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「古事記」と絵画

日本の絵画には「古事記」を扱った歴史画の作品がいくつもあります。このページでは 「古事記」のストーリーに合わせて、それらの絵画作品を紹介していきます。

天上界である “髙天原”
(たかあま の はら)
における最初の神は 天之御中主神
(あめの みなかぬし の かみ)
。 次に 高御産巣日神
(たかみ むすひ の かみ)
。 そして 神産巣日神
(かみ むすひ の かみ)
。 次に葦の芽のようにして成った神が 宇摩志阿斯訶備比古遲神
(うまし あしかび ひこぢ の かみ)
、天之常立神
(あめの とこたち の かみ)
。 以上が、別天つ神の五柱。
その次に神世七代として成ったのが 國之常立神
(くにの とこたち の かみ)
、 豊雲野神
(とよくに の かみ)
、 宇比地邇神
(うひぢ に の かみ)
& 妹須比智邇神
(いもす ひぢに の かみ)
、 角杙神
(つの ぐい の かみ)
& 妹活杙神
(いもいく ぐい の かみ)
、 意富斗能地神
(おほとの ぢ の かみ)
& 妹大斗乃辨神
(いも おほとの べ の かみ)
、 妹母陀流神
(おも だる の かみ)
& 妹阿夜訶志古泥神
(いも あやかし こね の かみ)
、 そして 伊邪那岐命
(いざなき の みこと)
伊邪那美命
(いざなみ の みこと)
である。
この 伊邪那岐命 と 伊邪那美命が2人で "天の浮橋"
(あめの うきばし)
に立って最初の島を作り、そして日本の国土が造られていった。
そして、伊邪那美命 は次々と子の神たちを産んでいくが、火の子を産む際に大火傷を負い、その傷がもとで死んでしまう。
木村武山伊邪那岐・伊邪那美命 』1904-06 (M37-39)頃 笠間稲荷美術館
 
冨田溪仙『 伊弉諾尊・伊弉冉尊 』不明 福岡市美術館  

伊邪那美命 が忘れられない 伊邪那岐命 は、彼女を生き返らせようと黄泉の国へ行くのだが、時既に遅く、伊邪那美命 は死の世界のものを食べてしまっていたため、もはや生き返られなくなっていた。しかも、姿はゾンビと化していたのである。伊邪那岐命 は 1,500 のゾンビたちに追われて出口である "黄泉比良坂"
(よもつ ひらさか)
を登って必死に逃げる。
青木繁黄泉比良坂 』1903 (M36) 東京藝術大学大学美術館
逃げ切れはしたものの、伊邪那美命 を救えずに頭を抱えて帰る 伊邪那岐命。
このあたりは、ギリシャ神話の オルフェウス と エウリュディケ の話と似ている。
黄泉の国から戻った 伊邪那岐命 は穢れを落とすために禊を行い、そこから、いくつもの神が生まれる。禊の最後に生まれたのが 天照大御神
(あまてらす おほみかみ)
、月讀命
(つくよみ の みこと)
、そして 建速須佐之男命
(たけはや すさのを の みこと)
である。
日輪
天照大御神 は太陽神として髙天原で 昼の世界を、月讀命 は夜の世界を、そして、須佐之男命 は海原を治めるよう、伊邪那岐命 から任命された。
横山大観肇国創業絵巻 』日輪(天照大神御神徳)
  1939 (S14) 皇居三の丸尚蔵館
ところが、母を知らない子である 須佐之男命 は仕事もせずに『 かーちゃんに会いたいよ~、会いたいよ~ 』と泣いてばかりいた。"Mother you had me, but I never had you♪" 父の 伊邪那岐命 は『 うるさい! 出てけ~ 』と、髙天原から追い出してしまう。
須佐之男命 は 天照大御神 の所に暇乞いに来るのだが、彼女の警戒心が強いため、双方で相手の持ち物を噛み砕いては、ぷっと吹いて互いに子を産みだすことで誓いを立てた。天照大御神 の勾玉から生まれたのが 天之忍穂耳命
(あめの おしほ の みみ の みこと)
、 天之菩卑命
(あめの ほひ の みこと)
、 天津日子根命
(あまつ ひこね の みこと)
等。
しかし、その後、須佐之男命 は『 ねーちゃんに勝った勝った!』と暴れて回る。あぜ道を壊したり、水路を埋めたり、新米を食する神聖なる大嘗祭の御殿で ぶりぶりと うんこしたり、果てには馬の皮を剥いで機織り部屋に投げ込んでは、機織姫を死なせてしまった。
天照大御神 は彼の乱暴が恐ろしくなって “天の岩屋戸”
(あめの いはやと)
に身を隠してしまう。世を照らす 天照大御神 が身を隠したことで、髙天原も 地上界の “葦原中國”
(あしはら の なかつくに)
も真っ暗闇になってしまった。
困った神々たちは、天照大御神 に岩屋戸から出てきてもらうために 高御産巣日神 の子の 思金神
(おもいかね の かみ)
に戦略立案させた。鶏をたくさん集めて鳴かせ、八尺の鏡と数多くの美しい勾玉を作成した。そして、天の岩屋戸の前での乱痴気騒ぎを始めるや、天宇受賣命
(あめ の うずめ の みこと)
の裸踊りで、どっと盛り上がる。
天照大御神 が外の楽しそうな騒ぎが気になって岩戸をちょこっと開けて『 何が起きてるの?』と聞くや、天宇受賣命 が『 良い神様がおられまして。はい、この方です 』 と、鏡に 天照大御神 を写す。『 え? 』と、身を乗り出したところを 手力男神
(たぢから お の かみ)
が 天照大御神 の手を取って一気に引き出したことで光が戻ることになる。
梶田半古『 天宇受売命 』1897-1906(M30代) 福富太郎コレクション資料室
 
小杉未醒(放菴)『 天のうづめの命 』 1951 (S26) 出光美術館  
 
都路華香『 岩戸開き図 』1909 (M42) 髙島屋史料館
 
高橋天山『 古事記 』
(ふることふみ)
2009 (H21)
この鏡が “八尺鏡
(やた の かがみ) 日本書紀では「八咫鏡」
、勾玉が “八尺瓊勾玉
(やさかに の まがたま)
であり、これらが後の "三種の神器"。

この不祥事を起こした 須佐之男命 は罪を問われ、髙天原から追放される。地上に降りた彼が 大氣津比賣神
(おおげつ ひめ の かみ)
に食べるものを乞うたところ、この神は鼻や口、尻から食べ物を出して調理した。それを見ていた 須佐之男命 は『 げー、穢ったね~! 』と斬り殺してしまった。 そうしたら、その死体の頭から蚕、目から稲、耳から粟、鼻から小豆、股から麦、尻から大豆が出て来たのであった。これらが種となったのである。
 
古澤岩美『 オオゲツヒメ 』 1989 (H01) 鳥栖市
その後、出雲の国に行くや、その地の娘 櫛名田比賣
(くしなだ ひめ)
が、間もなく “八俣大蛇
(やまた の をろち)
に食べられてしまうということを知る。これを助けるために彼は8個の酒樽を用意し、それを大蛇に飲ませて酔い潰れたところを斬り倒して退治。その切り刻んだ尾の中から太刀が出てきたのだが、これが後に “草薙の剣
(くさなぎのけん)
と呼ばれる剣である。 須佐之男命 は、この剣を 天照大御神 に献上し、これも三種の神器の一つとなる。
菱田春草稲田姫(奇縁)』 1899 (M32) 水野美術館
 
小杉未醒(放菴)『 古事記八題 』八岐大蛇 1941 (S16) 出光美術館
 
川村清雄『 素戔鳴尊図屏風 』 不明 細見美術館
 
狩野時信『 素戔鳴神 稲田姫神 脚摩乳神・手摩乳神 』17C 出雲大社
"草薙の剣" は平家が壇ノ浦で敗北する際に 安徳天皇 と共に海底に沈み、その後、どうしても見つけ出せなかった。当時の人は『 須佐之男命に剣を取られた八俣大蛇が、後の世に帝となって現れ、霊剣を取り返していったのだ 』と話したという。→ 平家物語
こうして 須佐之男命 は 櫛名田比賣 を妻として娶り、性格もまともな大人になって宮を造って住まう。
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を
しかし、その後、やはり、会ったことの無い母が、どーしても恋しくて、黄泉に近い “根の堅州國”
(ねの かたす くに)
へ行ってしまうのだった。

須佐之男命 の 6代後の孫が 大穴牟遅神
(おほな むぢ の かみ)
である(後の 大國主神)。 たくさんいる異母兄弟の末っ子であった 大穴牟遅神 は、可哀相に、いじめられっ子であり、しょっちゅう、兄たち=八十神
(やそがみ)
に苛められていた。
ある日、因幡の地に 八上比賣
(やがみ ひめ)
という美人がいることを知った 八十神 たちは、求婚の旅に出る。( その道すがら、大穴牟遅神 は、鰐鮫をからかったことで皮をはがされ瀕死の状態にあった白うさぎを救う。)
因幡に着いた 八十神 たちは、それぞれ 八上比賣 に求婚するのだが、全員フラれてしまう。彼女は『 大穴牟遅神さんが良いわ 』と言うのである。これには 八十神 たちは激怒。恋の恨みは怖い。帰りの道すがら『 この山に赤い猪がいる。オレ達が追い落とすから麓で捕まえろ 』と言って、大きな岩を真っ赤に焼いて転げ落とした。純な末っ子である 大穴牟遅神 は、それを体で受け止めて、そして焼け死んでしまった。
この事を知った彼の母神が『 助けてください!』と、髙天原の 神産巣日之命 にすがると、𧏛貝比賣
(きさがひ ひめ)
と 蛤貝比賣
(うむぎ ひめ)
が遣わされた。貝殻を削って粉にし、それを蛤のエキスで溶いて 大穴牟遅神 の体に塗ると、彼は生き返ったのである。
青木繁大穴牟知命 』1905 (M38) アーティゾン美術館
大穴牟遅神 は、その後も 八十神 たちに殺されそうになったため、須佐之男命 が支配する根の堅州國へと逃げ込んだ。そこで 須佐之男命 の娘である 須勢理毘賣
(すせり びめ)
と出逢い、出逢った瞬間、2人は恋に落ちてしまう。
しかし、父の 須佐之男命 は娘を渡すことに、すんなりとは OKを出してくれない。いくつもの死にそうになる試練を課せられて、須勢理毘賣 から回避策を受けつつ、それぞれクリアはしていくものの、さすがに『 こりゃたまらん。逃げ出すしかない 』と意を決した 大穴牟遅神 は、須佐之男命 が眠っている隙に、太刀と弓矢と琴を失敬した上で、須勢理毘賣 を背負って駆け落ちに成功するのである。
こうして 大穴牟遅神 は、その太刀と弓矢をもって 八十神 たちを全て倒し、大國主神
(おおくにぬし の かみ)
と名乗り、葦原中國の出雲地方を統率し、さらに国造りを進めていった。葦ばかり茂っていた土地も、稲穂の垂れる国土へとなっていった。
 
中村岳陵 『 肇国創業絵巻 』豊葦原瑞穂国 1939 (S14) 皇居三の丸尚蔵館

さて、天照大御神 は息子の 天之忍穂耳命 が葦原中國を治めなければいけないとした。思金神 を中心に検討させた結果、まず、天菩比神 を遣わすことになった。しかし、彼は 大國主神 によって、いいように丸め込まれてしまい、3年間も音信不通となった。
なので、再度、思金神 らに検討させると『 天若日子
(あめ の わかひこ)
が良いでしょう 』となった。ところが、天の弓矢を持たせて派遣された 天若日子 も、またもや 大國主神 の娘と結婚して8年間も居座ってしまう。報告が無いことに不満な 天照大御神 と 高御産巣日神 が 思金神 らの神々に諮問するや、今度は雉の "鳴女" に確認に行かせることになった。その、ぺちゃくちゃしゃべる雉に対して、天若日子 は『 るっせぇ!』と天の弓矢で射貫くと、その矢は髙天原まで飛んで行ってしまった。血の付いた矢を見た 高御産巣日神 が『 もし、彼に邪心あれば当たれ 』と飛ばし返すと、その矢は 天若日子 のみぞおちに命中して死亡する。
こうして、ついに超怪力で変幻自在の 建御雷神
(たけ みかづち の かみ)
が遣わされることになる。大國主神 に『 国を譲られよ 』と伝えるに、彼は2人の息子である『 八重言代主神
(やえ ことしろ ぬし の かみ)
と 建御名方神
(たけ みなかた の かみ)
に聞いてくだされ 』と答える。 八重言代主神 は『 献上します 』と答え、乗っていた船を踏み傾けて "天の逆手" を打つや青い柴垣に変化させて中に籠ってしまった。次に怪力の 建御名方神 がやってきて 建御雷神 の手を掴むと、建御雷神 は氷に変化し剣と成った。逆に 建御雷神 が 建御名方神 を握るや、掴みつぶして投げ飛ばした。恐れをなした 建御名方神 は諏訪湖まで逃げるのだが、そこで観念。
 
小杉未醒(放菴)『 古事記八題 』1941 (S16) 出光美術館
大国主命国土奉献
ここに至って 大國主神 は国を譲ることにする。 彼は国譲りの条件として『 大きな祠を造って自分を祀ってほしい 』と願い出た。これが出雲大社の神殿である。
菊池契月『 肇国創業絵巻 』大国主命国土奉献
  1939 (S14) 皇居三の丸尚蔵館

こうした争いの末、当初の予定の通り、天之忍穂耳命 に葦原中國を統治するよう指示される。ところが、この間に子供ができていたので、その子、つまり 天照大御神 の孫 = 天津日高日子番能邇邇藝命
(あまつ ひこひこ ほの ににぎ の みこと)
が遣わされることとなった。"天孫降臨" である。この際、神の証として渡されたのが、三種の神器の "八尺鏡" と "八尺瓊勾玉" と "草薙の剣"。
邇邇藝命 が日向・高千穂の地に降りようとしたところ、“天の八衢”
(あめの やちまた)
という場所に怖い形相の神が立っている。天照大御神 と 高御産巣日神 が『 あんたは眼力が強くて、もの怖じせんから良いわ 』と 天宇受賣命 に確認に行かせる。すると、それは 猿田毘古神
(さるだ びこ の かみ)
という國つ神であり、道案内を買って出ていたものであった。
 
安田靫彦『 肇国創業絵巻 』瓊々杵尊降臨 1939 (S14) 皇居三の丸尚蔵館
 
安田靫彦『 天之八衢 』 1939 (S14) 福井県立美術館
 
小杉未醒(放菴)『 古事記八題 』猿田彦 1941 (S16) 出光美術館
降臨した 邇邇藝命 が妻としたのが 木花佐久夜毘賣
(こ の はな の さくや びめ)
。彼女の美しさに惹かれて求婚したところ、父親は姉も一緒に遣わしたのだが、邇邇藝命 は『 ぐへ、姉の方は可愛くないや 』と送り返してしまった。これは後の災いとなる。
このあたりは、妹のラケルと結婚したはずなのに、姉のレアが初夜の床に送られた旧約聖書の ヤコブの話 に似ているところがある。
さて、早々にハネームーン・ベイビーが出来てしまったことに、邇邇藝命 は『 それはオレの子じゃない。他の男のだろ? 』 と冷たい言葉を吐いてしまう。怒り悲しんだ 木花佐久夜毘賣 は 『 天の神の子であれば火の中でも生まれて来るでございましょう 』と、土で固めた家の中に籠もり、そこに火をつけて出産したのである。
堂本印象木華開耶媛 』 1929 (S04) 京都府立 堂本印象美術館  
 
石井林響 『 木華開耶媛 』 1906 (M39) 千葉県立美術館  
 
森田曠平『 木花咲耶姫 』 1975 (S50) 平野美術館
 
安田靫彦『 木花之佐久夜毘売 』 1953 (S28)

木花佐久夜毘賣 が火の中で産んだのが、火照命
(ほでり の みこと)
・ 火須勢理命
(ほすせり の みこと)
火遠理命
(ほをり の みこと)
。兄の 火照命 = “海幸彦”
(うみさちひこ)
であり、海の幸を多く収穫。三男の 火遠理命 = “山幸彦”
(やまさちひこ)
であって、山の幸をたくさん収穫していた 。
山幸彦 は、自分も釣りがしたくて、兄の 海幸彦 に、ねだってねだって、やっとのこと釣り竿を借りて海に釣りにいくのだが、釣り針を魚に取られてしまう。素直に謝って剣を潰して代替の針も提出するのだが、『 その針そのものを返せ!』 と、頑固で意地悪な兄は許してくれない。
今村紫紅海の幸山の幸 』1908 (M41)
    アーティゾン美術館
困った 山の幸 が海の沖へと針を探しに行くと、そこには、魚鱗
(いろこ)
のように造られた 綿津見神
(わたつみ の かみ)
の宮があった。火遠理命 は、この、海神
(わたの かみ)
の娘の 豊玉毘賣命
(とよたま びめ の みこと)
を妻とし、ココで3年の月日を過ごす。
無くした釣り針を返さなければと思い出した彼は、海の神に頼んで魚たちにそれを探し出してもらう。火遠理命 は陸へと戻り、その後、海の力をもって、兄の 火照命 を従えることになる。
青木繁わだつみのいろこの宮 』 1907 (M40) アーティゾン美術館
小杉未醒(放菴)『 山幸彦 』 1917 (T06) アーティゾン美術館
火遠理命 と 豊玉毘賣命 の間に生まれたのが、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命
(あまつ ひこひこ なぎさ たけ うがやふき あへず の みこと)
。豊玉毘賣命 が『 お産のところを絶対見ないでね 』とお願いしていたのに、火遠理命 は産屋の中を覗いてしまう。それが、なんと、豊玉毘賣命 は実はサメの化身であったのだ! 正体が知れて恥ずかしい彼女は海へ帰るが、子育てが心配なため、歌を添えて、妹の 玉依毘賣
(たまより びめ)
を送った。
赤玉は 緒さへ光れど 白玉の 君が装し 貴くありけり
そして、後に、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命 は、その叔母である 玉依毘賣 との間に、五瀬命
(いつせの みこと)
神倭伊波禮毘古命
(かむやまと いはれびこの みこと)
(後の 神武天皇)らの子をもうける。

ある日、神倭伊波禮毘古命 は、兄の 五瀬命 と共に『 もっと広く国を治めよう 』と、日向の地を出て東進を始める。筑紫から安芸、吉備を経て難波に入る。
 
岩田正巳『 肇国創業絵巻 』神武天皇日向御進発 1939 (S14) 皇居三の丸尚蔵館
 
安田靫彦『 神武天皇日向御進発 』 1942 (S17) 歌舞伎座
彦五瀬命御奮戦
ここで、大和の 登美の 那賀須泥毘古
(ながすね びこ)
が戦を仕掛てきて 五瀬命 は深手の傷を負ってしまう。『 日の神の子なのに、陽に向かって戦をしたからいけなかったのだ 』と反省し、海路を紀伊地方に回って東から西に向かうことにする。しかし、紀伊の "男の水門" に着いたところで、五瀬命 は失意のうちに死んでしまった。
長野草風『 肇国創業絵巻 』彦五瀬命御奮戦 1939 (S14) 皇居三の丸尚蔵館
神倭伊波禮毘古命 たちが苦戦しているのを天上から見ていた 天照大御神 と 高御産巣日神 は、再び 建御雷神 を遣わそうとしたのだが、建御雷神 は『 この剣があれば、私が行くまでもありますまい 』と言って "佐士布都神"
(さじふつ の かみ)
という剣を天上から落す。
また、“八咫烏
(やたがらす)
も授けられ、その先導を受けて、神倭伊波禮毘古命 は吉野の山を越えて大和の地を平定していく。
 
前田青邨『 肇国創業絵巻 』熊野御難航 1939 (S14) 皇居三の丸尚蔵館
 
吉村忠夫『 肇国創業絵巻 』布都御魂の剣 1939 (S14) 皇居三の丸尚蔵館
 
服部有恒『 肇国創業絵巻 』金鵄の祥瑞 1939 (S14) 皇居三の丸尚蔵館
 
中村岳陵『 肇国創業絵巻 』饒速日命帰順 1939 (S14) 皇居三の丸尚蔵館
木村武山神武天皇 』S初期 講談社野間記念館
橿原宮
こうして、紀元前 660年 2月11日、神倭伊波禮毘古命 は 神武天皇
(じんむ てんのう)
として橿原宮にて御即位となる。この日が、今日の「建国記念日」。
吉村忠夫『 肇国創業絵巻 』橿原宮御即位 1939 (S14) 皇居三の丸尚蔵館
『 肇国創業絵巻 』
(ちょうこく そうぎょう えまき)
は 1940 (S15)年に神武天皇即位 2600年を記念して開催された「紀元二千六百年奉祝美術展覧会」に出品された、2巻・11図からなる日本創世神話を描いたもの


時代は下りて 第12代が 景行天皇。その三男が 小碓命
(をうす の みこと)
(後の 倭建命)である。小碓命 は父に忠誠心が高いものの、荒ぶる性格であった。
景行天皇が、とある 2人の姫を宮に上がらせようと、次男の 大碓命
(おほうす の みこと)
を使いに出したところ、こともあろうに 大碓命 は 2人を横取りして自分の妻にしてしまう。不審に思った景行天皇が 小碓命 に確認に行かせると、事情を知る 小碓命 は 大碓命 がトイレに入ったところで有無も言わさずに手足をひきもがいて殺してしまった。さすがに、その異常な性格を憂えた天皇は 小碓命 に西国の平定を命じる。
小碓命 が西国の猛者である 熊曽建
(くまそ たける)
兄弟の所へ行くと、ちょうど新築祝いの席があることを知る。そこに女装して入り込み、宴もたけなわの際に、兄の 熊曽建 の胸をズブリと刺して殺した。階下に逃げる弟の 熊曽建 を追って背後から尻に剣を突き通すと、その 熊曽建 が『 た、頼む! 剣を動かさないでくれ。俺たちは西国で最強だが、大倭の国にもっと強い者が居たのか。俺の名前を献上するから引き継いでくだされ 』と言った。そのため、小碓命 は 倭建命
(やまと たける の みこと)
と名を変えることになった。そして、熟した瓜を切るように弟の 熊曽建 を振り裂いたのであった。
 このように、女装可・俊敏・狂暴なところは、ギリシャ神話 トロイア戦争の アキレウス と似ている。
その後、出雲の国では 出雲建 を騙し討ちし、彼は大和に凱旋するのだが、景行天皇からは、さらに東国の平定を命ぜられる。
東征の前に伊勢の 天照大御神 の神宮に参拝すると、神宮の斎王である叔母の 倭比売命
(やまと ひめ の みこと)
に『 父は、僕が死ぬのを望んでられる 』と嘆く。彼女は 倭建命 に "草薙の剣" と小袋を渡し、『 もしもの事が起きたら、この袋を解くように 』と言った。
東国の相模国
(現在の静岡県焼津市)
で、そこの国造に『 沼に荒神が居るので退治してほしい 』と頼まれる。草海原を進んで行くに、背後から野火が追ってくることに気づき、自分が謀られたことを知る。倭比売命 にもらった小袋を開くと火打ち石が入っていた。手にした "草薙の剣" で周りの草を切り倒し、逆に向かい火によって食い止めて脱出するや、その国造らをことごとく斬り殺した。
堂本印象火退 』(ほそけ) 1938 (S13) 皇居三の丸尚蔵館
 
安田靫彦『 草薙の剣 』 1973 (S48) 川崎市市民ミュージアム
 
藤田嗣治 『 日本昔噺 』草薙の剣 1923 (T12)
 
高橋由一『 日本武尊 』1891 (M24)頃 東京藝術大学大学美術館  
さらに東へと進め、走水の海
(浦賀水道)
を渡る時に、波が非常に荒く、船を進めることができなくなった。そのとき、妻(の一人)である 弟橘比賣命
(おとたちばな ひめ の みこと)
が、『 私が代わりに人柱となって海が静まるように致します 』 といって入水する。
さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも
こうして、ようやく荒波が収まる。7日後に后の櫛が浜に流れ着いた。
青木繁大和武尊 』 1906 (M39) 東京国立博物館
 
伊東深水『 弟橘媛 』 1942 (S17) 神宮徴古館
 
橋本雅邦『 大和武尊像 』 1893 (M26)頃 山種美術館
 
安田靫彦『 大和武尊御影図 』 不明 佐久市立近代美術館
 
安田靫彦『 大和武尊 』 1943 (S18)

この後も東国を平定していくのだが、大和への帰還途中、伊吹山に入って鉢合わせた山の神の化身である大きな白いイノシシに敬意を払わなかったがために祟られて、急速にパワーを失う。杖がなければ歩けなくなり、終に能煩野の地
(現在の三重県亀山市)
にて力尽きる。
死の直前の句。
倭は 國のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し うるはし
命の 全けむ人は 疊薦 平群の山の 熊白檮が葉を 髻華に挿せ その子
訃報を聞いて大和から飛んできた后と子供たちは涙にむせんで 倭建命 を埋葬した。
と、その時、そこから大きな一羽の白い千鳥が飛び立った。后と子供たちは、その鳥を追った。竹の刈り株に足が切り裂かれて血だらけになっても、痛みを忘れて、声を上げて哭きながら追って行った。
淺小竹原 腰なづむ 空は行かず 足よ行くな
浜辺まで行って海水に浸かりながらも追いかけた。
海處行けば 腰なづむ 大河原の 植ゑ草 海處は いさよふ
千鳥が磯に止まっていた時にも、また歌った。
濱つ千鳥 濱よは行かず 磯傳ふ


倭建命 の息子の一人が 第14代 仲哀天皇
(ちゅうあい てんのう)
。『 西に金銀豊富な国があるから遠征せよ 』との神託があったのだが、『 丘に登るも海しか見えませんなぁ 』と従わなかったが故に神の怒りに触れて急死してしまった。
その時、神功皇后
(じんぐう こうごう)
は、妊娠中であったが、神託が恐ろしく、身重の体で新羅への遠征を行う。
 
岩田正巳 『 神功皇后 』 1931 (S06) 新潟市美術館
その後,皇后は無事出産するのであるが、大和への帰路において、わざと、生まれた太子の喪船を用意し、その中に兵士を入れる。仲哀天皇 の別の妻の子である 香坂王
(かごさか の みこ)
と 忍熊王
(おしくま の みこ)
は「これは好機」と、その船を攻撃することにした。その前に運勢占いの狩りを行ったのだが、香坂王 が木に登ったところにイノシシが突進して来て木を倒し、彼を噛み殺してしまった。
それでも 忍熊王 が船を攻めると、船から出てきた太子側の兵隊と戦う。戦闘の途中で太子軍の将軍は一計を講じるや『 皇后は崩御された。もう戦うことはない 』と言って弓の弦を切った。それを信じてしまった 忍熊王 も自らの弓の弦を切った。そこに太子の軍は頭髪に隠していた弦を取り出して張り直し、再攻撃を始めたのである。忍熊王 は追い詰められて琵琶湖に身を投げて死んだのであった。


第16代 仁徳天皇
(にんとく てんのう)
。山の上から国を見渡すと、家々から炊事の煙が上っていないことに気づく。これは民が貧しいからであると、3年間、税徴収をストップしたということで有名。
 
藤田嗣治 『 日本昔噺 』仁徳天皇 1923(T12)
一方で、この帝、恋多きお人であった。ところが(不幸なことに)、皇后の 石之日売命
(いわの ひめ の みこと)
は非常に嫉妬深い性格だった。帝がどこかの妃との噂が立つや『 イヤ イヤ イヤ~!』と足をばたつかせて暴れたという。
吉備の 黒日売
(くろ ひ め)
が召し上げられることになった際も、彼女は途中で后を恐れて国元に逃げ帰るのだが、后の 石之日売命 は使いを派遣して、船に乗っていた 黒日売 を下船させては徒歩で帰らせたという次第。
また、皇后が紀伊の国に 御綱柏
(み つな がしわ)
を採りに出かけた際には、『 ヒヒヒ この隙に 』と、帝は異母妹である 八田若郎女
(やた の わか いらつ め)
に手を出してしまう。採取の帰りに、その噂を聞いてしまった后はヒステリーを起こして、採った御綱柏を全部海に捨ててしまい、そして、宮中に帰らずに山城の地へ家出してしまった。さすがに 仁徳天皇 は心配になって遣いを送るに、皇后の周りの者たちは『 いえいえ、后は「蚕」という珍しい虫を見に来られているのですよ 』とウソを言って、帝を安心させた。
さらに、仁徳天皇 は 八田若郎女 の妹である 女鳥王
(め どり の みこ)
も召し上げようとした。弟である 速総別王
(はや ぶさ わけ の みこ)
を仲介にして迎えに行かせたのだが、女鳥王 は『 お姉さまでさえ大変なのに、私なんか 無理無理無理無理。勤まりっこありませんわ。むしろ、あなたの妻になりたいです 』と言うので、2人は一緒になった。速総別王 が報告に来ないので、不審に思った 仁徳天皇 が 女鳥王 のところに確認に行くに、帝は自分がフラれたことを知る。さらには 女鳥王 は不穏な歌を詠んでしまった。
雲雀は 天に翔る 高行くや 速総別 鷦鷯取らさね
仁徳天皇 は、これを謀反として、山部大楯連
(やまべ の おおたて の むらじ)
を将軍として2人を討たせる。殺傷した後で、山部大楯連 は 女鳥王 が身に着けていた腕飾りを奪い、それを自分の妻に与えてしまった。 その後、新嘗の宴があり、后自ら参内者たちに御酒をふるまって回った際に、山部大楯連 の妻が着けていた腕飾りが 女鳥王 の物であったことを知っていた皇后は、それに気付く。後で 山部大楯連 を呼び出すや『 まだ肌に温かさが残ってるのを剝ぎ取って、己の妻に与えるとは、なんという奴!』と叱責して死罪を申し付けたのであった。


衣通王
(そとほし の おう)
は 第19代 允恭天皇
(いんぎょう てんのう)
の娘 = 軽大郎女
(かる の おおいらつめ)
。白い肌が衣を通すほどツルツルに輝いていたため付いた名前。
 楊貴妃の「凝脂」も、そういう肌か。 → 長恨歌
允恭天皇 崩御後に即位予定であった、実兄である 木梨の軽王
(きなし の かる の おう)
との近親結婚という大事件を起こし、2人は無理矢理引き離されるものの、最後は心中してしまうという悲劇。
「日本書記」では 允恭天皇 に寵愛された姫として登場している。この作品は、蜘蛛の動きを見て『 今日こそは来てくださりそうだわ 』と期待に胸ふくらませるシーン。
和田英作くものおこない(衣通姫)』1905 (M38) 歌舞伎座


世阿弥作、謡曲「花筐」に登場する 照日前
(てるひ の まえ)

第26代 継体天皇 が皇子時代に寵愛した女性で、別れ別れになったことで気がふれてしまい、もらった花筐を手に、ふらふらと天皇に会いにくるシーン。謡曲の創作上の女性だが、実際にも、そういう想いに苦しんだ人が多くいたのだろう。
上村松園花がたみ 』 1915 (T04) 松伯美術館 
「古事記」の 継体天皇 の項に、その記述は無い。むしろ、こちらに近い別の話がある。
第21代 雄略天皇 が外遊した際、洗濯をしていた 引田部の 赤猪子
(あかいこ)
という娘に『 結婚せずに待っておれ 』と声を掛けた。しかし、その後、帝は、そのことを完璧に忘れてしまった。一方で、赤猪子 は、その言葉を信じて、80歳を越えるまで待ち続けたというのだ。いや、すごい。
引田の 若栗栖原 若くへに 率寝てましもの 老いにけるかも



 漢字や、よみがなの表記は書籍によって違いがあるため、
 ココでは、岩波文庫 『 古事記 』 倉野憲司 校注 (昭和38年) によった。
 当ページは、掲載絵画の追加等により、適宜、更新の予定。
  - Ver. 1.0 : 2013 (H25). 4.21  公開
  - Ver. 2.0 : 2013 (H25). 4.29  『 肇国創業絵巻 』 等の情報を追加
  - Ver. 2.1 : 2013 (H25). 7. 3   川村清雄作品情報を追加
  - Ver. 2.2 : 2015 (H27). 2.11  フォント変更、レイアウト変更、リンク切れ修正等
  - Ver. 3.0 : 2024 (R06). 3.16  モバイルフレンドリー版に全面改訂。記事を増量
  - Ver. 3.1 : 2024 (R06). 7.14  全国の神社の御祭神に多いので神世七代の記述を追加