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平家物語(巻第十)と絵画

巻第十のダイジェスト & 絵画のページです。

巻第十
  1184(寿永三)年 2月 ~ 1184(元暦元)年12月
首渡 ( くび わたし )
1184(寿永三)年2月12日、一の谷で討たれた平家一門の首が都に到着した。源範頼源義経 が「平家一門の首は大路を渡して獄門の木にかけるべき」と、後白河法皇 に奏聞する。公卿たちは「昔から、公卿・大臣の位に登った人の首が大路を渡された例は無い」と全員が反対し、後白河法皇 も許さないことにした。しかし、範頼・義経 が何度も強く迫ったため、後白河法皇 はついに折れてしまった。数知れぬほど集まった見物人たちは、皆、ひどく哀れ悲しんだ。
『 平家物語絵巻 』 首渡(部分) 江戸時代  林原美術館
維盛の北の方平維盛 が討たれてのではないかと気が気でない。斎藤五斎藤六 は変装して首渡しを確認しに行く。しかし、維盛 の首はなかった。人に聞くと、維盛 は戦いの前に病気になり、屋島に戻って助かったとの事であった。
内裏女房 ( だいり にょうぼう )
2月14日、生け捕りにされた 平重衡 は都で大路を渡された。院からの使者が「三種の神器を都へ戻すよう、一門に催促せよ」と伝える。重衡 は「自分と引き換えに三種の神器を戻すはずはないが、母の時子は、あるいはそう思うかもしれない。院宣を突き返すのは恐れ多いので、伝えてはみます」と返事をした。私信は許されなかったので、言伝えで行われた。
重衡 は、かつて、とある内裏の女房と懇意にしていた。今一度会いたいと願い出ると、警護役の 土肥実平 は情け深い人で、これを許可する。二人は再び会えた喜びと共に、悲痛な運命に涙した。
八島院宣 ( やしま いんぜん )
2月28日、院宣の使者 平重国 が屋島に到着。院宣には「三種の神器を都へ返せば、重衡の罪を許す」とのことが書かれていた。
請文 ( うけぶみ )
平重衡 からの「三種の神器を返せば、また会えます」という伝え文を読んだ 平時子 は、不条理な運命にわめき泣き叫ぶ。しかし、一門の意志は変わらない。重衡の北の方の 大納言佐殿 は涙に暮れ、返事を書くことすらできなかった。
平宗盛 は「安徳天皇が都へ戻れない限り、三種の神器だけを都へ返すことはあり得ない」との内容の返事をした。
戒文 ( かいもん )
平家からの返答の内容を聞いた 平重衡 は、当然のことだ、とはいえ落胆する。土肥実平 に「出家したい」と相談するも、後白河法皇 からは「頼朝に会わせた後でなければ NG」とのこと。それならばと「法然上人に会いたい」と願い出る。
法然 を迎えた 重衡 は「このように生き恥を晒しているのも、不慮に南都を炎上させてしまった報い。今は出家したいが、囚われの身ではそれも不可。このような悪人が助かる方法があれば、お示しください」と請う。法然は涙に咽んだ後しばらくして、「浄土宗をただ深く信じ、日常の起居動作すべてに渡って『南無阿弥陀仏』の称号を唱えれば、極楽浄土に往生されること疑いありません」と答えた。そうして、法然は 重衡 に十条の戒律を授けた。
  木村武山 『 法然上人 』 1917 (T06)   茨城県近代美術館 
海道下 ( かいどう くだり )
3月10日、平重衡梶原景時 に連れられ、鎌倉の 源頼朝 の許へ下る。
千手前 ( せんじゅの まえ )
鎌倉に到着した 平重衡 に、源頼朝 は「奈良を滅ぼしたのは平清盛の命か、それとも臨時の判断だったのか?」と問うた。重衡 は「それは命じられた事ではなく、また、自分でやった事でもない。衆徒の悪行を鎮めるために出兵した際に不慮に伽藍を滅亡させたのは、力及ばぬ事だった」と釈明した。頼朝 も哀れに思い「平家を私的な敵だとは思っていない。ただ、帝王の仰せを思うからだけだ」と言った。
その後、重衡 は伊豆の住人 藤原宗茂 に預けられた。宗茂 は湯殿を用意して世話をし、千手の前 という長者の娘もつけて酒を勧めた。しかし、明日にも首を刎ねられるかと沈んでいる 重衡 は、とても、その気になれない。
千手の前が「極楽を願う人は皆、弥陀の名号を唱うべし」という今様を繰り返し歌うと、重衡 は、ようやく、盃を差し出した。そして、その後、優雅に琵琶を弾き、項羽と虞美人の四面楚歌の歌を朗詠した。

松岡映丘 『 重衡と千手 』

1935 (S10)  姫路市立美術館 寄託

源頼朝 は、重衡の琵琶の音色と歌声を、いつまでも忘れなかったという。
横笛 ( よこぶえ )
平維盛 は屋島に居ながら、都に残してきた妻子のことが忘れられなかった。このようにして生きていても甲斐がないと、3月15日の暁、与三兵衛重景石童丸 という童、武里 という舎人の 3人を連れ、密かに屋島を出て紀伊へ向かった。和歌山の南を越え、衣通姫* が神として現れたという玉津島の明神を過ぎ、紀ノ川の河口に着いた。維盛 は、そのまま都へ向いたくて仕方がなかったが、生け捕りにされて父の名を辱めてもならないと思い、高野山へ参詣する。高野山には、以前、小松殿に仕えていた 斎藤時頼 という侍が、今は出家して聖となっていたのである。
この 斎藤時頼 は、13の時、建礼門院の雑役に仕える「横笛」という女に恋してしまった。それを、父親から「何やっとんのか!」と、こっぴどく叱られる。時頼 は、恋を貫きたいが、そうすれば父の命に背くことになる。これは仏道に入る機会(善知識)だと思い、19で出家。嵯峨の往生院で修行生活に入った。
それを聞いた 横笛 は「自分を捨てて出家したことが恨めしい」と、嵯峨を尋ねて回った。横笛 に探し当てられて動揺した 時頼 は、「もう一度、横笛が来たら自分は挫けてしまうに違いない」と思い、嵯峨を出て、さらに高野山へ上って行を修めた。そして、その後、横笛 も出家したことを知る。横笛は 時頼 への思いが強かったのか、しばらくして死んでしまった。
平維盛 は、この高野の聖に会う。まだ 30前なのに老僧のようにやせ衰えていた。
高野巻 ( こうやの まき )
斎藤時頼 は、突然やって来た 平維盛 を見て、びっくりする。維盛 曰く「西国へ落ちたが、京に残してきた子どもたちが恋しく、物憂いが故に、宗盛殿も 平時子殿も『平頼盛 のように 維盛 も二心あるのだろう』と疎外されるので落ち着かなくなった。京に出て生け捕りされる訳にもいかず、同じ事なら、ここで出家して火の中・水の底へでも入ろうと思う。ただ、熊野詣をしなければという宿願がある」と。時頼 は、維盛 をエスコートして、堂塔を巡礼し、奥の院へ参った。
昔(921(延喜二十一)年)、醍醐天皇 に夢のお告げがあり、ひはだ色の御衣が 弘法大師 に贈られた。弘法大師 から 醍醐天皇 への返礼は「我、昔、普賢菩薩に会い印明を伝えられた。比類なき誓願を起こし高野山に来、昼夜に万民を憐れみ、普賢菩薩の悲願を行う為にココに住んでいる。雑念を払い精神統一して弥勒菩薩の出現を待っている」というものであった。弘法大師 の入定は 835(承和二)年。弥勒菩薩が出現して三会の暁を行うのは、56億7千万年先。それを待っているというのだから、途方もなく長い未来のことである。
維盛出家 ( これもりの しゅっけ )
翌日、平維盛 は出家することになった。重景石童丸 を呼び「自分は出家する以外道が無いが、二人は都で身を立て、そして我の後生を弔ってくれ」と告げる。しかし、重景 は涙を抑え「故 重盛殿から『決して維盛の意に背かぬこと』との遺言を受け、一番に命を捧げるつもりでおりました。お見捨てする事など出来ませぬ」と言って、自ら髻を切り落とした。それを見た 石童丸 も髪を切り出家した。
維盛 は 武里 を呼び「お前は京へ行ってはならない。妻は我が最後を直接聞けば、すぐ出家してしまうだろう。代わりに屋島へ行き、遺言を伝えよ。『弟の清経と師盛が死に、さらに維盛までもが出家したとなれば一門の方々が頼りなく思うだろう。それだけが心苦しい』『「唐皮の鎧」と「小烏の太刀」は平家の嫡流に伝えられた。今後、もし平家が都へ帰ることがあれば、嫡子の 六代御前 に与えるべし』」と告げる。そして、斎藤時頼 を導帥として 5人は山伏姿になり熊野詣に出発する。紀伊の国を山東まで出、あちこちの王子を参詣した。
  前田青邨 『 維盛最後の巻 』 1918 (T07)  東京国立博物館
熊野参詣 ( くまの さんけい )
平維盛 一行は、諸々の煩悩・罪障が消えるという岩田川を越え、熊野神社の本宮(熊野坐神社)に着いた。証誠殿の御前に跪いて経を唱える。ここは、先年、父の平重盛が祈祷した場所である。 翌日、本宮から舟で熊野川を下り、新宮(熊野速玉大社)へ参詣。そして、熊野那智大社に参詣した。立ちこめる霞の下では法華経を誦経する声が響き、霊鷲山のようともいえる。

山口蓬春 『 三熊野の那智の御山 』 1926 (T15)  宮内庁三の丸尚蔵館 


那智籠りの僧の中に 維盛 を見知っている僧がいた。「あぁなんと、あれは平維盛殿ではないか。後白河法皇 50歳の祝賀の席で、維盛殿が青海波を優雅に舞うのを見た。今に大臣・大将になると思われていた人が、あのやつれ果てた姿になるとは! 移れば変わる世の習いとはいうものの、哀れなことだ」と、さめざめと泣き語ると、那智籠りの僧たちも、皆、涙したのであった。
維盛入水 ( これもりの じゅすい )
本宮・新宮・那智の熊野三山の参詣を遂げた 平維盛 は、浜の宮王子から小舟に乗り、万里の蒼海に浮かんだ。沖の島に上がり、松の木に銘跡を残す。「祖父 太政大臣 平朝臣清盛公 法名浄海、親父 内大臣左大将 重盛公 法名浄蓮、三位中将 維盛 法名浄円、生年廿七歳、寿永三年三月廿八日、那智の奥にて入水す」
再び舟に乗り、沖へ漕ぎ出して念仏を唱えるも、それでも、なお、執着心が消えぬことに、維盛 は 斎藤時頼 に懺悔する。
時頼 は哀れに思うものの、自分までもが気弱になってはならないと、涙を押しとどめて、平常心をよそおって告げた。
「確かに、それも無理からぬことです。恩愛の道は断ちがたく、中でも夫婦が一夜の枕を並べるのは 500回生まれ変わる前世からの因縁といわれ、その前世の契りは浅くありません。しかし、生者必衰の理・会者定離の理は浮世の習い。誰しも死の掟には従うものであり、また、別れは必ずやって来ます。
六欲天の最上層に住む外道は、欲界に住む衆生が仏界の悟りを得るのを妬み、配偶者をもって妨げようとします。しかし、過去・現在・未来の三世の仏たちは一切衆生の誰しもを極楽浄土へ導こうとしているのです。家族とは人々が生死を繰り返す迷いの世界に縛り付ける絆なので、仏は重く戒めるわけです。
しかし、だからといって心弱くなることはありません。源頼義 は奥州の安倍氏を攻めた 12年の間に人の首を斬ること 16,000、山の獣・川の魚の命を絶つこと幾千万か判りません。しかし、終焉の時に一念の菩提心を起こしたので、罪深い彼でさえ往生の願いを叶えました。いわんや、君にはそのような罪はありません。どうして浄土へ行けないことがありましょうか。
その上、出家の功徳は莫大です。前世の罪障はすべて滅びました。七宝の塔を空高く建てようとも、10万年間、百羅漢を供養しようとも、一日の出家の功徳には及びません。さらには、ここ、熊野権現の本宮は阿弥陀如来です。四十七願の全てが教化済度の誓願です。一回の念仏だけでも往生できるのです。 ただ深く信じて、ゆめゆめ疑ってはなりません。真心込めて祈願し、一回でも十回でも唱えれば、弥陀如来は無限大の体を人の 2倍くらいのサイズに縮め、観世音菩薩などと共に歌を詠いながら来迎されます。身体は海の底に沈むとも、心は紫雲の上へ昇りましょう。
成仏して解脱し悟りを開けば、娑婆に帰り妻子を導くことが出来ること、少しも疑いの余地ありません」
時頼 は金を打ち鳴らして、しきりに念仏を勧めた。維盛 は西へ向かって手を合わせ、声高に念仏を 100回ほど唱え、「南無」の声と共に海へ身を投げたのであった。重景石童丸 も、同じく御名を唱えながら続いて身を投げた。
三日平氏 ( みっか へいじ )
三人が入水すると、舎人の 武里 も後を追って海に身を投げようとする。しかし、斎藤時頼 に「ばかたれ! 遺言に違えてはならぬ。ただ、後世を弔うのだ」と強く押さえられた。
その後、武里は泣く泣く屋島へ戻った。武里は 平維盛 の弟の 平資盛 に手紙を渡し、そして、遺言を伝えた。それを聞いた 資盛 は、さめざめと泣く。資盛 は 維盛 に、とても似ていたので、これを見た者も皆、涙を流した。平宗盛平時子 は「維盛は平頼盛のように 源頼朝 に心を通わせて都にいるのだと思っていたが、そうではなかったのだ。。」と、今更ながら嘆き悲しんだのであった。
5月4日、その 平頼盛源頼朝 に呼ばれ鎌倉へ向う。頼朝が伊豆遠流になる際に世話した 宗清 という侍がいた。頼盛 は 宗清 を連れて行こうとしたが、彼は「未だ、平家一門の公達が西海に漂われておられる事が心苦しく」と言い、ついて行かなかった。
5月16日、頼盛 は鎌倉に到着。頼朝 が「宗清は一緒か?」と問うと、頼盛 は「あいにく病気になりまして」と答えた。頼朝 は「自分が宗清の許に預けられた時、とても情け深くしてくれた。早く会いたいと思っていたのに」と残念がった。
6月9日、頼盛 は都への帰途につく。頼朝 は、頼盛 が知行する荘園と私領の保証と大納言の復職を、後白河法皇 に申し伝えた。そして、頼朝からと東国の大名・小名たちから大量の引出物を贈られ、馬だけでも 300頭になった。頼盛 は、命が助かっただけでなく、リッチになって帰ってきたのであった。
6月18日、平貞能の伯父 平田定次 が伊賀・伊勢の平家と蜂起する。しかし、20日には近江源氏に全員攻め落とされた。「三日平氏」とは、この事をいう。
維盛の北の方 は幼い子供たちと共に都で 維盛 の便りを待っていた。月に一度は必ずあった便りが途絶え、春が過ぎて夏になった。屋島へ使者を遣わすと、7月の末に戻ってきた。そこで、維盛 が 3月に出家し、熊野詣の後、那智の沖にて身を投げたことを知る。北の方 は伏してしまい、2人の幼子も泣き叫んだ。 若君の乳母の女房が泣く泣く慰める。「生け捕りにされたのではなく、高野山で出家され、妄念を捨て安らかな気持ちで最後を迎えられたこと、それは嘆きの中で、よろこんで差し上げるべきことではありませんでしょうか」と。
まもなくして、北の方 は出家したのであった。
藤戸 ( ふじと )
源頼朝 も 平維盛入水のことを伝え聞く。「あぁ、頼朝が助命されたのも、故 池の禅尼の使者として平重盛殿が奔走してくれたおかげだ。御子息たちを、おろそかに思っていない。命だけはお助けできたのに」と言ったという。
7月28日、後鳥羽天皇 即位の儀が執り行われた。三種の神器* が無いままの即位は、神武天皇以来 82代で初めてのこと。
一方、屋島の平家では、東国から九州から攻めてくると噂され、その度ごとに肝を潰していた。今は力尽き果てて、阿波民部重能兄弟が四国の者を味方に付け、まだ勝てる望みがあると言っていることを、深く頼りにしていた。
9月12日、源範頼 の大軍が平家追討のため、都を出発し播磨の室に向かう。
 大将軍 : 源範頼
 足利義兼、加賀見長清、北条義時、藤原親能
 侍大将 : 土肥実平、土肥遠平、三浦義澄、三浦義村、畠山重忠
長野重清、稲毛重成、榛谷重朝、榛谷行重、小山朝政、
長沼宗政、土屋宗遠、佐々木盛綱、八田朝家、安西秋益、
大胡実秀、天野遠景、比企朝宗、比企能員、中条家長、
一品房章玄、土佐房昌俊
迎え撃つ平家方は、500艘の船団で屋島を出発。
 大将軍 : 平資盛平有盛平忠房
 侍大将 : 飛騨景経、平盛嗣伊藤忠光伊藤景清
平家が備前の児島に到着したと伝えられると、源範頼 は近くの藤戸に陣を敷き、源平両軍が海を挟んで睨みあった。その間わずかに 500メートル程度。源氏は舟がなくて攻撃できず、いたずらに日数を過ごしていた。
9月25日の夜、近江の住人 佐々木盛綱 が浦の男を一人言いくるめて「この海に馬で渡れる場所があるか?」と聞く。男は「月初は東に、月末は西に、海が浅くなる場所が出来る」と答えた。実際に行ってみて浅瀬があることを確認すると、戻る際に 盛綱 は「下郎は他人に教えるかもしれない」と、その男を刺し殺した。
明けた 26日の朝、平家方が小舟で「ここまで来い」と徴発するや、浅瀬を知る 佐々木盛綱 が海を渡り始めた。土肥実平 が馬で駆けつけ「こら佐々木殿、大将軍の許しもないのに、狂ったか!」と諌めるも、盛綱 は無視して進み続けるので、土肥実平 も海を渡った。その様子を見た 範頼 が「海は浅いぞ。渡れ、渡れ」と命令を下し、源氏の大軍が一斉に海へ入った。平家方は矢先を揃えて、さんざんに放つ。一日中戦い続け、夜になると平家の舟は沖に逃げ、源氏は児島に上陸して人馬を休めた。翌日、平家は屋島へ退却していった。「昔から馬で川を渡った兵はあっても、海を渡った例は珍しい」と、盛綱 に備前の児島が与えられた。
大嘗会之沙汰 ( だいじょうえの さた )
10月3日、都では天皇即位後の大嘗祭を行わなければならないとなり、後鳥羽天皇 は禊に出かけた。実行委員長は 徳大寺実定。今回は、源義経 が行列の先頭に立った。木曾義仲 よりは、よっぽど都慣れしていたが、それでも、平家の残りカスよりも劣って見えた。諸国の人民は源平のために悩まされ、秋の収穫があるわけでもなく、大嘗会どころではなかったのだが、10月18日に執り行われた。
源範頼 が、すぐに追撃していれば平家は亡んだであろうに、彼は室や高砂に滞留し、遊男・遊女を集めて遊びふけっていた始末。ただ、国の弊え・民の煩いのみあって、元暦元年も暮れたのであった。


この巻の登場人物と他巻リンク

後白河法皇( ごしらかわ ほうおう )

後鳥羽天皇( ごとば てんのう )

平時子( たいらの ときこ )

平維盛( たいらの これもり )

六代御前( ろくだい ごぜん )

 平維盛の嫡男
 巻十.維盛出家
 巻七.維盛都落

維盛の北の方(これもりのきたのかた)

斎藤五( さいとう ご )

 平維盛の侍。斎藤実盛の子
 巻十.首渡
 巻十二.六代
 巻十二.六代被斬
 巻七.維盛都落

斎藤六( さいとう ろく )

 平維盛の侍。斎藤実盛の子
 巻十.首渡
 巻十二.六代
 巻十二.六代被斬
 巻七.維盛都落

斎藤時頼( さいとう ときより )

重景( しげかげ )

 与三兵衛重景。平維盛の家人
 巻十.横笛
 巻十.維盛出家
 巻十.維盛入水

石童丸( いしどうまる )

武里( たけさと )

平資盛( たいらの すけもり )

平有盛( たいらの ありもり )

平忠房( たいらの ただふさ )

平宗盛( たいらの むねもり )

平重衡( たいらの しげひら )

大納言佐殿( だいなごん すけどの )

平頼盛( たいらの よりもり )

 池の大納言。清盛の弟(忠盛の5男)
 巻十.三日平氏
 灌頂巻.女院死去
 巻一.御輿振
 巻四.若宮出家
 巻七.一門都落

平盛嗣( たいらの もりつぐ )

伊藤忠光( いとう ただみつ )

伊藤景清( いとう かげきよ )

阿波民部重能(あわのみんぶしげよし)

徳大寺実定(とくだいじ さねさだ)

法然( ほうねん )

 法然房源空
 巻十.戒文
 巻十一.重衡被斬

源頼朝( みなもとの よりとも )

源範頼( みなもとの のりより )

源義経( みなもとの よしつね )

加賀見長清( かがみ ながきよ )

三浦義澄( みうら よしずみ )

畠山重忠( はたけやま しげただ )

土肥実平( どい さねひら )

梶原景時( かじわら かげとき )

土佐房昌俊(とさぼう しょうしゅん)

 源頼朝の御家人
 巻十.藤戸
 巻十二.土佐房被斬