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仮名手本忠臣蔵 【 第十 】 発足の櫛笄


■ 人形まわしの段
津の国と和泉・河内を引き受けて、余所の国まで船よせる三国一の大港、堺というて、人の気も賢しき町に疵も無き、天河屋の義平とて、金から金を儲け貯め、見かけは軽く内証は重い暮しに、重荷をば手ずから店で締めくくり。大船の船頭、
大船の船頭
これで、丁度、七竿、受け取りました。
と、差し荷い、行くも誰そかれ{黄昏}、亭主は「ほっ」と、
天河屋義平
( あまかわや ぎへい )
日和も佳し、佳い出船。
と、言いつつ、たばこきせる筒、吸い付けにこそ入りにけれ。
家の世継ぎは、今年四つ。守は十九の丸額。親方よりも我が遊び。
伊五
( いご )
サァ 始りじゃ、始りじゃ。面白い事、面白い事。泣き弁慶の信田妻。東西東西。ここに哀を留めしは、この吉松に留めたり。元より、その身は父ばかり。母は去られて去なれたで、泣き弁慶と申すなり。
吉松
( よしまつ )
コリャ 伊五よ、もう人形廻し、いやいや。かかさんを呼でくれいやい。
伊五
ソレ その様に無理言わしゃると、旦那様に言うて、こなはんも追い出さすぞ。後の月からお釜が割れて、手代は手代で鼠の子か何ぞの様に、目が明かぬと言うて追い出し、飯炊きは大きなあくびしたと言うて暇やり。今では、こなはんと、わしと旦那はんとばっかり。どうで、この内を抜けそするのかして。ちょこちょこ船へ荷物が行く。駆け落ちするなら人形箱持って行こうぞや。
吉松
イヤ、人形廻しより、俺りゃ、もう寝たい。
伊五
アレ、もう、俺までもそそのかす程にの。よござるわ。俺が抱いて寝てやろ。
吉松
嫌じゃ。
伊五
なぜに?
吉松
われには乳がないもの。俺りゃ、嫌じゃ。
伊五
アレ また、無理言わしゃる。こなたが女の子なら、乳よりよい物があるけれど、何を言うても相婿同士。これも涙の種ぞかし。

折節、表へ侍二人「誰、頼もう」「義平殿はお宿にか?」
と言うもひそめく。内から、つこど(つっけんどん)。
伊五
旦那様は内に。我等、人形廻しで忙しい。用があらば、入った、入った。
イヤ 案内致さぬも無礼。原郷右衛門、大星力彌、密かに御意得たいと申ておくりゃれ。
伊五
何じゃ、腹減り右衛門、大飯食いや? こりゃたまらぬ。アレ 旦那様、大きな、けないど(食客)が見えました。
と叫ぶ。吉松、引っ連れて奥へ入れば、
亭主 義平、
天河屋義平
また、阿呆めが、しやなり(どなり)声。
と、言いつつ出て、
ヱ、郷右衛門様、力彌様、サァ まあこれへ。
原郷右衛門
( はら ごううえもん )
御免あれ
と、座を占めて、郷右衛門。
段々、貴公のお世話故、万事相調い、由良之助もお礼に参るはずなれども、鎌倉へ出立も今明日。何かと取り込み、倅 力彌を名代として失礼のお断り。
天河屋義平
これはこれは、御念の入った儀。急に御発足とござりますれば、何かお取り込みでござりましょうに。
大星力彌
( おおぼし りきや )
なるほど、郷右衛門殿の仰せの通り、明早々出立の取り込み。自由ながら私に「参り、お礼も申し、また、お頼み申した後荷物も、いよいよ、今晩で積み仕舞いか、お尋ね申せ」と申し渡しましてござります。
天河屋義平
なるほど、おあつらえの、かの道具一まき。段々大回しで遣わし、小手・脛当て・小道具の類は長持ちに仕込み、以上、七棹、今晩出船を幸い、船頭へ渡し、残るは忍び提灯・鎖鉢卷。これは陸荷で、後より遣わすつもりでござります。
大星力彌
郷右衛門様、お聞なされましたか。いかゐ、お世話でござりまする。
原郷右衛門
いか様。主人 塩谷公の御恩を受けた町人も多ござれども、天河屋の義平は武士も及ばぬ男気な者と、由良殿が見込み、大事をお頼み申されたも、もっとも。しかし、槍・長刀は格別。鎖帷子の継ぎ梯子のと申す物は常ならぬ道具。お買いなさるるに不思議は立ちませなんだかな?
天河屋義平
イヤ その儀は、細工人へ手前の所は申さず、手づけを渡し、金と引き換えに仕る故、いずくの誰と、先様には存じませぬ。
大星力彌
なるほど、もっとも。ついでに、力彌めも、お尋申しましょ。内へ道具を取り込み、荷物のこしらえ、御家来中の見る目はどうしてお忍びなされましたな。
天河屋義平
ホウ それも、御もっとものお尋ね。この儀を頼まれますると、女房は親里へ帰し、召し使いは垂りひずみ(難癖)を付けて、段々に暇遣わし、残るは、阿呆と四つになる倅。洩れる筋はござりませぬ。
大星力彌
さてさて、驚き入りましてござりまする。その旨を親どもへも申し聞かして安堵させましょう。郷右衛門殿、お立なされませぬか。
原郷右衛門
いか様。出達に心急きまする。義平殿、お暇申しましょう。
天河屋義平
しからば、由良之助様へも。
原郷右衛門
よろしゅう申し聞かしましょう。おさらば。
大星力彌
さらば。
と、引き別れ、二人は旅宿へ立ち帰る。
表閉めんとする所へ、この家の舅 大田了竹。
大田了竹
( おおた りょうちく )
おっと、閉めまい。宿にか。
と、ずっと通って、きょろきょろ眼。
天河屋義平
これは親仁様、ようこそお出で。さて、この間は、女房 園を養生がてら遣わし置き、さぞお世話。お薬でも食べまするかな。
大田了竹
アヽ 薬も飲みまする、食も食います。
天河屋義平
それは重畳。
大田了竹
イヤ 重畳でござらぬ。手前も国元に居た時は、斧九太夫殿から扶持も貰い、相応の身代。今は一僕さえ召し使わぬ所へ、さしてもない病気を養生さしてくれよと、さし越されたは、子細こそあらん。が、それはともあれ、なま若い女、不埓があっては貴殿も立ず、身どもも皺腹でも切らねばならぬ。ところで一つの相談、まず、世間は暇やり分、暇の状をおこしておいて、ハテ なん時でも、ここの勝手に呼び戻すまでの事。たった一筆つゐ書てくだされ。
と、軽う言うのも、ものだくみ。一物ありと知りながら、
(天河屋義平)
『嫌と言わば女房を直ぐに戻さん。戻りては頼まれた人々へ言葉も立たず』
と、取っつ置いつ(あれやこれや)思案する程、
大田了竹
嫌か? どうじゃ、不得心なら、この方にも片時置かれず。戻すからは、この了竹もにじり込み、へたばって、共に厄介。否か応かの返答。
と、込付けられて、さすがの義平、『たくみに乗るが口惜しや』と思えど、『こちらの一大事、見出されては』と、かけ硯、取って引き寄せ、さらさらと書きしたため、
天河屋義平
これやるからは、了竹殿、親で無し、子で無し。重ねて足踏みお仕やんな。底たくみのある暇の状。弱身を食うてやるが残念、持て行きやれ。
と、投付れば、
手早く取って懐中し、
大田了竹
ヲヽ よい推量。聞けば、この間より浪人どもが入り込み、ひそめくより、園めに問えども知らぬとぬかす。何し出そうも知れぬ婿、娘を添わしておくが気遣い。幸い、さる歴々から貰いかけられ、去り状(離縁状)取ると、すぐに嫁入りさする相談、一杯まいって重畳重畳。
天河屋義平
ホウ たとえ、去り状無きとても、子までなしたる夫を捨て、他へ嫁する性根なら心は残らぬ。勝手勝手。
大田了竹
ヲヽ 勝手にするは、親のこうけ(権限)。今宵の内に嫁らする。
天河屋義平
ヤァ 細言吐かずと、早帰れ。
と、肩先掴んで門口より外へ蹴出して、あと、ぴっしゃり。
ほうほう起きて、
大田了竹
コリャ 義平、なんぼ掴んで放り出しても、嫁らす先から仕こしらえ金。温まって蹴られたりや、どうやら疝気が治った。
と、口は達者に、足腰を撫つ、さすりつ、逃げ吠えにつぶやき、
つぶやき、立ち帰る。

■ 天河屋の段
月の曇に影隠す、隣家も寢入る亥の刻(PM 9:00)過ぎ。この家をめがけて捕手の人数、十手・早繩・腰提灯。火影を隠して窺い、窺い。犬(スパイ)とおぼしき家来を招き耳打ちすれば、さし心得、門の戸せわしく打ち叩く。
歌川広重『 忠臣蔵 十段目 』
天河屋義平
誰じゃ、誰じゃ。
もおよび腰。
捕手
イヤ 宵にきた大船の船頭でござる。船賃の算用が違うた。ちょっと開けてくだされ。
天河屋義平
ハテ 仰山な。わずかな事であろ。明日来た、明日来た。
捕手
イヤ 今夜うける船、仕切って貰わにゃ出されませぬ。
と言うも声高、近所の聞えと、義平は立ち出で、何心なく門の戸を開くると、そのまま 「捕った、捕った」「動くな」「上意」と、おっ取り巻く。
天河屋義平
コハ 何故?
と、四方八方、眼を配れば、
捕手の両人、
捕手
ヤァ 何故とは横道者(無法者)。おのれ、塩谷判官が家来 大星由良之助に頼まれ、武具・馬具を買い調え、大回しにて鎌倉へ遣わす条、急ぎ召し捕り拷問せよとの御上意。まのがれぬところじゃ、腕回せ。
天河屋義平
これは思いも寄らぬお咎め。左様の覚え、いささか無し。定めて、それは人違い。
と、言わせも立てず、
捕手
ヤァ ぬかすまい。争われぬ証拠あり。ソレ 家来ども!
「はっ」と心得持ち来るは、宵に積んだるゴザ荷の長持ち。見るより義平は心も空。「ソレ 動かすな」と四方の十手。その間に荷物を切りほどき、長持ち開けんとするところを、
飛びかかって下僕を蹴退け、蓋の上に、どっかと座り、
天河屋義平
ヤァ 粗忽千万! この長持の内に入れ置いたは、さる大名の奥方より、お誂えのお手道具。お具足櫃の笑い本、笑い道具の注文まで、その名を記し置いたれば、開けさしては歴々のお家のお名の出る事。御覧あっては、いずれものお身の上にも掛かりましょうぞ。
捕手
ヤァ いよいよ、胡乱[うろん]者(怪しいやつ)。なかなか、大抵では白状致すまい。ソレ 申し合わせた通り。
「合点でござる」と一間へ駆け入り、一子 吉松を引っ立て出で、
捕手
サァ 義平、長持の内はともあれ、塩谷浪人一党に固まり師直を討つ密事の段々、おのれ、よく知っつらん。ありやうに言えばよし。言わぬと、たちまち倅が身の上。コリャ、これを見よ。
と、抜き刀、幼き咽に刺し付けられ、
「はっ」とは思へど、色も変ぜず、
天河屋義平
ハヽヽヽヽ 女・童を責めるように、人質取っての御詮義。
天河屋の義平は男でござるぞ。子にほだされ、存ぜぬ事を存じたとは、ゑ申さぬ。かつて、何にも存ぜぬ。知らぬ。知ぬと言うから金輪奈落。憎しと思わば、その倅、我が見る前で殺した、殺した。
 落合芳幾
  『 仮名手本忠臣蔵 十段目 』
捕手
テモ 胴性骨の太い奴。管槍・鉄砲・鎖かたびら、四十六本の印まで調えやったるおのれが知ぬと言うて、言わしておこうか。白状せぬと、一寸だめし、一分刻みに刻むが、何と。
天河屋義平
ヲヽ 面白い。刻まれよう。武具は勿論、公家・武家の冠・烏帽子、下女・小者が藁沓まで、買い調えて売るが商人。それ不思議とて御詮義あらば、日本に人だね(人間)はあるまい。一寸試しも三寸縄も、商売ゆえに取らるる命、惜いと思はぬ。サァ 殺せ。倅も目の前突け、突け、突け。一寸試しは腕から切るか、胸から裂くか? 肩骨、背骨も、望み次第。
と、さし付け、突き付け、わが子をもぎ取り、
子にほだされぬ性根を見よ。
と、絞め殺すべき、その気相。
大星由良之助
( おおぼし ゆらのすけ )
ヤレ 聊爾[れうじ]せまい(軽率なことするな)、義平殿。暫し、暫し。
と、長持ちより大星由良之助義金、立ち出ずる体見て、びっくり。
捕手の人々、一時に十手・捕縄、打ち捨てて、はるか下がって座を占むる。
威儀を正して由良之助、義平に向い手をつかえ、
さてさて、驚き入りたる御心底。泥中の蓮、砂の中の金とは、貴公の御事。さもあらん、さもそうずと見込んで頼んだ一大事。この由良之助は微塵いささか、お疑ひ申さねども、馴染、近づきで無きこの人々、四十人余の中にも「天河屋の義平は生れながらの町人。今にも捕られ詮議にあわば如何あらん。何とか言わん。ことに寵愛の一子もあれば、子に迷うは親心」と評義まちまち。案じに胸も休まらず、所詮一心の定めしところを見せ、古傍輩の者どもへ安堵させんため、せまじき事とは存じながら、右の仕合せ。粗忽の段は、まっぴら、まっぴら。
花は桜木、人は武士と申せども、いつかな、いつかな、武士も及ばぬ御所存。百万騎の強敵は防ぐとも、さほどに性根は据わらぬもの。貴公の一心を借り受け、我々が手本とし敵師直を討つならば、たとえ巌石の中に籠り、鉄洞の内に隠るるとも、やはか(どうして)仕損じ申すべき。人ある中にも人無しと申せども、町家の内にもあれば有るもの。一味徒党の者どものためには、産土[うぶすな](土地の守護神)とも、氏神とも尊み奉らずんば、御恩の冥加に尽き果てましょう。
静謐の代には賢者も現れず、ヘヱヽ 惜いかな、悔しいかな。亡君御存生の折ならば、一方の旗大将、一国の政道お預け申したとて惜からぬ御器量。これに並ぶ、大鷲文吾・矢間十太郎をはじめ、小寺・高松・堀尾・板倉・片山等、潰れし眼を開かする。妙薬名医の心魂、ありがたし、ありがたし。
と、すさって三拝。人々も無骨の段、まっぴらと、畳に頭を摺り付くる。
天河屋義平
ヤレ それは御迷惑。お手上げられてくださりませ。惣体、人と馬には乗ってみよ、添うてみよと申せば、お馴染ない御方々は気遣いに思し召すも、もっとも。私、元は軽い者。お国の御用承ってより経上った(成り上がった)この身代。判官様の様子承って、共に無念。何卒、この恥辱すすぎようは無いかと、力んでみても石亀の地団駄。及ばぬ事と存じた所へ、由良之助様のお頼みこそ、心得たと、向こう見ず、共にお力付けるばかり。情け無いは町人の身の上。手一合でも御扶持を戴きましたらば、この度の思し立ち、袖つまに取り付いてなりとも、お供申し、いずれも様へ息つぎの茶水でも汲みましょうに。それも叶わぬは、よくよく、町人はあさましいもの。これを思えばお主の御恩、刀の威光はありがたいもの。それ故にこそ、お命捨てらるる、御羨しゅう存じまする。なおも冥途で御奉公、おついでに義平めが志もお取り成し。
と、熱き言葉に人々も思わず涙催して、奥歯、噛み割るばかりなり。
由良之助、取りあえず、
大星由良之助
今晩、鎌倉へ出立。本望遂ぐるも百日とは過ごすまじ。承れば、御内証まで省き給ふ(離縁された)由、重々のお志し、追っつけ、それも呼び返させ申さん。御不自由も、いま暫く。早や、お暇。
と立上る。
天河屋義平
ヤレ 申さば、めでたき旅立ち。いずれも様へも、御酒一つ。
大星由良之助
いや、それは。
天河屋義平
ハテさて 祝うて手打ちの蕎麦切り。
大星由良之助
ヤ 手打ちとは吉相。しからば、大鷲・矢間、御両人は後に残り、先手組の人々は、郷右衛門・力彌を誘い、佐田の森までお先へ。
天河屋義平
いざ、こなたへ。
と亭主が案内。
大星由良之助
お辞儀は無礼。
と由良之助、二人を
伴い、入る月と。

また出る月と、二つの輪の、親と夫との中に立つ、お園は一人小提灯。暗き思いも子故の闇。あやなき門を打ち叩き、
お園
( おその )
伊五よ、伊五よ。
と呼声が、寝耳に、ふっと阿呆は駆け出で、
伊五
俺、呼んだは誰じゃ。化生の者か? 迷いの者か?
お園
イヤ 園じゃ。ここ開けてくれ。
伊五
そう言うても気味が悪い。必ず、ばぁ! と言うまいぞ。
と言いつつ、門の戸、押し開き、
ヱヽお家さんか、ようごんしたの。一人歩きをすると、ナ 病犬が噛むぞえ。
お園
ヲヽ犬になりとも噛まれて死んだら、今の思いはあるまいに。おりゃ、去られたわいやい。
伊五
鈍な事にならんしたなァ。
お園
旦那殿は寝てか?
伊五
イヽヱ。
お園
留守か?
伊五
イヽヱ。
お園
何の事じゃぞやい。
伊五
何の事やら、わしも知らぬが、宵の口に猫が鼠を捕ったかして「捕った、捕った」と大勢来たが、ちゃっと俺は蒲団かぶったれば、つゐ寢入った。今、その和郎たちと奥で酒盛り、ざざんざやってござんす。
お園
ハテ 合点のいかぬ。そうして、坊は寝たか?
伊五
アイ これは、よう寝てでござんす。
お園
旦那殿と寝たか?
伊五
イヽヱ。
お園
われとねたか?
伊五
イヽヱ。つゐ、一人ころりと。
お園
なぜ、伽して寝さしてくれぬ?
伊五
それでも、わしにも旦那様にも、乳が無いと言うて、泣いてばっかり。
お園
ヘヱヽ 可愛や、そうであろ、そうであろ。そればっかりが、ほんの事。
と、わっと泣き出す門の口。空に知られぬ雨の足、乾く袂も無かりける。
天河屋義平
ヤイヤイ 伊五め、どこにおる?
と、呼び立て出ずる主の義平。
伊五
アイアイ ここに。
と、駆け入る後、尻目にかけて、
天河屋義平
たわけめが。奥へ行て給仕ひろげ!
と、叱り追いやり、門の戸をさすを
押えて、
お園
コレ 旦那殿、言う事がある。ここ開けて。
天河屋義平
イヤ 聞く事も無し、言う事も。内証一つの畜生め、穢わしい、そこ退こう。
お園
イヤ 親と一緒でない証拠、それ見て疑い晴てたべ。
と、戸の隙間よりもげ込む一通。拾い取る間に付け込む女房。夫は書き物一目見て、
天河屋義平
コリャ 最前やった暇の状。これ戻してどうするのじゃ?
お園
どうするとは聞えませぬ。親 了竹が悪だくみは、常からよう知っての事。たとえ、どの様な事ありとて、なぜ暇状をくだんした? 持って戻ると嫁らすと、思いも寄らぬこしらえ。嬉しい顔で油断させ、はな紙袋の去り状を盗んで、わしは逃げて来ました。お前は、吉松、可愛かないか? 去って、あの子を継母にかける気かいの? 胴欲な。
と、すがり歎けば、
天河屋義平
ヤァ その恨は逆ねち。この内を去なす折、言い含めたを何と聞いた? 様子あって、その方に暇やるで無し。暫しのうち親里へ帰てて居よ。舅 了竹は、元、九太夫が扶持人。心解けねば子細は言わぬ。病気の体にもてなし、起き臥しも自由にすな、櫛も取るな、と言い付けやったを、なぜ忘れた? さんばら髪で居る者を嫁に取ろとは言わぬわやい。
何の、おのれが吉松がかわいかろ。昼は一日、阿呆めが騙しすかせど、夜になると「かか様、かか様」と尋おる。「かかは追っつけ、もう、ここへ」と、騙して寝させど、よう寝入らず。叱って寝さそと叩きつけ、恐い顔すりゃ声上げず、しくしく泣いておるを見ては、身節が砕けて堪えらるるものじゃない。これを思えば「親の恩、子を持って知る」と云う、不孝の罰と我が身をば悔んで夜と共に泣き明かす。
夕べも三度抱き上げて、もう連れていこ、抱ていこと、門口まで出たれども、一夜で堪能(納得)するでも無し、五十日暇取ろやら、百日隔ておこうやら、知れぬ事に馴染ましては、後の難儀と五町、三町、ゆぶり歩いて叩きつけ、寝さしては、そっとこかし、我が肌付ければ現にも乳を探してしがみつき、わずかな間の別れでさえ恋こがるるもの。一生を引き分けようとは思わねども、是非に及ばず暇の状、了竹へ渡せしを、内証にて受け取っては、親の赦さぬ不義の科。心よからず持って帰れ。これまでの縁、約束事、死んだと思えば、事済む。
と、切れ離れよき男気は、常をしるほど、なお悲しく。
お園
この家に居るとお前が立たず、内へ居ると嫁らにゃならず、悲しい者は私一人。これが別れになろうも知れぬ。吉松を起こして、ちょっと逢わしてくださんせ。
天河屋義平
イヤ それならぬ。今逢うて、今別るる、その身。後の思いが、なお不便な。わけて、今宵はお客もあり。くどくど言わずと、早くお行きやれ。
お園
それでも、ちょっと、吉松に。
天河屋義平
ハテさて未練な。後の難義を思わずや?
と、無理に引き立て、去り状も共に渡して、門先へ心強くも突き出し、
子がかわゆくば、了竹へ詫言立て、春までもかくまい貰わば思案もあらん。それ叶わずば、これ限り。
と、門の戸閉めて、内に入る。
お園
ノウ それが叶うほどなれば、この思いはござんせぬ。つれないぞや、我が夫。科も無い身を去のみか、我が子にまで逢わさぬは、あんまり。むごい。胴欲な。顔見るまでは、なんぼでも去なぬ、去なぬ!
と門打ち叩き、
情じゃ、慈悲じゃ。ここ開けて、寝顔なりとも見せてたべ。コレ 手を合せ拝みます。むごいわいの。
と、どふど伏し、前後不覚に泣けるが、
ハァ 恨むまい、歎くまい。生中に顔見たら「かか様か」と取り付いて、離しもせまいし、離れもなるまい。今宵、去ぬれば、今宵の嫁入。明日まで待たれぬわしが命。さらばでござる、さらばや。
と言うては、戸口へ耳を寄せ、もしや我が子が声するか? 顔でも見せてくれるか? と伺い聞けど、音もせず。
ハァヽ 是非もなや。これまで。
五粽亭広貞『 おその 』
と、思い切って駆け出す向うへ、目ばかり出した大男、道を塞いで引っとらへ、「これは!」と言う間も情けなや、すらりと抜いて島田髷、根よりふっつと切り取って、懐までを引っつさらえ、いずくともなく逃げ行きし。無法・無意気ぞ、是非もなき。
ノウ 憎や、腹立ちや! 何者か、むごたらしう髪切って、書いた物まで取って去んだ。櫛・笄[こうかい]の盗人なら、いっそ殺して! 殺して!
と、泣さ叫ぶ。
声に驚き、義平は思わず駆け出しが、
天河屋義平
ハァ ここが男の魂の乱れ口よ。
と、喰いしばり、ためらふうちに、奥よりも、
大星由良之助
御亭主、御亭主、義平殿。
と、立ち出ずる、由良之助。
段々、御親切の御馳走。お礼は鎌倉より申し越さん。なお、後の荷物の儀、早飛脚を以ってお頼み申す。夜の明けぬうち、早や、お暇。
天河屋義平
いか様、今暫しとも申されぬ刻限。道中、御健勝で。御吉左右を相待ちまする。
大星由良之助
着いたさば、早速、書簡をもってお知らせ申そう。返すがえすも、この度のお世話、言葉でお礼は言い尽くされませぬ。ソレ 矢間・大鷲、御亭主へ置き土産。
「はっ」と、文吾・十太郎、扇を時の白台と乗せて出したる一包。
大星由良之助
これは貴公へ。これはまた、御内宝、お園殿へ。些少ながら、
と差し出す。
義平は、むっと、顔色変わり、
天河屋義平
言葉で言われぬ礼とあらば、イヤコレ 礼物受けようと存じ、命がけのお世話は申さぬ。町人と見侮り、小判の耳で面はるのか。
大星由良之助
イヤ 我々は娑婆の暇。貴殿は残る、この世の宿縁。御台 顔世御前の儀も御頼み申さんため。寸志ばかり。
と言い残し表へ出れば、
なお、むっと、
天河屋義平
性根魂を見違えたか。踏み付けた仕方、あた、いまいまし、穢わし。
と、包し進物、蹴飛ばせば、包ほどけて内よりばらり。
女房、駆け寄り、
お園
コレ これは、わしが櫛笄、切られた髪。ヤァヤァヤァ この一包みは去り状! ホイ さては、最前切ったのは。。
大星由良之助
ホヽウ この由良之助が大鷲文吾を裏道より回らせ、根よりふっつと切らした心は、いかな親でも尼法師を嫁らそうとも言うまいし、嫁に取る者は、なお、あるまい。その髪の伸びる間も、およそ百日。我々、本望遂ぐるも百日は過ごさじ。討ちおおせた後、めでたく祝言。その時には、櫛笄、その切り髪を添えに入れ、笄髷の三国一。まず、それまでは尼の乳母、一季、半季の奉公人。その肝煎は大鷲文吾、同じく、矢間十太郎。この両人が連中へ大事は洩れぬという請判。由良之助は冥途から仲人致さん、義平殿。
天河屋義平
ハァヽ 重々のお志。お礼申せ、女房。
お園
私がためには、命の親。
大星由良之助
イヤ お礼に及ばず。返礼と申すも九牛が一毛(ごくわずか)。義平殿にも町人ならずば、共に出達とのお望み。幸いかな、かねて夜討ちと存ずれば、敵中へ入り込む時、貴殿の家名の天河屋を直に夜討ちの合言葉。「天」とかけなば「河」と応え、四十人余の者どもが「天」よ「河」よと申すなら、貴公も夜討ちにお出でも同然。義平の義の字は義臣の義の字、平はたいらか、たやすく本望。早や、お暇。
と立ち出ずる。
末世に「天」を「山」と言う。由良之助が孫呉の術、「忠臣蔵」とも言いはやす娑婆の言葉の定めなき。別れ別れて、
出でて行く。