■ 大手下馬先の段
足利左兵衛督 直義公、関八州の管領と、新たに建てし御殿の結構。大君・小君、美麗を飾る晴れ装束。鎌倉山の星月夜と袖をつらぬる御馳走に、御能役者は裏門口、表御門はお客人御饗応の役人衆、正七つ時の御登城、武家の威光ぞ耀きける。
西の御門の見付の方、ハイハイハイ と厳めしく、提灯照らし入り来るは、武蔵守高師直。権威を現す鼻高々。花色模様の大紋に、胸に我慢の立烏帽子。家来どもを役所役所に残し置き、下僕僅かに先を払わせ、主の威光の召しおろし。
鶴の真似する鷺坂伴内、肩肘いからし、
申し、お旦那、今日の御前、表も上首尾、上首尾。塩谷で候の、イャ 桃井で候のと、日頃は、どっぱさっぱと どしめけど、行儀作法は狗[ゑのころ](子犬)を屋根へ上げたようで、さりとはさりとは腹の皮。イャ それにつき、かねがね塩谷が妻 顔世御前、いまだ殿へ御返事いたさぬ由、お気には障えられな。器量は良けれど気が叶わぬ。何の塩谷づれと、当時出頭の師高様と、、
ヤィヤィ 声高に口きくな。主ある顔世。度々、歌の師範に事よせ口説けども、今に叶わぬ。すなわち、彼が召使い、軽という腰元、新参と聞く。きゃつをこまづけ頼んでみん。さて、まだ取り得がある。顔世が誠に嫌ならば、夫 塩谷に子細をぐわらりと打ち明けるところを、言わぬは楽しみ。
と、四ツ足門の片陰に、主従うなずき話し合う折もあれ、
見付に控えし侍、あわただしく走り出で、
侍
我々、見付のお腰掛けに控えし所へ、桃井若狭之助家来 加古川本藏「師直様へ直にお目にかからんため、早馬にてお屋敷へ参ったれども、早や御登城。是非、御意得奉らん」と家来も大勢召し連れたる体、いかが計らい申さんや。
と聞くより、伴内、騒ぎ出し、
鷺坂伴内
今日御用のある師直様へ、直に対面とは推参なり。それがし、直談、
と走り行くを、
高師直
待て待て、伴内、子細は知れた。一昨日、鶴岡にての意趣晴らし。我が手を出さず、本藏めに言いつけ、この師直が威光の鼻をひしがんため。ハヽヽヽヽヽ 伴内、ぬかるな。七つにはまだ間もあらん。これへ呼び出せ。仕舞うてくれん。
鷺坂伴内
なるほど、なるほど、家来ども、気を配れ。
と、主従、刀の目釘を湿し、手ぐすね引いて待ちかけ居る。
言葉に従い、加古川本藏、衣紋繕い悠々とうち通り、下僕に持たせし進物ども、師直が目通りに並べさせ、はるか下がってうずくまり、
ハァ 憚りながら師直様へ申し上げ奉る。この度、主人 若狭之助、尊氏将軍より御大役仰せ付けられくださる段、武士の面目、身に余る仕合せ。若輩の若狭之助、何の作法も覚束なく、いかがあらんと存ずるところに、師直様、万事御師範をあそばされ、諸事を御引き回しくだされ候ゆえ、首尾よく御用相勤むるも、全く主人が手柄にあらず。皆、師直様の御執り成しと、主人をはじめ、奥方一家中、我々までも大慶この上や候うべき。さるによって、近頃、些少の至りに候えども、右御礼のため一家中よりの贈り物、お受け遊ばされくださらば、生前の面目、ひとしお願い奉る。すなわち、目録御取次ぎ。
と、伴内に差し出せば、
不思議そうに、そっと取り、おし開き、
鷺坂伴内
目録
一つ、巻物三十本、黄金三十枚、若狭之助 奥方
一つ、黄金二十枚、家老 加古川本藏
同じく十枚、番頭
同じく十枚、侍中。右の通り
と読み上ぐれば、師直は空いた口塞がれもせず、うっとりと。主従顔を見合せて、気抜けの様にきょろりっと。祭の延びた六月の晦日見るが如くにて、手持無沙汰に見えにける。
にわかに言葉改めて、
高師直
これは、これはこれは、いたみ入ったる仕合せ。伴内、こりゃどうしたもの。ハテ さてさて。ハァ お辞宜申さば、お志背くといい、第一は大きな無礼。ヱヽ 式作法を教ゆるも、こんな折にはとんと困る。ナニものじゃわ。
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イヤハヤ 本藏殿、何の師範致すほどの事もないが、とにかく、マァ 若狭之助殿は器用者。師範の拙者、およばぬ、およばぬ。
コリャ 伴内。進物ども、みな取り納め。ヱヽ 不行儀な。途中でお茶さえ進ぜぬ。
歌川広重『 忠臣蔵 三段目 』
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と、手の裏返す挨拶に、本藏が胸算用『してやったり』と。なおも手をつき、
加古川本藏
最早、七つの刻限、早やお暇。ことに今日は、なお晴れ御座敷。いよいよ主人の儀、御引き回し頼み存ずる。
と、立たんとする袂をひかへ、
高師直
ハテ ゑいわいの。貴殿も今日の御座敷の座なみ、拝見なされぬか。
加古川本藏
イャ 倍臣のそれがし、御前の恐れ。
高師直
大事無い、大事無い。この師直が同道するに、誰が「ぐつ」と言う者無い。殊にまた、若狭之助殿も何ぞれかぞれ小用のあるもの。ひらに、ひらに。
と勧められ、
加古川本藏
しからば、御供つかまるらん。御意を背くは返って無礼。まず、お先へ、
と後につき、金で面はる算用に、主人の命も買うて取る。二一天作算盤の、桁を違えぬ白鼠。忠義・忠臣・忠孝の道は一筋真っ直ぐに、うち連れ御門に入りにける。
■ どじょうぶみの段
ほどもあらさず入り来たるは、塩谷判官高定。これも家来を残し置き、乗り物道に立てさせ、譜代の侍、早野勘平、朽葉小紋の新袴。ざわざわ ざわつく御門前。
塩谷判官高定、登城成り。
と、おとないける。
門番、罷り出で、
門番
先程、桃井様、御登城あそばされ御尋ね。只今また、師直様、御越しにて御尋ね。早や御入り。
と相い述ぶる。
ナニ 勘平、最早、皆々御入りとや。遅なはりし残念。
と、勘平一人御供にて、御前へこそは急ぎ行く。
奥の御殿は御馳走の、地謡の声、播磨潟 ” 高砂の浦に着きにけり、高砂の浦に着にけり” 謡う声々門外へ、風が持てくる柳陰。
その柳より風俗は、負けぬ所体の十八九松の緑の細眉も、堅い屋敷にもの馴れし、奇特帽子の後ろ帯。供の奴が提灯は、塩谷が家の紋所。
御門前に立ち休らい、
コレ 奴殿。やがて、もう夜も明ける。こなた衆は門内へは叶はぬ。ここから去んで、休んでや。
と、言葉に従い「ナイナイ」と、供の下僕は帰りける。
内を覗いて、
勘平殿は何してぞ。どうぞ遭いたい用がある。
と、見回す折から、
後ろかげ、ちらと見付け、
早野勘平
お軽じゃないか?
お軽
勘平様、逢いたかったに、ようこそ、ようこそ。
早野勘平
ムム 合点のいかぬ、夜中といい、供をも連れず、ただ一人。
お軽
さいなあ、ここまで送りし供の奴は先へ帰した。わし一人残りしは奥様からのお使い。「どうぞ勘平に逢うて、この文箱、判官様のお手に渡し『お慮外ながら、この返歌をお前のお手から直に師直様へお渡しなされくださりませ』と伝えよ。しかし、お取り込みの中、間違うまいものでなし、マァ 今宵はよしにしよう」とのお言葉。私はお前に逢いたい望み、何のこの歌の一首や二首、お届けなさるるほどの間の無い事はあるまいと、つい、ひと走りに走ってきた。アァ しんどや。
と吐息つく。
早野勘平
しからばこの文箱、旦那の手から師直様へ渡せばよいじゃまで。どりゃ、渡してこう。待って居い。
と言ううちに、門内より「勘平、勘平、勘平、判官様が召しまする。勘平、勘平」
ハイハイ ハイハイ、ただ今それへ。ヱヽ せわしない。
と、袖振り切って行く後へ、
どじょう踏む足つき、鷺坂伴内。
鷺坂伴内
何とお軽、恋の知恵は、また格別。勘平めとせせくっている所を、「勘平、勘平、旦那がお召し」と呼んだはきついか、きついか? 師直様がそもじに頼みたい事があるとおっしゃる。我等はそ様にたった一度、君よ君よ、
と抱きつくを
突き飛ばし、
お軽
コレ 淫らな事あそばすな。式作法のお家に居ながら狼藉千万。あた無作法な、あた不行儀。
と突き退くれば、
鷺坂伴内
それはつれない。暗がりまぎれに、つい、ちょこちょこ。
と、手を取り争う、そのうちに、「伴内様、伴内様、師直様の急御用。伴内様、伴内様」と、奴二人がうろうろ眼玉で、「これはしたり、伴内様。最前から師直様がお尋ね。式作法のお家に居ながら女を捕え、あた不行儀な。あた無作法」と、下僕が口々。
ヱヽ 同じ様に何ぬかす。
と、面ふくらして連れ立ち行く。
勘平、後へ入り替わり、
早野勘平
何と、今のはたらき見たか。伴内めが一杯食らって失せおった。俺が来て旦那が呼ばしやると言うと、おけ、古いとぬかすが面倒さに、奴どもに酒飲ませ、古いと言わさぬこの手立て。ハヽヽヽヽヽヽ まんまと首尾は仕おおせた。
お軽
サァ その首尾ついでにな。ちょっと、ちょっと、
と手を取れば、
早野勘平
ハテさて、はづんだ。マァ 待ちゃいの。
お軽
何言いはんすやら。何の待つことあるぞいなァ。もうやがて夜が明けるわいな。是非に、是非に。
是非なくも、下地は好きなり。御意はよし。
早野勘平
そでも、ここは人出入り
奥は謡の声 高砂、” 松根によって腰を擦れば、”
アノ謡で思いついた! イザ 腰かけで、
と手を引き合い、うち連れて行く。
■ 館騒動の段
脇能過ぎて御楽屋に、鼓の調べ太鼓の音。天下泰平繁昌の寿祝う直義公、御機嫌ななめならざりける。
若狭之助は、かねて待つ『師直遅し』と、御殿の内。奥を覗う長袴の紐締めくくり、気配りし『おのれ、師直、真っ二つ』と刀の鯉口を詰め。
待つとも知らぬ師直主従、遠目に見つけ、
高師直
これはこれは、若狭之助殿。さてさて、お早い御登城。イヤハヤ 我折りました。我等閉口、閉口。イヤ 閉口ついでに貴殿に言い訳いたし、お詫申す事がある。
と、両腰、ぐはわりと投げ出し、
若狭之助殿、改めて申さねばならぬ一通り、いつぞや、鶴岡で拙者が申した過言。ヲヽ お腹が立ったであろう。もっともじゃ。が、そこをお詫び。その時はどうやらした言葉の間違いでつい申した。我等一生の粗忽。武士が、これ手を下げる。まっぴらまっぴら、仮令、そこ元が物馴たお人なりゃこそ。他々のうろたえ者で見さっしゃれ。この師直、真っ二つ。恐や恐や。有りやうがその折、貴殿の後ろ影、手を合して拝みました。アハヽヽ アァ 年寄ると、やくたい、やくたい。歳に免じて御免、御免。これさこれさ、武士が刀を投げ出し手を合わす。これ程に申すのを聞き入れぬ貴公でもないわさ。ともかく、幾重にも謝り、謝り。伴内共々に、お詫び、お詫び。
と、金が言わする追従とは夢にも知らぬ若狭之助、力みし腕も拍子し抜け。今更、抜くに抜かれもせず、寝刃合わせし刀の手前、差し俯きし、思案顔。
小柴のかげには本藏が、またたきもせず守り居る。
ナニ 伴内、この塩谷はなぜ遅い。若狭之助之殿とはきつい違い。さてさて、不行儀者。今において面出しせぬ。主が主なれば家老で候とて、諸事に細心のつく奴が一人もない。イザイザ 若狭之助殿、御前へ御供いたそ。サァ お立ちなされ。サァ ササァ 師直め、謝っておるぞ。コリャ ここな粋め、粋め、粋様め。
イヤ 若狭之助、最前から、ちと心悪うござる。マァ 先へ。
高師直
何とした何とした、腹痛か。コレサ 伴内、お背中、お背中。お薬進じよかな。
桃井若狭之助
イヤイヤ それほどにもござらぬ。
高師直
しからば、少しのうち、おくつろぎ。御前の首尾は我等がよい様に申し上ぐる。伴内、一間へ御供申せ。
と、主従寄ってお手車に。
迷惑ながら若狭之助、『これは?』と思えど、是非無くも奥の一間へ入りければ、
『アァ もう楽じゃ』と、本藏は天を拝し地を拝し、お次の間にぞ控え居る。
ほどもあらさず、塩谷判官。御前へ通る長廊下。師直呼びかけ、
高師直
遅し、遅し。何と心得てござる。今日は正七つ時と、先刻から申し渡したでないか。
塩谷判官
なるほど、遅なわりしは不調法。さりながら、御前へ出るはまだ間もあらん。
と、袂より文箱取り出し、
塩谷判官
最前、手前の家来が貴公へお渡し申しくれよ。すなわち、奥 顔世方より参りし
と、渡せば、
受け取り、
高師直
なるほど、なるほど。イヤ そこ元の御内室は、さてさて心がけがござるわ。手前が和歌の道に心を寄するを聞き、添削を頼むとある。定めてその事ならん。
と、おし開き、
” さなきだに 重きが上の さよ衣 わがつまならぬ つまな重ねそ ”
ハァ? これは新古今の歌。この古歌に添削とは。ムヽヽヽ。。
と思案の内。『我が恋の叶わぬ印。さては夫に打ち明けし』と思う怒りを、さあらぬ顔。
高師直
判官殿。この歌、御ろうじたで御ざろう?
塩谷判官
イヤ ただ今見ました。
高師直
ムヽ 手前が詠むのを! アァ 貴殿の奥方はきつい貞女でござる。ちょっと遣わさるる歌がこれじや。” つまならぬ つまな重ねそ ”。アヽ 貞女、貞女。ア そこ元はあやかり物。登城も遅なはるはずの事。内にばかりへばり付いてござるによって、御前の方はお構い無いじゃ。
と、あてこする雑言過言。あちらの喧嘩の門違いとは、判官さらに合点ゆかず、『むっ』とせしが、押し鎮め、
塩谷判官
ハヽヽヽヽヽ これはこれは、師直殿には御酒機嫌か。御酒参ったの。
高師直
いつ盛らしやった。イヤ いつ呑みました? 御酒くだされても呑まいでも、勤めるところはきっと勤める。貴公はなぜ遅かったの。御酒参ったか。イヤ 内にへばり付いてござったか。貴殿より若狭之助殿、アァ 格別勤められます。イャ また、そこ元の奥方は貞女といい、御器量と申し、手跡は見事。御自慢なされ。むっとなされな、嘘は無いわさ。今日、御前にはお取り込み。手前とても同然。その中へ鼻毛らしい、イャ これは手前が奥が歌でござる。それほど内が大切なら、御出で御無用。
惣体、貴様のような内にばかり居る者を ”井戸の鮒” じゃという譬えがある。聞いておかしゃれ。かの鮒めが、僅か三尺か四尺の井の内を、天にも地にも無いように思うて、普段、外を見る事がないところに、かの井戸がへに釣瓶に付いて上がります。それを川へ放しやると、何が内にばかり居る奴じゃによって、喜んで度を失い、橋杭で鼻を打って、即座にぴぃ~り ぴぃ~り ぴりぴりと死にます。貴様も丁度、鮒と同じ事 ハヽヽヽヽヽ。
と出放題。
判官、腹に据えかね、
塩谷判官
こりゃ、こなた狂気めさったか。イャ 気が違うたか、師直!
高師直
シャ こいつ、武士をとらえて気違いとは。出頭第一の高師直を。
塩谷判官
ムヽ すりゃ、今の悪言は本性よな。
高師直
くどい、くどい。また、本性なりゃ、どうする。
塩谷判官
ヲヽ こうする。
と抜き討ちに、真っ向へ斬りつくる、眉間の大傷。「これは」と沈む身のかわし、烏帽子の頭二つに切れ、また斬りかかるを抜けつ、くぐりつ逃げ回る折もあれ、お次に控えし本藏走り出て押し止め、
加古川本藏
コレ 判官様、御短慮!
と、抱き止むるその隙に、師直は館をさして、こけつ、まろびつ逃げ行けば、
塩谷判官
おのれ師直、真っ二つ! 放せ本藏、放しゃれ!
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と競り合ううち、館もにわかに騒ぎだし、家中の諸武士・大名・小名、押えて刀もぎ取るやら、師直を介抱やら、上を下へと、
立ち騒ぐ。
■ 裏御門の段
表御門、裏御門、両方打ったる館の騒動、提灯ひらめく大騒ぎ。早野勘平、うろうろ眼、走り帰って裏御門。砕けよ割れよと打ち叩き、大声上、
早野勘平
塩谷判官の御内 早野勘平、主人の安否心許なし。ここ開けてたべ、早く早く!
と呼ばったり。
門内よりも声高々、「御用あらば表へ回れ。ここは裏門」
なるほど裏門、合点。 表御門は家中の大勢、早馬にて寄り付かれず。喧嘩の様子は何と何と?
「喧嘩の次第、相済んだ。出頭の師直様へ慮外致せし科によって、塩谷判官は閉門仰せつけられ、網乗物にて、たった今帰られし」
と聞くより、
ハァ 南無三宝。お屋敷へ。
と走りかかって、
イヤイヤイヤ 閉門ならば館へは、なお帰られじ。
と、行きつ戻りつ、思案最中。
腰元お軽、道にてはぐれ、
お軽
ヤァ 勘平殿、様子は残らず聞きました。こりゃ何としよう、どうしよう。
と、取り付き歎くを
取って突き退け、
早野勘平
ヱヽ めろめろとほへずら。コリャ 勘平が武士は、すたったわやい。もう、これまで。
と刀の柄。
お軽
コレ 待ってくだされ。こりゃ、うろたえてか、勘平殿。
早野勘平
ヲヽ うろたえた。これがうろたえずに、ゐらりょうか。主人一生懸命の場にもあり合わさず、あまつさえ、囚人同然の網乗物。お屋敷は閉門。その家来は色にふけり御供に外れしと、人中へ両腰差して出らりょうか。ここを放せ。
お軽
マヽヽ 待てくださんせ。もっともじゃ、道理じゃが、そのうろたえ武士には誰がした。みんな、わしが心から。死ぬる道なら、お前より私が先へ死ねばならぬ。今お前が死んだらば、誰が侍じゃと褒めまする?
ここをとっくりと聞き分けて、私が親里へひとまず来てくださんせ。とと様も、かか様も在所でこそあれ、頼もしい人。もう、こうなった因果じゃと思うて、女房の言う事も聞てくだされ、勘平殿。
と、わっとばかりに泣き沈む。
早野勘平
そうじゃ、もっとも。そちは新参なれば委細の事は、ゑ知るまい。お家の執権 大星由良之助殿、未だ本国より帰られず。帰国を待ってお詫びせん。サァ 一時なりとも急がん。
と、身ごしらえする所へ、
鷺坂伴内、家来引き連れ、駆け出で、
鷺坂伴内
ヤァ 勘平、うぬが主人 判官、師直様へ慮外を働き、かすり傷負わせし科によって、屋敷は閉門。追っつき、首が飛ぶは知れた事。サァ 腕回せ。連れ帰ってなぶり斬る。覚悟ひろげ。
とひしめけば、
早野勘平
ヤァ よい所へ鷺坂伴内。おのれ一羽で食いたらねど、勘平が腕の細ねぶか、料理あんばい食うてみよ。
鷺坂伴内
イヤ ものな言わすな、家来ども。
「かしこまった」と、両方より「捕った」とかかるを、
早野勘平
まつかせ、
と、かいくぐり、両手に両腕捻じ上げ、はっしはっしと蹴返せば、替わって斬り込む切っ先を、刀の鞘にて丁度受け、回って来るを鐺と柄にて、のっけにそらし、四人一緒に斬りかかるを、右と左へ一時に、田楽返しにばたばたばたと打ち据えられ、皆ちりじりに行く後へ、伴内いらって斬りかくる引っぱずし、そっ首握り、大地へどうど、もんどり打たせ、しっかと踏み付け、
サァ どうしようと、こっちまま。突こうか斬ろうか、なぶり殺し。
と振り上ぐる刀にすがって、
お軽
コレコレ そいつ殺すと、お詫の邪魔。もうよいわいな。
と留める間に、
足の下をば、こそこそと、尻に尾のない鷺坂は、命からがら逃げて行く。
早野勘平
ヱヽ 残念、残念。さりながら、きゃつをバラさば不忠の不忠。ひとまず夫婦が身を隠し、時節を待って願うてみん。
もはや明六つ、東が白らむ横雲に、ねぐらを離れ飛ぶカラス。カァカァの夫婦連れ、道は急げど後へ引く。『主人の御身、如何ぞ』と案じ、行くこそ、
浮世なれ。