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「 蘭亭序 」と絵画
 全体意訳・解説


蘭亭序:訳
王羲之さん、この書、酔った状態で、心は天空を駆け巡って即興で記したものであり、難解であると共に、全体の整合性に不明なところがあります。ある部分のとらえ方によっては、前後の文と整合しているようで、していないようにも取れるのです。なので、「これ」や「それ」が、何を指しているのか、人により解釈がそれぞれです。
しかし、その解釈の自由度を残して、全体をアンバランスに微妙に保っているところが、彼の謎かけであって、数世紀に渡って、美しい行書と共に、この序の魅力であり続けているのでしょう。
ここでも、個人的に、この書のテーマは「生きて感動する喜び」ということかな? というところの訳を記します。
意訳:
353(永和九)年、干支は癸丑にあたる。
この春の暮の初め、会稽山陰の蘭亭にて行事を行った。禊を行うためである。
名士の方々、ご出席いただき、老いも若きも、皆、お集まりいただいた。
この地は高い山に険しい峰、茂った林や長い竹があって、
また、清流の早瀬もあり、左右に照り映えている。
この水を引いて、杯を流す曲水を造り、各々が順に座った。
笛や琴の管弦の賑やかさは無いが、酒を交わし詩を詠むことは、
これまた、奥深い心情を伸びやかに表すに最高である。
この日は、天ほがらかで、気は清く、恵みの風が和らいで吹いている。
天を仰いでは宇宙の大なるを観、俯しては万物の盛んな様を察する。
景観、目に良く、思いを馳せるというのは、視聴の娯しみの極みである。
まことに楽しい!
それ、人々がお互いに、一生の立ち振る舞いをするや、
ある人は、心に多くを抱いて、室内で議論し合い、
ある人は、好むところに従って、形式にとらわれずに振る舞う。
生き方は様々であり、静と動は同じではないが、それぞれの信ずるところに従い、
暫時、自身のアイデンティティが合っていれば、絶好調 と心地よく、
老いが忍び寄っているのにも気づかない。
ところが、今まで意に叶ってきた事、既に倦怠感が生まれ、
情は、別の事に従うようになると、感慨は、その他の事に係わるようになる。
過去の栄光は、あっという間に、もう過去のものとなってしまっているのだが、
それでもなお、まだ、感慨を興さないわけではない。
ましてや、人の命に長短あっても、道理に従い、終には尽きてしまうのだから、なおさらである。
古人(荘子)は、生きることと死ぬこと、共に重要だと言った。これは、なんとも痛ましい。
昔の人々が生きて感動してきた事を見るたびに、常にどれもが、自分もそうだそうだと思う。
なので、荘子の文を読んでいると歎き悼ましく、真から納得することができない。
もとより、生死が同一だというのは偽りであり、命の長短が同じというのも妄想である。
とはいえ、後世の人たちが今を見るのも、今の我々が昔を見るのと同様なんだろうな、
悲しいかな。
ゆえに、ここに集まった人たちを列記し、その述べる所を記録しておこう。
時代が遷り変わり、物事が変化しても、感慨を興す所以は同じなのだから。
後の世の人々も、また、この文に感じ入ることであろう。



中村不折:賺蘭亭図
時代は下って、唐の太宗皇帝(598-649)は王羲之の書に心酔し、ほとんどの作品を集めたのだが、「蘭亭序」だけは手に入れることができなかった。王羲之の子孫の智永の弟子である弁才という僧が寺に保管しているという情報を得た太宗は、知者の蕭翼に命じて調略に行かせる。蕭翼は言葉巧みに、まんまと弁才を騙して「蘭亭序」を入手した。この不折の絵画は、その状況を描いたもの。賺(たん)は「言いくるめて騙す」の意。
その後、玄宗は、これを自分の墓に副葬させてしまったため、「蘭亭序」の真蹟は現存しないという。
中村不折 『 賺蘭亭図 』 1920 (T09)   東京国立近代美術館





 更新情報:
 - Ver. 1.0: 2016年 5月 8日 公開
 - Ver. 1.1: 2021年 6月 2日 『蘭亭序』書の画像を掲載
 - Ver. 1.2: 2021年 9月30日 解説ページのみレスポンシブ版に改訂


■ 王羲之「 蘭亭序 」
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