1.恋は闇夜を昼の国
春の海静かに宝舟の波枕、室津は賑わえる大港なり。ここに酒造れる商人に、和泉清左衛門という在り。家栄えて、よろずに不足なし。しかも、男子に清十郎とて、自然と、生まれつきて「むかし男」(在原業平のこと) を写し、絵にも増さり、その様麗しく、女の好きぬる風俗。
14の秋より色道に身をなし、この津の遊女 87人有りしを、いずれか会わざるは無し。誓紙、千束に積もり、爪は手箱に余り、切らせし黒髪は大綱になわせける。これには悋気深き女も繋がるべし。毎日の届け文、一つの山を成し、紋付きの送り小袖そのままに重ね捨てし。三途の川の姥も、これ見たらば欲を離れ、高麗橋の古手屋も値打ちは成るまし(多すぎて値が付けられない)。「浮世蔵」と戸前に書き付けて、詰め置きける。
「この戯け、いつの世に上がりを請くべし(値上がりを待っているのか)。追っ付け、勘当帳に付きてしまうべし」と、見る人これを歎きしに、止めがたきは、この道。
その頃は、皆川といえる女郎に相い馴れ、大かたならず命に掛けて、人のそしり・世の取り沙汰、何とも思わず。月夜に灯燈を昼ともさせ、座敷の立具さしこめ、昼のない国をして遊ぶ所に、こざかしき太鼓持ちを、あまた集めて、番太か拍子木、コウモリの鳴き真似。やり手に門茶を燒せて歌念仏を申し、死にもせぬ「久五郎がため」とて、尊霊の棚を祭り、楊枝燃やして送り火の影。
夜するほとの事をし尽くして、後は世界の図にある「裸島」とて、家うち残らず女郎は嫌がれど、無理に帷子脱がせて肌の見ゆるを恥ける。中にも吉崎といえる十五[かこい] 女郎、年月隠し来たりし腰骨の「白なまず」(皮膚病のひとつ)見付けて、「生きながらの弁財天様」と、座中拝みて興醒めける。その他、気を付くるほど見苦しく、後は次第に白けて、おかしからず。
かかる時、清十郎親仁、腹立ち重なり、この宿に訪ね入り。思いもよらぬ、にわか風。荷をのける間も無ければ、
「これで、焼け止まりますほどに、赦し給え」と、様々に詫びても聞かず。
「兎角は、すぐに、いづ方へも。お暇申して、さらば」とて帰られける。
皆川をはじめ、女郎泣き出して、訳もなうなりける。太鼓持ちの中に「闇の夜の治介」という者、少しも驚かず、
「男は裸か百貫。たとえ、てらしても(ふんどし一つでも)世は渡る。清十郎様、急き給うな」と言う。この中にもおかしく、これを肴にして、また酒を飲みかけ、せめては浮きを忘れける。
早や、揚屋には験[げん] を見せて、手たたきても返事せず、吸物の出時淋しく「茶飲も」と言えば、両の手に天目二つ。帰りさまに油火の灯心を減して行く。女郎それぞれに呼びたつる。さてもさても、替(かわる)は色宿の習い。人の情は一歩小判あるうちなり。
皆川が身にしては悲しく、独り、後に残り、涙に沈みければ、清十郎も口惜しきとばかり、言葉も命は捨つるに極めしが、この女の「同じ道に」と言うべき事を悲しく、とやかく物思ううちに、皆川、色を見すまし、
「かた様は身を捨て給わん御気色。さりとては、さりとては、愚かなり。わが身事も共に、と申したき事なれども、いかにしても世に名残りあり。勤めはそれぞれに替る心なれば、何事も昔、昔。これまで」と立ち行く。
さりとは思惑違い。清十郎も我を折って(気持ちが挫け)、
「いかに傾城なればとて、今までのよしみを捨て、浅ましき心底。こうは有るまじき事ぞ」と涙をこぼし立ち出ずる所へ、皆川、白装束して駆け込み、清十郎にしがみつき、
「死なず、いずくへ行き給うぞ。さあさあ、今じゃ」と剃刀一対出しける。清十郎、また、さしあたり「これは」と悦ぶ時、皆々出合い、両方へ引き分け、皆川は親方の元へ連れ帰れば、清十郎は人々取り巻きて、内への御詫言の種にもと、旦那寺の永興院へ送り届けける。
その歳は 19。出家の望み、あはれにこそ。
2.くけ帯より露わるる文
「やれ、今の事じゃ! 外科よ、気付けよ!」と立ち騒ぐほどに、「何事ぞ?」と言えば、「皆川、自害!」と皆々歎きぬ。「まだ、どうぞ」と言ううちに、脈があがる(絶えた)とや。さても是非無き世や。
10日あまりもこの事を隠せば、清十郎死に遅れて、「つれなき人の命」、母人の申し越されし一言に、惜しからぬ身を長らえ、永興院を忍び出、同国、姫路によしみあれば、密かに立ち退き、ここに訪ね行きしに、昔を思い出して悪しくは当たらず。日数ふりけるうちに、但馬屋九右衛門といえる方に、店を任する手代を訊ねられしに、後々はよろしき事にもと(後々、いい具合になるだろうと)、頼みにせし宿の肝入られて、初めて奉公の身とは成りける。
人たるものの、育ち卑しからず、志優しく、優れて賢く、人の気に入るべき風俗なり。殊に女の好る男振り、いつとなく身を捨て恋に飽き果て、明け暮れ律儀構え勤めけるほどに、亭主も万事を任せ、金銀の貯まるを嬉しく、清十郎を末すえ頼みにせしに。
九右衛門妹に、お夏といえるありける。その歳 16まで男の色好みて(選り好みして)、今に定る縁も無し。されば、この女、田舎にはいかにして(もちろんのこと)、都にも素人女には見当たる事なし。「この前、島原に上羽の蝶を紋所に付けし太夫ありしが、それに見増すほどなる美形」と、
京の人の語りける。ひとつ、ひとつ言うまでもなし。これになぞらえて思うべし。情のほども、さぞあるべし。
ある時、清十郎、竜門の不断帯、中居のかめと言える女に頼みて、
「この幅の広きをうたてし(嫌だ)、良きほどにくけ直して(仕立て直して)」と頼みしに、そこそこに解きければ、昔の文名残ありて、取り乱し読み続けけるに、紙数 14,5枚ありしに、宛名皆「清さま」とありて、裏書きは違いて、花鳥・浮舟・小太夫・明石・卯の葉・筑前・千壽・長州・市之丞・こよし・松山・小左衛門・出羽・みよし、皆々、室君の名ぞかし。
いずれを見ても、皆、女郎の方より深くなづみて(恋慕して)、気を運び、命を取られ、勤めの艶らしき事(お世辞めいた事)は無くて、誠を込めし筆の歩み、これなれば傾城とても憎からぬものぞかし。また、この男の身にしては浮世狂いせし甲斐こそあれ。
※
鏑木清方『 お夏清十郎物語(一)』
1939 (S14) ■ 神奈川県立近代美術館
『さて、内証に(内面に)しこなしの良き事もありや。女のあまねく思い付く(みんな惚れこんんだ)こそ、ゆかしけれ』と、いつとなく、お夏、清十郎に思い付き、それより明け暮れ心をつくし、魂、身の内を離れ、清十郎が懐に入りて、我は現がもの言うごとく、春の花も闇となし、秋の月を昼となし、雪の曙も白くは見えず、夕されの時鳥も耳に入らず、盆も正月もわきまへず、後は我を覚えずして、恥は目より表れ、いたずらは言葉にしれ、世になき事にもあらねば、「この首尾、何とぞ(想いを遂げさせてやりたい)」と、付きづきの女も、あはれに痛ましく思ううちにも、銘々に清十郎を恋詫び、お物師は針にて血を絞り心のほどを書き遣わしける。
中居は人頼みして、男の手にて文を調べ、袂に投げ込み、腰元は運ばても苦しからざりき茶を店に運び、抱姥は若子さまに事よせ近寄り、お子を清十郎に抱かせ膝へ小便しかけさせ、
「こなたも追っつけ、あやかり給え。私も美しき子を産んでから、お家へ姥に出ました。その男は役に立ずにて、今は肥後の熊本に行きて奉公せしとや。世帯破る時分、暇の状は取っておく。男無しじゃに、ほんにおれは生まれつきこそ横太れ、口小さく、髪も少しは縮みしに。。。」と、したたるき独りごと言うこそ、おかしけれ。下女は、また、それぞれに金杓子片手に、目黒のせんば煮を盛る時、骨かしらを選りて清十郎にと、気をつくるもうたてし。
あなたこなたの心入れ、清十郎身にしては嬉し悲しく、内かたの勤めは外になりて、諸分けの返事に暇なく、後には、これもうたてくと夢に目を開く風情なるに、なお、お夏、便[よすが] を求めて数々の通わせ文、清十郎も、もやもやとなりて、御心には従いながら、人目忙しき宿なれば、上手い事は成り難く。しんいを互いに燃やし、両方、恋に責められ、次第痩せに、あたら姿の替り行く月日のうちこそ是非もなく。ようよう声を聞き合いけるを楽しみに、命は物種。この恋草の、いつぞは、なびきあえる事もと心の通いじに、兄嫁の関を据え、毎夜の事を油断なく中戸をさし、火用心、めし合わせ(引き合わせ戸を閉めること)の車の音、雷よりは恐ろし。
3.太鼓に寄る獅子舞
尾上の桜咲きて、人の妻の様子自慢、色ある娘は母の親ひけらかして、花は見ずに、見られに行くは今の世の人心なり。兎角、女は化け物。姫路の於佐賀部狐 [おさかべ きつね] も、返って眉毛読まるべし。
但島屋の一家、春の野遊びとて、女中駕籠つらせて、後より清十郎、萬の見集め(監督)に遣しける。高砂・曾根の松も若緑立ちて、砂浜の気色、また有るまじき眺めぞかし。里の童子、さらへ手ごとに落葉掻き退け、松露の春子を取るなど、すみれ、つばなを抜きしや、それ珍しく、我も共々の若草少し薄かりき所に、花筵・毛氈敷かせて、海原静かに、夕日、紅、人々の袖を争い、
外の花見衆も、藤・山吹は何とも思わず、これなる小袖幕の内ゆかしく、覗き遅れて帰らん事を忘れ、樽の口を開けて、酔いは人間の楽しみ。万事なげやりて、この女中を今日の肴とて、たんと嬉しがりぬ。
こなたには女酒盛、男とては清十郎ばかり。下じた、天目飲み(一気飲み)に思い出申して(堪能して)、夢を胡蝶に負けず、広野をわが物にして、息杖長く楽しみ、前後も知らず有りける。
その折から、人むら立ちて、曲太鼓・大神楽の来たり。各々の遊び所を見掛け、獅子がしらの身ぶり、さてもさても、仕組みて、皆々立ちこぞりて、女は物見だけくて、ただ何事をも忘れ「ひたもの(ひたすら)所望、所望」と、止む事を惜しみけり。この獅子舞もひとつ所を去らず、美曲のあるほどは尽くしける。
お夏は見ずして、独り幕に残りて、虫歯の痛むなど、少し悩む風情に、袖枕取り乱して、帯はしやら解けを(自然に解けたのを)そのままに、あまたの脱ぎ替え小袖を積み重ねたる物陰に、うつつなき空鼾、心憎し。
※
鏑木清方『 お夏清十郎物語(二)』
1939 (S14) ■ 神奈川県立近代美術館
『かかる時、早や業の首尾もがな』と気のつく事、町女房は、またあるまじき、帥さまなり。清十郎、お夏ばかり残りおわしけるに心を付け、松むらむらと茂き後ろ道より回りければ、お夏招きて結髪の解くるも構わず、ものも言わず、両人鼻息せわしく、胸ばかり躍らして、幕の人見より目を離さず。兄嫁恐く、後の片へは心もつかず、
起きざまに見れば、柴人、壱荷を降ろして鎌を握りしめ、ふんどし動かし「あれは!」というようなる顔つきして心地良げに見て居るとも知らず。まことに、頭隠してや尻とかや。
※
竹久夢二『 お夏清十郎 』
弥生美術館・竹久夢二美術館
この獅子舞、清十郎、幕の中より出でしを見て、肝心の面白い半ばにて止めけるを、見物、興醒めて、残り多き事、山々に霞深く、夕日傾けば、萬を仕舞うて姫路に帰る。思いなしか、早や、お夏、腰つき平たくなりぬ。清十郎、後に下がりて獅子舞の役人に「今日は、おかげ様、おかげ様」と言えるを聞けば、この大神楽は作り物にして手管のために出しけるとは! 賢き神も知らせ給うまじ。ましてや、はしり知恵なる(浅はかな)兄嫁なんどが、何として知るべし。
4.状箱は宿に置いてきた男
乗りかったる舟なれば、飾磨津より暮を急ぎ、清十郎、お夏を盗み出し、上方へ上りて年浪の日数を立て、浮き世帯も二人往みならばと思い立ち、とりあえずも狩り衣、浜びさしの幽かなる所に舟待ちをして、思い思いの旅用意。伊勢参宮の人もあり、大坂の小道具売り、奈良の具足屋、醍醐の法印(山伏)、高山の茶筅師、丹波の蚊屋売り、京の呉服屋、鹿嶋の言ふれ、十人寄れば十国の者、乗り合い舟こそ、おかしけれ。
船頭声高に「さぁさぁ、出します。銘々の心祝いなれば、住吉様へのお初尾(賽銭)」とて、しゃく振って、また、頭数読みて、飲むも飲まぬも七文ずつの集銭出し、間鍋も無くて小桶に汁椀入れて、飛魚のむしり肴、取り急ぎて三盃機嫌。
「各々のお仕合せ、この風、まともで御座る」と、帆を八合もたせて、早や一里あまりも出し時、備前よりの飛脚、横手を打って、
「さても忘たり。刀にくくりながら、状箱を宿に置いてきた」、男、磯の方を見て、「それそれ、持仏堂の脇にもたし掛けて置きました」と、どやきける。
「それが、ここから聞ゆるものか。ありさまに金玉が有るか?」と船中、声々に喚けば、この男、念を入れてさぐり、
「いかにも、いかにも、二つこざります」と言う。いずれも大笑いになって、
「何事もあれじゃもの。舟を戻してやりやれ」とて、舵取り直し、港に入れ、「今日の門出、悪しや」と、皆々腹立して、
※
鏑木清方『 お夏清十郎物語(三)』
1939 (S14) ■ 神奈川県立近代美術館
ようよう舟汀に着ければ、姫路より追手の者、ここかしこに立ち騒ぎ、もし、この舟にありや? と人改めけるに、お夏、清十郎、隠れかね、「悲しや」という声ばかり。
あはれ知らずども、これを耳にも聞き入れず、お夏は厳しき乗り物に入れ、清十郎は縄をかけ姫路に帰りける。またも無き歎き、見し人、不憫をかけざるは無し。
その日より座敷牢に入れて、憂き難義のうちにも我身の事は無いものにして、
「お夏は? お夏は?」と口走りて、
「その男めが状箱忘れねば、今時分は大坂に着きて、高津あたりの裏座敷借りて、年寄りたかが一人使うて、まず、50日ばかりは、夜昼無しに肩も替えずに寝るはずに。お夏と内談したもの、皆、昔になる事の口惜しや。誰ぞ殺してくれいかし。さても、さても、一日の長き事、世に飽きつる身や」と、舌を歯にあて、目を塞ぎし事、千度なれども、まだ、お夏に名残りありて、
「今一たび、最後の別れに美形を見る事もがな」と、恥も人の誹りもわきまへず、男泣とはこれぞかし。番の者ども見る目も悲しく、色々に諌めて日数をふりぬ。
お夏も同じ歎きにして、7日のうちは断食にて、願状を書きて室の明神へ命乞し奉りにけり。不思議や、その夜半と思う時、老翁、枕上に立たせ給ひ、あらたなる御告なり。
「汝、我言う事をよく聞くべし。総じて世間の人、身の悲しき時いたって無理なる願い、この明神がままにもならぬなり。にわかに福徳を祈り、人の女を忍び、悪き者を取り殺しての、降る雨を日和にしたいの、生まれつきたる鼻を高うして欲しいのと、様々の思い事、とても叶わぬに、無用の仏神を祈り、やっかいを掛ける。
過ぎにし祭にも、参詣の輩、18,016人、いずれにても大欲に身の上を祈らざるは無し。聞きておかしけれども、散銭投げるが嬉しく、神の役に(神の役目だと思って)、聞くなり。
この参りの中に、ただ一人、信心の者あり。高砂の炭屋の下女、何心もなく、足手息災にて、『また、参りましょ』と拝みて立ちしが、こ戻りして『私もよき男を持たしてくださりませい』と申す。『それは出雲の大社を頼め。こちは知らぬ事』と言うたれども、ゑ聞かずに下向しけり。
その方も、親兄次第に男を持たば別の事も無いに、色を好みて、その身もかかる迷惑なるぞ。汝、惜しまぬ命は長く、命を惜しむ清十郎は、やがて最期ぞ」
と、ありありとの夢悲しく、目を覚まして心細くなりて泣き明しける。
案のごとく、清十郎、召し出されて、思いもよらぬ詮義に遭いぬ。但馬屋内蔵の金戸棚にありし小判 700両、見えざりし。「これは、お夏に盗み出させ、清十郎取りて逃げし」と言いふれて、折ふし悪く、この事、理り立ちかね、哀れや、25の 4月18日に、その身を失いける。さても、はかなき世の中と、見し人、袖は村雨の夕暮を争い、惜み悲しまぬは無し。
その後、6月の初め、よろずの虫干しせしに、かの 700両の金子、置き所変わりて車長持より出でけるとや。「物に念を入るべき事」と、子細らしき(分別のありそうな)親仁の申しき。
5.命のうちの七百両の金
何事も知らぬが仏、お夏、清十郎がはかなくなりしとは知らず、とやかく、もの思う折ふし、里の童子の袖引き連れて「清十郎殺さば、お夏も殺せ」と歌いける聞けば心に懸りて、お夏育てし姥に訊ねければ、返事しかねて涙をこぼす。さては! と狂乱になって、生きて思いをさしようよりもと、子供の中に交わり音頭取って歌いける。
※
鏑木清方『 お夏清十郎物語(四)』
1939 (S14) ■ 神奈川県立近代美術館
皆々、これを悲しく、様々止めてもやみがたく。間もなく涙雨降りて、
「向かい通るは清十郎ではないか。笠がよく似た、すげ笠が。やはんはは」の、けらけら笑い。
麗しき姿、いつとなく取り乱して狂い出ける。ある時は山里に行き暮れて、草の枕に夢を結べば、そのままに。
※
勝田哲『 お夏 』
1926 (T15) 京都市美術館
つき付きの女も自ずから友みたれて(気が変になって)、後は皆々、乱人(狂人)となりにけり。
清十郎、年ころ語りし人ども、「せめては、その跡残しおけ」とて、草芥を染し血をすすぎ、屍を埋みて、印に松柏を植えて「清十郎塚」と言い触れし。世のあはれは、これぞかし。お夏は夜毎に、この所へ来りて弔いける。そのうちに、まざまざと昔の姿を見し事、疑い無し。
※
鏑木清方『 お夏清十郎物語(五)』
1939 (S14) ■ 神奈川県立近代美術館
それより日を重ね百ヶ日にあたる時、塚の露草に座して、守り脇指を抜きしを、ようよう引き止めて、
「ただ、今、むなしゅうなり給いて、ようなし(益なし)。誠ならば、髪をも下させ給い、末すえ、無き人を問い給うこそ、菩提の道なれ。我々も出家の望み」と言えば、お夏、心を静め、皆々が心底察して『ともかくも、いずれもが指図は漏れじ(指図にしたがいます)』と正覚寺に入りて、上人を頼み、16の夏衣、今日より墨染にして、朝に谷の下水を結び上げ、夕べに峯の花を手折り、夏中は毎夜手灯かかげて大経の勤め怠らず、有難き比丘尼とは成りぬ。
※
鏑木清方『 お夏清十郎物語(六)』
1939 (S14) ■ 神奈川県立近代美術館
これを見る人、殊勝さまして「伝え聞く、中将姫の再来なるべし」と、この庵室に但馬屋も発心起こりて、右の金子(例の 700両)、仏事供養して清十郎を弔いけるとや。その頃は上方の狂言に成し、遠国、村々里々まで二人が名を流しける。
これぞ、恋の新川、舟を作りて想いを乗せて、泡沫のあはれなる世や。