったのだ」と言った。
そうして夜になった。源氏側は、この 3日間、寝ていない。平家が、そのまま夜襲をかけていたら勝てたであろうものを、平盛嗣 と海老次郎が先陣争いしているうちに、空しく夜が明けた。あ~ぁ、よくよく平家の運の尽きであった。
  狩野派 『 屋島合戦図屏風 』 江戸時代   フリーア美術館
志渡合戦 ( しど かっせん )
源義経 は、志度の浦で 伊勢義盛 に、河野通信攻撃帰りの 田内教能 を調略してくるよう命じる。教能 に会った 義盛 が言うには、、
「源義経殿が四国へ来ている。一昨日、阿波の勝浦で、貴殿の伯父 桜間介殿を討ち取り、昨日は屋島で御所・内裏を焼き払った。平宗盛父子を生け捕りにし、平教経殿は自害。平家一門の人々も討ち死に、あるいは入水した。残党は志度の浦で全滅。貴殿の父 阿波民部重能殿は捕虜となり、義盛 が預かっているが、『貴殿がこの事を知らず、明日、討たれてしまうのが無残だ』と嘆いておられる。我らと戦って討たれるか、降伏して父ともう一度会うか、貴殿の判断次第だ」と。
田内教能 は、義盛 の言葉を信じてしまい、あっさり降伏した。義経 は 義盛 の調略の上手さに感心し、そして、その軍を自軍に組み入れたのであった。
2月22日、梶原景時 の船団が、ようやく、屋島の磯に到着した。既に四国は義経によって攻め落とされている。「法会に間に合わない花・5月6日の菖蒲・いさかいが終わってからの喧嘩棒かよ」と笑いものになった。
鶏合 壇浦合戦 ( とりあわせ だんのうら かっせん )
屋島の戦いに勝利した 源義経 は、周防に渡り、兄の 源範頼 と合流。平家が長門の引島(彦島)に着けば、源氏も長門の追津(満珠島)に着いた。
熊野の 湛増 は、この時、源平どちらに付くか迷っていた。そこで、新熊野神社(鳥合王子社)に参籠し、白い鶏 7羽と赤い鶏 7羽を権現の前で勝負させると、赤い鶏は全敗してしまった。これで、ようやく源氏に付くことに決めた。
湛増 は 200艘の兵船で、熊野の若一王子の御神体を船に乗せ、旗の横上に熊野三山の守護神・金剛童子を描いて壇の浦へ来たので、源氏も平氏も皆、拝んだ。しかし、湛増 の船団が源氏方に付いたので、平家方は落胆する。
また、伊予の 河野通信 も 150艘の大船で漕ぎ着き、源氏の勢力がさらに増強された。 3月24日の午前 6時に、源平は、豊前・門司の関と長門・赤間が関で開戦と定められた。
その日、源義経 と 梶原景時 が一触即発の事態となった。景時 が「義経殿は大将軍なので、今日の先陣は景時が賜りたい」と申し出ると、義経 は「大将軍は頼朝殿なのだから、格は貴殿たちと同じだ」と答える。景時 は「天性、この殿に侍の主の器は無い」と呟くや、義経 が「日本一の大バカ野郎!」と太刀の柄に手を掛けた。これを見て、梶原景季・景高・景家 の兄弟が 景時サイドを固める。一方、佐藤忠信・伊勢義盛・源八広綱・ 江田源三・熊井太郎・ 武蔵坊弁慶 らが 景時 を取り囲んだ。三浦義澄 が 義経 に取りすがり、土肥実平 が 景時 に組み付いて、手を擦って「これほどの大事を前に同士討ちはなりません」と懇願したので、二人はやっと静まった。
源平両陣が、海上、約 3キロを隔てて向き合い、共に一斉に鬨の声をあげる。
平家では、平知盛 が船の屋形に進み出、「並びなき名将・勇士といえども、運命尽きれば力及ばず。しかし、名こそ惜しめ。東国の者どもに弱みを見せるな。今こそ命を捨てる時だ。ただ、それのみを願う」と下知した。平盛嗣 が「大将軍の源義経を討て。義経は色が白くて背が低いが、出っ歯なので、すぐ判るぞ」と告げる。
知盛 は下知後、平宗盛 に「味方の兵、今日は士気が上がってます。ただし、阿波民部重能だけは心変わりしたと見えます。首を刎ねましょう」と告げた。しかし、宗盛 は、にわかに信じがたく、阿波民部重能 を呼んで「四国の者どもに、よく戦えと下知せよ、臆するな」と告げただけで終わった。
遠矢 ( とおや )
源氏では 和田義盛 が、浜からさんざんに矢を放った。遠くまで飛んだ矢を指して「その矢を射返してみろ」と挑発する。平家方の伊予の住人 仁井親清 が、その矢を射返すと、義盛 の後ろにいた 三浦太郎 の左腕に深く突き刺さった。周りにいた兵たちは「和田義盛が、自分ほどの遠矢を射れる者はないと思い込んで、恥をかいたことのおかしさよ」と笑った。 逆に、平家の 仁井親清 が射た遠矢が義経の船に当たった。源義経 が 浅利義成 に射返すように命じると、大船の舳先に立っていた 仁井親清 に命中し、親清を船底へまっさかさまに落とした。
イルカの大群が平家の船の方に向かって泳いで来る。平宗盛 が陰陽師に占わせると「このイルカが源氏の方向へ戻れば源氏が滅びます。平家の方向を通り過ぎれば、お味方が危うくなります」と、言い終わらぬうちに、イルカの群れは平家の船の下を真っ直ぐに泳いでいった。
阿波民部重能 は、子の 田内教能 を生け捕りにされ、また、もう勝てないと観念したのであろう、ここで源氏に寝返ってしまう。平家方の戦術は、地位のある人を兵船に乗せ、下っ端の兵を中国風の大船に乗せて、源氏が大船を攻撃してきたら、それを兵船で取り囲んで討ち取る、というものであったが、阿波民部重能 がその戦術を敵にばらしてしまったので、源氏方は大船には目もくれず、大将軍が乗っている兵船だけを攻めて来た。平知盛 は「うむむ。。。重能め、斬っておけば。。」と千回、後悔したのであったが、どうにもならなかった。

『 安徳天皇縁起絵図 』  室町時代  赤間神社 

その後、四国と九州の兵が次々に源氏に寝返った。平家の船は、あそこの岸に着けようとしても、波が高くて思うようにならない。こちらの汀に寄ろうとすると、敵が矢先を揃えて待ち構えている。源平の政権争いは、今日が限りと見えた。
  中村正義 『 源平海戦絵巻 』 1964 (S39)    東京国立近代美術館
先帝身投 ( せんてい みなげ )
源氏の兵が平家の船に乗り移ってきた。水夫や梶手は射斬り殺されて、船をコントロールすることもできない。平知盛 は、急ぎ御所の船に向かい、「平家の世も終わりと思われます。見苦しいものは皆、海へお捨てください」と告げる。女房たちが「知盛殿、いくさはどうなのですか? どうなのですか?」と問うと、知盛 は「今に、珍しい東男をご覧になるでしょう」と、カラカラと笑った。女房たちは「どうして、そんな、ひどい冗談を!」と、声々にわめき叫んだ。
平時子 は、日頃から覚悟を決めていたので「私は女ですが、敵の手にはかかりませぬ。安徳天皇にお供します」と、三種の神器* の "八尺瓊勾玉" を脇に抱え、"草薙の剣" を腰にさし、安徳天皇 を抱きかかえて船端へ歩み出た。
安徳天皇 は今年 8歳。ひどく不安な様子で「尼前よ、我をどこへ連れて行こうとするのか?」と尋ねると、時子 は涙を抑えて「君は未だご存じないのですか。前世の十善戒行の御力で天子としてお生まれになりましたが、悪縁に引かれて御運は既に尽きました。まず、東へ向かって伊勢神宮にお暇を申し、その後、西に向かって極楽浄土からのお迎えが来るように念仏してください。この国は粟散辺土といい、つらい所ですから、極楽浄土という、めでたい処へお連れいたすのです」と、時子 がそう告げると、安徳天皇 は涙に溺れ、小さく美しい手を合わせ、まず東へ向かい、伊勢神宮に暇を請い、その後、西へ向かって念仏した。時子 は「波の底にも都がございます」と、安徳天皇 を慰め、千尋の底へ沈んでいった。悲しき哉、無常の春の風。未だ 10歳にもならずに海の底の水屑となった。
能登殿最期 ( のとどの さいご )
平時子安徳天皇 が入水したのを見て、建礼門院 も海に身を投げた。しかし、源氏の兵が、櫛に熊手を引っかけて海から引き上げた。女房たちが「その方は、建礼門院にてあらせられるぞ!」と言うと、急ぎ、建礼門院 を御所の船に移した。
大納言佐殿 は、三種の神器* の "八咫鏡" の箱を海へ投げ込もうとしたのだが、袴の裾を船端に射付けられて武士たちに取り押さえられる。武士たちが箱を開けようとすると、たちまち目がくらんで鼻血を垂れた。生け捕りにされていた 平時忠 が「それは内侍所だぞ。凡人が見てはいかん!」と告げると、兵たちは恐れおののく。その後、平時忠 と 源義経 が相談して "八咫鏡" を元の箱に収めた。
平教盛平経盛 の兄弟、また、平資盛平有盛 の兄弟と従弟の 平行盛 の 3人は、それぞれ手を組み合い、海に身を投げた。ところが、平宗盛父子は身を投げるでもなく、うろうろしている。あまりに、しょ~もないので、平家の侍たちが後ろを通るふりして 宗盛 を海に突き落とした。それに続き 平清宗 も海に飛び込む。ところが、二人とも、なまじ泳ぎが上手かったので沈まない。そうこうしているうちに、伊勢義盛 に引き上げられてしまった。 すると、宗盛 の乳兄弟である 飛騨景経 が 義盛 の船に飛び乗り、太刀を抜いて襲いかかる。しかし、隣の船から 堀親経 に射られて首をあげられてしまった。
平教経 は奮戦し、矢継ぎ早に散々に射、矢種が尽きると、大太刀と大長刀を左右に持って、さんざんに源氏をなぎ倒していった。教経 は 義経 が乗っているらしき船を見付け、義経 に飛び掛かるも、身軽な 義経 は 6メートルぐらい離れた味方の船に飛び移る。教経 は、もはやこれまでと思ったのか、太刀・長刀、甲を海に投げ捨てた。鎧の袖、草摺りもかなぐり捨て、胴だけを着て髪の毛を振り乱し、大手を広げて「我と思わん者あらば、寄って教経と組んで生け捕りにせよ。鎌倉へ下って、頼朝にひと言、言いたいことがある。寄れや、寄れ」と大音声を上げた。そこに突進してきた 安芸太郎 と 次郎 の兄弟と組んで「いざ、おのれら。冥土の旅の供をせよ」と言い、海に沈んでいった。生年 26歳。
内侍所都入 ( ないしどころの みやこいり )
平知盛 は「見るべき事は、すべて見届けた。今はただ自害せん」と、乳兄弟である 伊賀家長 と共に海に身を投げた。周りで戦っていた 20人あまりの侍も続いて入水する。ただ、平盛嗣伊藤忠光伊藤景清 などは、戦場から離れ、逃げ切る。
壇の浦の戦いで生け捕りになった者は以下の通り。
 一門: 平宗盛平清宗、平副将、平時忠平信基平時実、平尹明
 僧 : 二位僧都全真、法勝寺執行能円、中納言律師忠快、阿闍梨融円
 侍 : 源季貞、摂津盛澄、藤内信康、橘内季康、阿波民部重能父子
などの 38人。菊池高直、原田種直は、戦いの前に投降していた。
女房では、 建礼門院、 北の政所(藤原基通の妻)、 廊の御方、 大納言佐殿、 帥佐殿(平時忠の妻)、 治部卿局(平知盛の妻) 以下 43人。
時候は春の暮れ、安徳天皇 は海底に沈み、百官は波の上に漂った。建礼門院 や官女たちは敵の手に落ち、臣下・卿相は数万の軍兵に捕らわれて都へ帰るにしても、虚しい帰還である。

4月3日、源義経 は 源弘綱を通して、後白河法皇 へ報告。「去る 3月24日 午前6:00、豊前の田の浦・門司が関・長門の壇の浦・赤間が関にて、平家を攻め滅ぼし、三種の神器を無事、都へ返します」と。
4月14日、義経 は、生け捕りにした平家の男女を引き連れて明石の浦に到着。
4月25日、"八咫鏡" と "八尺瓊勾玉" が都に戻る。"草薙の剣" は海に失われた。
( つるぎ )
三種の神器* の一つ、"草薙の剣" は、その後、海女に海中を捜査させ、各社寺で祈祷させたが、とうとう見つけることができなかった。
ある博士が言うには、「昔、須佐之男命 に斬られて剣を取られた “八俣大蛇” が、それを恨み、8歳の帝となって霊剣を取り返して海に戻ったのだ」と。
一門大路渡 ( いちもん おおち わたし )
三種の神器* の "八咫鏡" と "八尺瓊勾玉" が都へ戻り、また、高倉天皇の二の宮 守貞親王 が都へ帰ってくるというので、後白河法皇 から迎えの車が出された。
4月26日、生け捕りにされていた平家一門が都へ入り、大路を渡された。 昔は華やかだった 平宗盛 は別人のように痩せ衰えていたが、しかし、周りをキョロキョロ見て、沈んでいる様では無かった。一方、息子の 平清宗 は、目を閉じ下を向いて、深く思い沈んでいる様子であった。
平家一門が都を渡される様子を見ようと、遠国・近国・山々・寺々から無数の人々が集まり、ひしめき合う人々は振り返ることもできないほどであった。1180-82(治承4-養和2)年の飢饉や、幾度も重なる戦で多くの人が死んだのだが、まだこれほど残っていたのかと思えるほどであった。
平宗盛 の牛飼いに、源義仲に斬られた次郎丸の弟 三郎丸がいた。三郎丸は「平宗盛殿の最後の車を、今一度、引かせてください」と 源義経 に願うと許可される。涙にくれ、行く先は涙で見えなかったが、牛の歩くにまかせて車を走らせた。
( かがみ )
三種の神器* の一つの "八咫鏡" は、昔、天照大御神* が自身の姿を写して子孫に見せるために作らせたもの。この鏡は、開化天皇の時代までは一つの殿に置かれていたが、崇神天皇の時代以降は温明殿に特別に置かれることになった。内侍が守護するので「内侍所」という。
文之沙汰 ( ふみの さた )
平時忠 は息子の 平時実 を呼んで「極秘文書が入った箱を義経に没収された。源頼朝が見れば多くの人が殺され、私の命も助かるまい。どうしたらよいだろう」と相談する。時実は答えた。「義経は女の頼みは断らないそうです。一人の姫君を妻にさし出し、親しくなってから言い出させたらどうでしょう」と。時忠 は、はらはらと涙を流して「昔は、娘たちを女房・后に立てようと思っていたのだ、並の人間に嫁がせようなどとは。。」と泣く。そうして、21歳になる姫君を 源義経 に差し出した。義経 は既に 河越重房 の娘を娶っていたのだが、その娘のために別の家を用意した。さて、時忠 の娘が、文が入った箱のことを言いだすと、義経 は中身を確認もせずに 時忠 へ箱を送り届けた。時忠 は、すぐに焼き捨てた。
平家が滅びて、いつしか国々の動乱も鎮まり、京の都も穏やかになった。世の人々は「義経ほどの人物はない。鎌倉の源頼朝は何をしたというのだ?」と噂した。その評判に 源頼朝 は「何を言うか。頼朝 の秀逸なるストラテジーによって軍の配分をしたからこそ、平家はたやすく滅びたのだ。義経ごときに何ができる。そのように噂されるから、あやつは傲慢になるのだ。よりによって、勝手に平時忠の婿になり、時忠を優遇するのも言語道断。鎌倉に来ても勝手するに違いない」と、不快感をあらわにした。
副将被斬 ( ふくしょう きられ )
5月6日、源義経平宗盛平清宗 父子を連れて鎌倉へ下ることになった。宗盛 に 8歳になる息子がいて、宗盛 が、将来、清宗を大将軍に、この子を副将軍にしようと、『副将』という名が付けられていた。面会を許された 宗盛 は、この子を産んですぐに死んでしまった母親を思い出し、はらはらと涙を流した。 その後、義経 は 河越重房 に「若君は、お前が、ここで、よきように計らえ」と命じた。
翌日、重房は「自分も宗盛殿の関東下向にお供するので、若君は九州の緒方維義へ渡す」と、2人の女房に告げた。女房たちも同じ車に乗って出発するが、牛車が賀茂の河原まで来たところで、彼女らは「様子が変だ」と気付く。車が止められ、女房たちが天を仰ぎ地に臥して喚き叫ぶ中、河越重房は、副将 を乳母から引き離して、腰の短刀で首を掻いたのであった。その後、2人の女房は 副将 の首を受け取るが、数日後、その首とむくろを抱いて桂川に身を投げた。
腰越 ( こしごえ )
5月7日、源義経平宗盛平清宗 父子を引き連れて都を出発した。道中、宗盛 が「如何にしても、命ばかりは助けてほしい」と頼み、義経 は「今回の恩賞に替えて、命だけはお助けします」と、さんざん慰めた。宗盛 が「たとえ蝦夷の住む千島に流されようとも、命さえあれば」と言ったのは、全くもって情けない。
義経 の鎌倉到着前に、梶原景時源頼朝 に「今は日本国が残らず従っています。しかし、義経殿こそが最後の敵と思われます」と告げた。頼朝 は同意納得し、軍勢を配置した上で、金洗沢に関所を作った。そこで 平宗盛・清宗父子を受け取るや、義経 を腰越へ追い返したのである。
義経 は面食らう。「木曾義仲を追討して平家を滅ぼし、"八咫鏡" と "八尺瓊勾玉" を無地、都へ返した。大将軍父子を生け捕りにして、ここまで下向してきたというのに、一度も対面してもらえないのか。およそ、日本国中を鎮めたのは、義仲・義経の所業だ。これでは、謝りようもない」と。。 しかし、そう嘆くも、どうにもならず、義経 は泣く泣く「全く他意は無く、許しを請いたい」との書状を書いて 大江広元 へ送った。「義経の腰越状」である。6月5日
大臣殿被斬 ( おおいとの きられ )
源頼朝平宗盛 に対面。宗盛 は庭にいて、頼朝 は屋内の御簾の中から 比企義員 を通して言葉を伝えた。宗盛 は居住まいを正し畏まる。みっともないと、居並ぶ者たちは、皆、宗盛 を軽蔑した。
一方、入国拒否された 源義経 は、さんざんに陳述していたが、宗盛親子を連れて京に戻るよう命じられた。6月9日、義経 は 宗盛親子を受け取り都へ出発する。道中「ここで殺されるのか、ここで首を刎ねられるのか、もしや命が助かるのかもしれない」などと、常時、びくびくしている 宗盛 に対し、子の 平清宗 は、ひたすら念仏だけを勧めた。
6月23日、近江の篠原の宿に到着。情けを知る 義経 は、善知識のために、事前に大原の 本性房 湛豪 という聖を招いていた。この日から、宗盛 と 清宗 は別々の場所に置かれたため、宗盛 は 湛豪 に向かって「清宗と生きながら引き離されることが悲しい。手をつないで共に首を刎ねられたい」と泣いて訴えた。
湛豪 は涙を堪えて、哀れを表に出さず、戒を授ける。
「このような憂き目に遭うのも、前世から引き継いだ宿業なので、世も、人も、神も、仏も、恨んではいけません。千年の寿命と言われる 忉利天から見れば、宗盛殿の 39年は一瞬のことです。天人なお五衰の日に逢うと云います。それゆえ、仏は『我心自空、罪福無主、歓心無心、法不住法』と説かれました。善も悪も空と感じるのは正しく仏の心に叶うことです。阿弥陀如来が途方もない時間を費やして衆生済度の誓願を起こされたというのに、どうして我らが億万年の間、生死を輪廻する必要がありましょうか。今は、余念はお捨てなされ」
そうして、宗盛 にしきりに念仏を勧めた。宗盛 は善知識と思い、西へ向かって手を合わせ声高に念仏を唱えた。斬り手が、いざ、刀を下ろそうという時に、宗盛 は念仏を止め、「清宗もすでに斬られたのか?」と聞いたことは、最後の邪念であった。斬り手が下がると、宗盛 の首は前に落ちた。湛豪も涙にむせび、猛き武士たちも皆、袖を濡らした。
湛豪 は 清宗 にも同様に戒を授け、念仏を勧めた。清宗 が「父の最期はどうでしたか?」と聞くと、湛豪 は「立派な最期でした。ご安心くだされ」と答えた。清宗 は「今は憂き世に思い残すことはない。されば、お斬りください」と、首を伸ばした。そして、刎ねられた。宗盛 と清宗の胴体は、同じ場所に一緒に埋められた。
6月24日、平宗盛 と 清宗父子の首が都へ入り、大路を引き回され、その後、獄門の左の樗の木に掛けられた。昔から三位以上の者の首が大路を渡されたことは、前例が無い。平宗盛 は、西国で生け捕りにされて、生きたまま六条通りを東へ引き回され、東国から帰ってから、死んで三条通りを西へ渡された。生きての恥、死んでの恥、いずれも劣らない。
重衡被斬 ( しげひらの きられ )
伊豆に捕えられていた 平重衡 は、源頼政の孫 源頼兼 が奈良へ引き渡すことになった。奈良へ向かう途中の日野に、壇の浦で生け捕りにされた 大納言佐殿 が居た。重衡 が、今一度、妻に会いたいと申し出、二人は涙の再開を果たす。彼女は 重衡 の姿がみすぼらしいと着替えさせ、その着ていた服を形見にした。
そして、平重衡 は奈良の大衆に引き渡される。南都の大衆は「重衡は大罪を犯した悪人。東大寺と興福寺の周りを引き回し、生きながら穴に埋めて首を刎ねるか、のこぎりで首を引くか」等々と詮議する。しかし、結局、老僧たちの「僧徒としてはどうか。武士に渡して斬らすのが良い」という意見にまとまり、武士へ渡された。
  前田青邨 『 囚われたる重衡 』 1908 (M41)  岐阜県美術館

木津川の端で、まさに斬られんとするところに、重衡 の侍、木工右馬允知時が人をかき分け「御最期を見届けるために参りました」と告げる。重衡 は「誠にありがとう。最後に仏を拝みながら斬られたいのだが、何とかならぬか」と頼む。知時は守護の武士に話をして、近くの里から阿弥陀如来の一体を迎えた。知時が着ていた狩衣のくくり紐を解き、片方を阿弥陀如来の手に、もう片方を 重衡 に持たせた。
重衡 が、阿弥陀如来に向かって祈りかけるは、
「調婆達多は、その犯した罪業はまことに深いけれども、尊い教えに導かれて得道の往生を遂げたそうですね。私が犯した罪は、全く私意によるものではなく、ただ、世の理に従ったまでであります。勅命も父の命も辞することは出来ません。それが理に叶っているか否かは、御仏のご照覧あるところ。罪報により、わが運命は今が限りとなりました。千万の後悔は、悲しんでもなお余りあります。
ただし、仏法の世界は慈悲を心としますゆえ、衆生を救う機縁はいろいろありましょう。唯円教意・逆即是順の経文を肝に銘じます。一念阿弥陀仏・即滅無量罪、願わくは 私めの逆縁を順縁に変えて、ただ、この最後の念仏によって極楽往生を遂げさせてください」と。
そして、大きな声で 10回念仏を唱えつつ、重衡 は首を伸ばした。そこで斬り落とされると、集まった数千人の人々も警護の武士も皆、涙した。重衡 の首は般若寺の門の前に釘付けにされた。これは南都攻略の際に、重衡 がここに立って伽藍を焼いたからである。
大納言佐殿 は河原に捨て置かれていた 重衡 の胴体を引き取った。晒されていた 重衡 の首は、法然 の弟子で東大寺再建にあたった大勧進の 俊乗(重源) が大衆に乞い受け、日野へ送った。大納言佐殿 はすぐに出家して、重衡 の後生菩提を弔ったのであった。

新井勝利 『 大仏勧進 』 1939 (S14)   京都市美術館 



この巻の登場人物と他巻リンク

後白河法皇( ごしらかわ ほうおう )

安徳天皇( あんとく てんのう )

守貞親王( もりさだ しんのう )

 高倉天皇の二の宮
 巻十一.一門大路渡
 巻八.山門御幸

建礼門院( けんれいもん いん )

平時忠( たいらの ときただ )

平時実( たいらの ときざね )

平信基( たいらの のぶもと )

平時子( たいらの ときこ )

平資盛( たいらの すけもり )

平有盛( たいらの ありもり )

平宗盛( たいらの むねもり )

平清宗( たいらの むねきよ )

平知盛( たいらの とももり )

平重衡( たいらの しげひら )

大納言佐殿( だいなごん すけどの )

平経盛( たいらの つねもり )

 修理大夫。清盛の弟(忠盛の3男)
 巻十一.能登殿最期
 巻一.御輿振
 巻七.一門都落
 巻九.敦盛最期

平教盛( たいらの のりもり )

平教経( たいらの のりつね )

平行盛( たいらの ゆきもり )

平盛嗣( たいらの もりつぐ )

伊藤忠光( いとう ただみつ )

伊藤景清( いとう かげきよ )

阿波民部重能(あわのみんぶしげよし)

田内教能( でんない のりよし )

 阿波民部重能の嫡子
 巻十一.勝浦
 巻十一.志渡合戦
 巻十一.遠矢

菊池高直( きくち たかなお )

法然( ほうねん )

 法然房源空
 巻十一.重衡被斬
 巻十.戒文

俊乗( しゅんじょう )

 東大寺再建の大勧進。俊乗房重源
 巻十一.重衡被斬
 巻十二.六代被斬

源頼朝( みなもとの よりとも )

梶原景時( かじわら かげとき )

梶原景季( かじわら かげすえ )

土肥実平( どい さねひら )

源範頼( みなもとの のりより )

源義経( みなもとの よしつね )

三浦義澄( みうら よしずみ )

伊勢義盛( いせ よしもり )

佐藤嗣信( さとう つぎのぶ )

那須与一( なすの よいち )

 下野の住人
 巻十一.那須与一
 巻十一.弓流

和田義盛( わだ よしもり )

 三浦義明の孫
 巻十一.遠矢
 巻九.三草勢揃

河越重房( かわごえ しげふさ )

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河野通信( かわの みちのぶ )

湛増( たんぞう )