■ ぬれ合羽の段
鷹は死しても穂は摘まずと、譬えに漏れず入る月や。日数も積もる山崎のほとりに近き侘び住まい、早野勘平、若気の誤り、世渡る元手細道伝い。この山中の鹿猿を撃って商う種が島も、よういに持つや、袂まで鉄砲雨のしだらでん。誰が水無月とゆう立{夕立}の、晴れ間をここに松{待つ}の陰。
向こうより来る小提灯。これも昔は弓張の、ともし火消さじ濡らさじと、合羽の裾に大雨を凌ぎて急ぐ夜の道。
イヤ 申し、申し、卒爾ながら火を一つ御無心。
と立ち寄れば、旅人もちゃくと身構し、
ムヽ この街道は無用心と知って合点の一人旅。見れば飛道具の一口(一発勝負)商い。ゑこそは貸さじ、出直せ。
と、びくと動かば一討ちと、眼を配れば、
早野勘平
イヤァ なるほど、盗賊とのお目違い、ごもっとも千万。我等はこの辺りの狩人なるが、先ほどの大雨に火口も湿り、難儀至極。サァ 鉄砲、それへお渡し申す。自身に火を付け御かし。
と、他事なき言葉。
顔つきをキッと眺めて、
千崎彌五郎
和殿は、早野勘平ならずや!?
早野勘平
そういう貴殿は千崎彌五郎!
千崎彌五郎
これは堅固で。
早野勘平
御無事で。
と、絶えて久しき対面に、主人のお家没落の、胸に忘れぬ無念の思い。互いに拳を握り合う。
勘平は、さし俯き、しばし言葉も無かりしが、
早野勘平
ヱヽ 面目もなき我が身の上。古朋輩の貴殿にも、顔もゑ上げぬこの仕合せ。武士の冥加に尽きたるか。
殿 判官公の御供先、お家の大事起こりしは、是非に及ばぬ我が不運。その場にもあり合わせず、御屋敷へは帰られず、所詮、時節を待って御詫びと。思いの外の御切腹、南無三宝。みな、師直めがなす業。せめて冥途の御供と刀に手はかけたれど、何を手柄に御供と、どの面さげて言い訳せんと、心を砕く折から、密かに様子を承れば、由良殿御親子、郷右衛門殿をはじめとして、故殿の鬱憤散ぜんため、寄々の思し召し立ち有りとの噂。我等とても、御勘当の身というでも無し、手がかり求め由良殿に対面遂げ、御企ての連判に御加えくださらば、生々世々の面目。貴殿に逢うも優曇花の花を咲せて、侍の一分立てて給われかし。古朋輩のよしみ、武士の情。お頼み申す。
と両手をつき、先非を悔いし男泣き。理り、せめて不便なる。
彌五郎も『朋輩の悔み、道理』とは思えども、大事をむさと明かさじと、
千崎彌五郎
コレサ コレサ 勘平、はてさて、お手前は身の言い訳に取り交ぜて、御企ての、イャ 連判などとは何の戯言。左様の噂かつてなし。それがしは由良殿より郷右衛門殿へ急ぎの使い。先君の御廟所へ御石碑を建立せんとの催し。しかし我々とても浪人の身の上。「これこそ塩谷判官殿の御石塔」と、末の世までも人の口の端にかかるもの故、御用金を集むる、その御使い。先君の御恩を思う人を選り出すため、わざと大事を明かされず。先君の御恩を思わば ナヽ、合点か、合点か?
と、石碑になぞらえ大星の企みを余所に知らせしは、げに朋輩のよしみなり。
早野勘平
ハアヽ かたじけない、彌五郎殿。なるほど、石碑と言いたて、御用金の御こしらえある事、とっくに承り及び、それがしも何とぞして用金を調え、それを力に御詫びと、心は千々に砕けども、彌五郎殿、恥しや主人の御罰て、今このざま。誰にこうとの頼りも無し。されども、軽が親、與市兵衛と申すは頼もしい百性。我々夫婦が判官公へ不奉公を悔み歎き、「何とぞして元の武士に立ち返れ」と、おぢ・うば共に歎き悲しむ。これ幸い、御辺に逢いし物語、段々の子細を語り、元の武士に立ち返ると言い聞かさば、わずかの田地も我が子のため、何しに否は、ゑも言わじ。御用金を手がかりに、郷右衛門殿までお取次ぎ、ひとしお頼み存ずる。
と余儀なき言葉に、
千崎彌五郎
ムヽ なるほど。しからば、これより郷右衛門殿まで、右の訳をも話し、由良殿へ願うてみん。明々日は必ず、きっと御返事。すなわち、郷右衛門殿の旅宿の所書き。
と渡せば、
取って、おし戴き、
早野勘平
重々の御世話、かたじけなし。何とぞ急に御用金をこしらえ、明々日お目にかからん。それがしが在り処お尋ねあらば、この山崎の渡し場を左へ取り、與市兵衛とお尋ねあれば、早速、相知れ申すべし。夜更けぬうちに早くもお出で。コレ この行く先は、なお物騒。随分ぬかるな。
千崎彌五郎
合点、合点。石碑成就するまでは、蚤にも食わさぬ、この体。御辺も堅固で。御用金の便りを待つぞ。さらば。
早野勘平
さらば。
と両方へ立ち別
れてぞ、急ぎ行く。
■ 二つ玉の段
またも降りくる雨の足、人の足音とぼとぼと、道は闇路に迷わねど、子ゆえの闇につく杖も、すぐなる心、堅親仁。一筋道の後から、
ヲ~イ ヲ~イ 親仁殿、良い道連れ。
と呼ばわって、斧九太夫がせがれ、定九郎。身の置所、白浪(盗賊)や、この街道の夜働き。だん平物(幅の広い刀)を落し差し、
さっきにから呼ぶ声が貴様の耳へ入らぬか。この物騒な街道を、よい歳をして大胆、大胆。連れになろう。
と、向こうへ回り、
きょろつく目玉、ぞっとせしが、さすがは老人。
これはこれは、お若いに似ぬ御奇特な。私もよい歳をして一人旅は嫌なれど、サァ いづくの浦でも金ほど大切な物はない。去年の年貢に詰まり、この中から一家中の在所へ無心にいたれば、これも、びたひらなか才覚ならず。埓のあかぬ所に長居はならず、すごすご一人戻る道。。
と、半分言わさず、
斧定九郎
ヤイ やかましい! 有様が年貢の納らぬ? その相談を聞きには来ぬ。コレ、親仁殿、俺が言う事、とくと聞かしゃれや。マァ こうじゃわ。こなたの懐に金なら四・五十両のかさ、縞の財布にあるのを、とっくりと見、つけてきたのじゃ。貸してくだされ。男が手を合わす。定めて貴様も何ぞつまらぬ事か、子が難儀に及ぶによってというような、ある格な事じゃあろ。けれど俺が見込んだら、ハテ しよことが無いと諦めて、貸してくだされ、貸してくだされ。
と懐へ手を指し入れ、引きずり出す縞の財布。
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五粽亭広貞『 斧定九郎 』
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與市兵衛
アヽ申し、それは!
斧定九郎
それはとは? これほど、ここにある物。
と、引ったくる手にすがり付き、
與市兵衛
イヱ イヱ この財布はあとの在所で草鞋買うとて、はした銭を出しましたが、後に残るは昼食の握り飯。霍乱せんようにと娘がくれた和中散・反魂丹でござります。お赦しなされくだされませ。
と、ひったくり逃げ行く先へ立回り、
斧定九郎
ヱヽ 聞き分けのない。むごい料理するが嫌さに、手ぬるう言えばつき上がる。サァ その金、ここへまき出せ! 遅いと、たった一討ち、
と、二尺八寸、拝み打ち。
與市兵衛
なふ悲しや、
と言う間もなく、唐竹割りと斬りつくる。刀の回りか、手の回りか、外れる抜き身を両手にしっかと掴みつき、
どうでもこなた、殺さしゃるの?
斧定九郎
ヲヽ 知れたこと。金のあるのを見てする仕事。小言吐かずと、くたばれ!
と、肝先へ刺しつくれば、
與市兵衛
マヽヽヽヽ まぁ待ってくださりませ。ハァ 是非に及ばぬ。なるほど、なるほど、これは金でござります。
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落合芳幾『 仮名手本忠臣蔵 五段目 』
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けれども、この金は、私がたった一人の娘がござる、その娘が命にも代えぬ大事の男がござりまする。その男のために要る金。ちと訳ある事ゆえ、浪人していまする。娘が申しまするは「あのお人の浪人も、元はわし故。何卒、元の武士にして進ぜたい、進ぜたい」と、かかとわしとへ毎夜さ頼み。
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ア 身貧にはござりまする。どうもしがくの仕様もなく、婆と色々談合して、娘にものみ込ませ、婿へは必ず沙汰無しと示し合わせ、ほんにほんに、親子三人が血の涙の流れる金。それをお前に取られて、娘は何となりましょう。コレ拝みます。助けてくだされませ。お前もお侍の果てそうなが、武士は相身互い。この金がなければ、娘も婿も人様に顔が出されぬ。たった一人の娘に連れ添う婿じゃもの、不便にござる。かはいござる。了簡してお助けなされてくださりませ。ヱヽ お前はお若いによって、まだお子もござるまいが、やんがて、お子を持って御覧ろうじませ。親仁が言いおったは、もっともじゃと思し召して、この場を助けさしやってくださりませ。マァ 一里行けば私在所。金を婿に渡してから殺されましょ。申し申し 娘が悦ぶ顔見てから死にとうござります。コレ申し、アヽ あれ あれ あれ。
と、呼ばれど、あと先遠く、山彦のこだまに哀れ催せり。
斧定九郎
オオ 悲しいこっちゃわ。もっと、とこぼえ。ヤイ 老いぼれめ、その金で俺が出世すりゃ、その恵みでうぬが倅も出世するわやい。人に慈悲すりゃ悪うは報わぬ。アァ かわいや。
と、ぐっと突く。「うん」と手足の七転八倒、のたくり回るを脛にて蹴り返し、
ヲヽ いとしや。痛かろけれど、俺に恨みはないぞや。金がありゃこそ殺せ、金が無けりゃ何のいの。金が敵じゃ、いとしぼや。南無阿弥陀仏。南無妙法蓮華経。どちらへなりと失せおろ。
と、刀も抜かぬ芋刺しゑぐり、草葉も朱に置く露や、歳も六十四苦八苦、あえなく息は絶えにけり。
「しすましたり」と件の財布、暗がり耳の掴み読み。
斧定九郎
ヒヤ 五十両。ヱヽ 久しぶりの御対面。かたじけなし。
と首に引っ掛け、死骸を直ぐに谷底へ、跳ね込み蹴込む泥まぶれ。はねは我身にかかるとも知らず、立ったる後ろより逸散に来る手負い猪。
「これはならぬ」と身をよぎる。駆け来る猪は一文字。木の根・岩角、踏み立てて、鼻怒らして泥も草木も、ひとまくりに跳び行けば、「あわや」と見送る定九郎が背骨をかけて、どっさりと肋へ抜ける二つ玉(2連の鉄砲玉)。「うん」とも「ぎゃっ」とも言う間もなく、ふすぼり返りて死したるは、心地よくこそ見えにけれ。
『猪、撃ちとめし』と勘平は、鉄砲ひっさげ、ここかしこ探り回りて、『さてこそ』と引っ立つれば、猪にはあらず。
早野勘平
ヤアヤア、こりゃ人じゃ! 南無三宝。仕損じたり!
と思えど、暗き真の闇。「誰人なるぞ」と問われもせず、まだ息あらんと抱き起こせば、手に当たる金財布。掴んでみれば、四・五十両。天の与えとおし戴き、おし戴き、猪より先へ逸散に、飛ぶがごとくに、
急ぎける。