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平家物語(巻第三)と絵画

巻第三のダイジェスト & 絵画のページです。

巻第三
  1178(治承二)年 ~ 1179(治承三)年
赦文 ( ゆるし ぶみ )
1178(治承二)年1月7日、東の空に彗星が現れた。
中宮 徳子 が病気ということで、諸寺では読経が始まり、様々な特別の修法が行われた。しかし、それは実は、ご懐妊であった。なので、平家は、今度は皇子誕生の祈願を盛大に行った。天台座主の覚快親王も参内し、胎児を男子に変えさせる法なども修せられる。
それでも 中宮 徳子 の苦痛は続くため、これはきっと死霊が依り付いているんだと、怨霊をなだめるために、皇太子を廃嫡された早良親王を崇徳天皇と号し、保元の乱で打たれた悪左府 藤原頼長に太政大臣正一位が贈られたりした。平教盛 は「お産の祈祷のために、鬼界が島の流人を召し返されるほどの善行はないでしょう」と、重盛 を通して提案。これには 清盛 も素直に聞き入れ、藤原成経平康頼 を赦免することにした。
足摺 ( あしずり )
さて、赦文の使者が鬼界が島に着き、その 清盛 の文を開くと、「このたび、中宮 のお産のお祈りとして、特別な恩赦により、藤原成経と平康頼を赦免とする」と書かれていた。しかし、俊寛 の文字だけが無い。藤原成経平康頼 も隅から隅まで読むも、3人とは書かれていなかった。俊寛僧都 は「元々、同じ罪なのに、どうして自分だけがダメなのか。京までとはいかなくても、せめて九州まで連れて行ってくだされ!」と嘆き悲しむ。
しかし、使者は無情にも 俊寛僧都 を置き去りにして、船を漕ぎ出していったのであった。

月岡芳年 『 俊寬僧都於鬼海嶋遇康頼之赦免羨慕帰都之図 』

1886 (M19)  横浜美術館

御産 ( ごさん )
11月12日から、中宮 徳子 の陣痛が始まり、京中が期待から大騒ぎとなった。御産所は 池殿で、後白河法皇 以下、様々な役職の者たちが参上。神社・寺社では、こぞって調伏と安産祈願の誦経が行われる。なかなか産まれてこないことに、清盛時子 も、あたふた、やきもき。
こうして、無事、男の子 が誕生。 重衡 が「皇子御誕生」と高らかに告げ、皆一同「あっ」と悦びあう。清盛 は嬉し泣き。平重盛 は、桑の弓をもって蓬の矢を天地四方に射放った。
公卿揃 ( くぎょう ぞろえ )
出産祝いには、数多くの公卿たちが六波羅へ参上した。
大塔建立 ( だいとう こんりゅう )
皇子 の誕生により、各祈祷の功労を賞して、それぞれ官位や所領が与えられた。 清盛 は、次は、皇子 が皇位につくことを願って厳島神社へ祈願することにした。
ところで、平家が厳島神社を信じるようになったのは以下の経緯である。
清盛 が安芸守だった頃、高野山金剛峰寺山上の大塔を6年かけて修理した。修理後に 清盛 が高野山へ登ると、どこからともなく鹿杖をついた老僧が現れ、「厳島神社が長く荒廃しているので修理してほしい」と告げるや、消えるかのようにして居なくなってしまった。 清盛 は「あの方は、きっと弘法大師だったに違いない」と思い、告げられた通り、厳島神社を修理する。鳥居を建て替え、社々を作りかえ、180間の回廊を造った。

守屋多々志 『 平家厳島納経 』 1978 (S53)  山種美術館
 『平家物語』内に厳島納経の逸話は無いが、1164(長寛二)年に奉納されている
頼豪 ( らいごう )
昔、白河天皇の后が妊娠の際、三井寺の 頼豪 を呼んで「皇子誕生を祈れ。成就したら何でも望みをかなえてやる」告げた。頼豪の祈祷が効いたか、やがて皇子が誕生。約束通り、彼は「三井寺に戒壇を建立したい」と願うと、それは延暦寺と大争いになるからダメだと、白河天皇に却下されてしまう。怒りまくった頼豪は「ならば皇子を悪界へ道連れにしてやる」と、食を断ち餓死する。
そうしているうちに、皇子は病気になり 4歳で死去。白河天皇は大いに嘆き、今度は延暦寺にて祈祷が行われる。やがて中宮ご懐妊となり、無事に皇子が誕生した。これが、堀河天皇である。 このように、怨霊は昔も恐ろしいものだった。
12月8日、皇子 は皇太子となった。
少将都帰 ( しょうしょう みやこ がえり )
赦免された 藤原成経平康頼 は帰途の際に 藤原成親 が非業の死を遂げた備前の児島に立ち寄る。荒れた墓の周りをきれいにし、7日7夜、念仏を行った。そうして、1179(治承三)年3月16日、二人は無事帰京。
その後、藤原成経 は再び院に出仕し宰相中将まで昇進した。平康頼 は東山双林寺の山荘に籠もって、『宝物集』 という仏教説話集を書いた。
有王 ( ありおう )
鬼界が島に一人残された 俊寛僧都 には、以前召し使っていた有王という者がいた。有王 は 俊寛僧都 の娘の文を携えて鬼界が島まで出かける。しかし、島に着いても島中を探し回るが見つからなかった。
ある朝、都の物乞いでも見たことが無いような、トンボのように痩せ衰えた者が、よろよろと歩いてきた。この者こそが変わり果てた 俊寛僧都 の姿であった。
僧都死去 ( そうず しきょ )
有王は、俊寛僧都 が捕らえられた後に多くの家の者が殺されてしまったこと、3歳の子が疱瘡で死んでしまったこと、奥方も、そのショックで亡くなったことを伝えた。姫君がただ一人残っていることを告げた上で預かってきた文を手渡すと、その手紙には「お父さま、早く帰ってきてください」と書かれていた。俊寛僧都 は姫の幼さに涙すると共に、もう、むやみに生きながらえておれないと、その後、食を絶って、ひたすら弥陀の名号を唱え続けた。こうして、俊寛僧都 は 3年の流刑の果て、37歳で臨終となる。
有王は 俊寛僧都 を火葬し、遺骨の一部を持って帰京した。その後、姫は 12歳の尼となって父母の後世を弔い、有王は法師となり諸国七道を修行して 俊寛僧都 の後世を弔ったのであった。
颷風 ( つじかぜ )
1179(治承三)年5月12日、京中に、非常に強い旋風が吹いた。数多くの家屋が崩壊し、牛馬などの家畜が数多く死んだ。神祇官と陰陽寮両方で占うと、どちらも「戦乱が相次いで起こるだろう」というものだった。
医師問答 ( いし もんどう )
同じ年の夏、平重盛 は熊野神社へ参詣し、子孫繁栄のために、清盛 の悪心を和らげてほしいこと、自分の命と引き替えに来世の苦しみを減らしてほしいと祈願した。こうして、熊野神社から戻っての数日後、重盛 は病気となった。しかし、彼は、既に熊野権現に祈願を聞き入れられたと、治療もせず祈祷もしなかった。 丁度、その時、宋から優れた名医が来日していた。清盛平盛俊 を使わして、その名医に診てもらうようにと伝えた。ところが、重盛 は「外国の医師に診てもらうのは恥、治る/治らないは前世からの定めによるもの」と言って聞き入れなかった。
こうして 8月1日、重盛 は43歳で死去する。世の人々は良臣を失ったと悲しんだ。
無文 ( むもん )
ある夜、平重盛 は不思議な夢を見た。 どことも知らぬ浜辺を歩き続けていると、大きな鳥居があり、多くの人が集まっている。その中に、ある法師の首が掲げられている。重盛 が「あれは誰の首だ?」と問うと「平家の太政大臣、平清盛 殿の悪行が度を超したため、春日大明神が召し取ったのです」と、そこで夢が覚めた。
その時、妻戸をたたく者あり、瀬尾兼康 であった。「あまりにも不思議な夢を見ましたので、参上しました」と言う。その夢は、なんと、重盛 が見た夢と全く同じだったのである。
翌朝、重盛 は嫡男の 平維盛 を呼び止め、平貞能 に酌をさせて三度の盃を交わした後、大臣葬のときに帯剣する「無文」という太刀を与えた。「父 清盛に万一のことがあれば自分が帯びて葬列に参加するつもりだったのだが、自分が先立つことになるから」ということであった。
灯炉之沙汰 ( とうろの さた )
平重盛 は、生前、東山の麓に四十八間ある寺社を建て、一間毎に燈籠を掲げた。毎月14日と15日には平家や他家から若い美形の女房を呼び寄せ、一間に 6人ずつ、計 288人に、それぞれ時間を設定して一心不乱に連続して称名を唱えさせた。
このことから、平重盛 は「灯籠大臣」と呼ばれるようになったのである。
  菊池契月 『 供燈 』(右隻) 1910 (M43)  東京国立近代美術館

小林古径 『 平重盛(灯籠大臣)』 1916 (T05)  講談社野間記念館 
山口蓬春 『 燈籠大臣 』 1919-20 (T08-9)  山口蓬春記念館 
中村大三郎 『 燈籠大臣 』 1922 (T11)  耕三寺博物館 

金渡 ( かね わたし )
平重盛 は後世のために外国にも善行を残しておこうと、千両を中国五山の一つである育王(いおう)山・阿育王寺へ、二千両を南宋の皇帝に献上した。このため、育王山では、今なお、重盛 の後生善処を祈る事が絶えないという。
法印問答 ( ほういん もんどう )
清盛重盛 に先立たれて、福原でふさぎ込んでしまっていた。
11月7日の夜、大きな地震があった。 その地震から一週間後、清盛 は何を思ったか、急に数千騎の兵を連れて上洛してきた。皆、初め、その理由がわからなかったが、実は皇室を恨んでいること間違い無いという噂が広がる。藤原基房 は、自分を討ちにやって来たのだと、恐れまくった。後白河法皇 もすごく驚き、静憲法印を使者に立て、清盛 の屋敷へ遣わした。
清盛 は 静憲法印 に対して文句を言う。「重盛 が没して喪に服しておるというのに、49日を前に 高倉天皇 は八幡神社へ御幸してお遊びとは、嘆きの一端も見られない。さらに、重盛の所領である越前の国がさっさと召し返されたというのにも腹が立つ。それから、中納言のポストが一つ空いた際に 藤原基通 を随分押したというのに、藤原基房 の 8歳の息子(=藤原師家)が任命された。なんだ、こりゃ。それに、鹿谷の陰謀には、後白河法皇の了承があったというではないか。先も短い浮世、もう、どうにでもなれ! と思うようになった」と。
対する 静憲法印も気が強い者。「ごもっとも。されど、小者の譫言を聞いて朝家に背を向けようなど、愚かな事。よくよく熟慮なさいませ」と、なだめ忠告した。
大臣流罪 ( だいじん るざい )
静憲法印は院に戻り、この事を 後白河法皇 に伝えた。が、特に沙汰は無かった。
11月16日、平清盛 は、とうとう、関白 藤原基房 をはじめ、太政大臣 藤原師長 以下、公卿殿上人、一挙 43人の官職停止というクーデターを起こす。藤原基房 は九州へ流されることになったが、「もう、やっとられん!」と出家。藤原師長 は尾張に流された。彼は一度、保元の乱の際に、父の悪左府 藤原頼長に連座して土佐へ流罪になった経験がある。なので、「またかいな」と思ったか、風流に通じた人であったので、おぼろ月を見上げ、琵琶を奏でて和歌を詠み、ゆうゆうと月日を送った。藤原道真は大臣流罪であったが、摂政関白の流罪は、これが初めてである。
こうして、二位中将だった 藤原基通 が、清盛 のゴリ押しで、大納言をすっ飛ばして関白に大昇進。これには、もう、皆々呆れかえるばかり。
行隆之沙汰 ( ゆきたかの さた )
故・藤原顕時の子に 藤原行隆 という人がいた。ずっと日陰で生きてきた人だが、ある日、清盛 に呼び出されるや「そなたの父上には、いつも相談に乗ってもらった恩義があるので、そなたを取り立てよう」と言って、荘園を与えられるわ、金は与えられるわ、官職ももらう。ただ、それは、ほんのつかの間の夢であったが。。
法皇被流 ( ほうおう ながされ )
そして、11月20日、後白河法皇 の御所を平家の軍兵が取り囲む。平宗盛 が車を寄せ、「しばらくの間、世を静めるため、鳥羽の北殿へ御幸されたい」との 清盛 の言を伝えた。後白河法皇が「ならば、供をせよ」と命じると、宗盛 は 清盛 に何言われるか知れず、恐れて、お供しなかった。後白河法皇は「兄の重盛と比べて、かなり出来悪いのう。清盛を諌める者もおらず、先が思いやられる」云々と。
鳥羽殿=城南之離宮 に流された 後白河法皇 にはお付きのものがほとんど許されなかったが、清盛 の信用を得ていた 静憲法印 だけは許される。自分の命も危ういかと悲嘆にくれる 後白河法皇 を前に、静憲法印 は「天照大御神* も正八幡宮も、お見捨てになることはありません」と慰めるのであった。
城南之離宮 ( せいなんの りきゅう )
11月21日には、天台座主 覚快法親王の辞退により、前天台座主 明雲大僧正が座主に復帰した。清盛 は一通り改革が終わったと思ったのか、福原へ帰っていった。


この巻の登場人物と他巻リンク

後白河法皇( ごしらかわ ほうおう )

高倉天皇( たかくら てんのう )

安徳天皇( あんとく てんのう )

建礼門院( けんれいもん いん )

平清盛( たいらの きよもり )

平時子( たいらの ときこ )

平重盛( たいらの しげもり )

平維盛( たいらの これもり )

平宗盛( たいらの むねもり )

平重衡( たいらの しげひら )

平教盛( たいらの のりもり )

瀬尾兼康( せのお かねやす )

平貞能( たいらの さだよし )

平盛俊( たいらの もりとし )

明雲( めいうん )

藤原基房( ふじわらの もとふさ )

藤原師家( ふじわらの もろいえ )

藤原師長( ふじわらの もろなが )

藤原基通( ふじわらの もとみち )

静憲( じょうけん )

 後白河法皇の近習。信西の子
 巻三.法印問答
 巻三.法皇被流
 巻一.鹿谷

藤原成経( ふじわらの なりつね )

平康頼( たいらの やすより )

俊寛( しゅんかん )