ホーム   >   物語と絵画   >   信長公記(巻の9)と絵画  

気になるアート.com「物語と絵画シリーズ」

信長公記(巻の 9)

巻の 9 の現代語表記と登場人物関連のページです。

巻の9
 1576 (天正 4) 年 丙子
9-01:
安土 御普請の事
正月中旬より、江州 安土山
(滋賀県蒲生郡)
御普請、 惟住五郎左衛門丹羽長秀 に仰せ付けらる。
2月23日、安土に至りて、信長、御座 移され、まず、御普請 御意に相い、御褒美として、御名物の「周光茶椀」
(*1)
五郎左衛門丹羽長秀 に下さる。かたじけなき次第なり。
御馬廻、御山下に各々 御屋敷下され、面々、手前手前の普請申しつけらる。
4月朔日より、当山 大石を以て、御構えの方に石垣を築かれ、また、その内には天主を仰せ付けらるべきの旨にて、尾・濃・勢・三・越・若州・畿内の諸侍、京都・奈良・堺の大工・諸職人等、召し寄せられ、在安土 仕り侯て、瓦焼唐人の 一観 相添えられ、唐様に仰せ付けらる。観音寺山・長命寺山・長光寺山・伊庭山、所々の大石を引き下し、千・二千・三千あてにて、安土山へ上せられ候。
 石奉行: 西尾小左衛門西尾義次 ・小澤六郎三郎・吉田平内・大西、
大石を撰び取り、小石を選び退けられ、ここに 津田坊織田信澄 、大石、御山の麓まで寄せられ侯といえども、「蛇石」という名石にて、勝れたる大石に侯間、一切に御山へ上らず侯。
しかる間、 羽柴筑前羽柴秀吉瀧川左近滝川一益惟住五郎左衛門丹羽長秀 3人として、助勢 1万余の人数を以て、夜日 3日に上せられ侯。信長公 御巧みを以て、たやすく御天主へ上させられ、昼夜、山も谷も動くばかりに侯ヘき。
「 京都にも御座所 仰せ付けらるべき 」の由にて、安土御普請の儀は、
御息: 秋田城介信忠織田信忠 に様子 仰せおかせられ、
4月朔日、御出京なされ、妙光寺 御寄宿。

*1
:「珠光茶碗」。本能寺の変にて焼失

9-02:
二條殿 御構え 御普請の事
二條殿 御屋敷、幸い空地にてこれあり。泉水・大庭の眺望、面白くおぼし召され、普請の様子の条々、 村井長門守村井貞勝 に仰せ聞かせらる。

9-03:
原田備中、御津寺へ砦 討ち死の事
4月14日、 荒木摂津守荒木村重永岡兵部大輔細川藤孝惟任日向守明智光秀原田備中原田直政 4人に仰せ付けられ、上方の御人数 相加えられ、大坂へ押し詰め、
荒木摂津守荒木村重 は、尼崎
(兵庫県尼崎市)
より海上を相働き、大坂の北 野田
(大阪府大阪市)
に砦を押し並べ、3つ申し付け、川手の通路 取り切り、
惟任日向守明智光秀永岡兵部大輔細川藤孝 両人は、大坂より東南 森口
(大阪府守口市)
・森河内
(大阪府東大阪市)
両所に砦申し付けられ、 原田備中原田直政 は、天王寺に要害丈夫に相構えらる。
御敵、楼の岸・木津
(大阪府大阪市)
両所をかかわり、難波口より海上通路 仕り侯。
「 木津を取り侯へば、御敵の通路一切止め侯の間、かの在所を取り侯へ 」と、仰せ出ださる。
天王寺
(大阪府大阪市)
砦には、 佐久間甚九郎佐久間信栄惟任日向守明智光秀 置かれ、その上、御検使として、 猪子兵助猪子高就大津伝十郎 ( 大津長治 )大津長治 差し遣わされ、すなわち御請け申し侯。
5月 3日 早朝、先は 三好笑岩三好康長 ・根来・和泉衆、2段は 原田備中原田直政 ・大和・山城衆、同心致し、かの木津へ取り寄せ侯のところ、
大坂、楼の岸より罷り出で、1万ばかりにて押し包み、数千挺の鉄砲を以て散々に撃ち立て、上方の人数 崩れ、 原田備中原田直政 手前にて受け止め、数刻 相戦うといえども、猛勢に取り籠められ、既に、 原田備中原田直政 ・塙喜三郎・塙小七郎・蓑浦無右衛門・丹羽小四郎、枕を並べて討ち死なり。
そのまま、一僕ども天王寺へ取り懸かり、 佐久間甚九郎佐久間信栄惟任日向守明智光秀猪子兵介猪子高就
大津伝十郎大津長治 、江州衆 立て籠り侯を取り巻き、攻め侯なり。
その折節、信長、京都に御座の事にて侯。すなわち、国々へ御触れなさる。

9-04:
御後巻 再三 御合戦の事
5月 5日、後詰として、御馬を出だされ、明衣
[ゆかたびら]
の仕立て わずか 100騎ばかりにて、若江
(大阪府東大阪市)
に至りて御参陣。
次日 御逗留あって、先手の様子をも聞かせられ、御人数をも揃えられ侯といえども、にわか懸けの事に侯間、相調わず、下々の者 人足以下、なかなか相続かず、首々ばかり着陣に侯。
しかりといえども、【 五、三日の間をもかかわり難き 】の旨、度々注進侯間、
「 攻め殺させ侯ては、都鄙の口難、御無念 」の由、上意なされ、
5月 7日、御馬を寄せられ、1万5千ばかりの御敵に、わずか 3千ばかりにて打ち向わせられ、御人数 3段に御備えなされ、住吉
(大阪府大阪市)
口より懸けらせられ侯。
御先 1段: 佐久間右衛門佐久間信盛松永弾正松永久秀永岡兵部大輔細川藤孝 、若江衆。
ここにて、 荒木摂津守荒木村重 に「 先を仕り侯へ 」と仰せられ侯へば、
「 我々は木津口の押えを仕り候わん 」と申し侯て、御請け申さず。
信長、後に「 先をさせ侯はで、御満足 」と仰せられ侯ヘき。
2段: 瀧川左近滝川一益蜂屋兵庫蜂屋頼隆羽柴筑前羽柴秀吉惟住五郎左衛門丹羽長秀稲葉伊予稲葉一鉄
氏家左京助氏家直昌伊賀伊賀守安藤守就
3段 御備え:御馬廻、
この如く仰せ付けられ、信長は先手の足軽にうち混じらせられ駆け廻り、ここかしこと、御下知なされ、薄手を負はせられ、御足に鉄砲当り申し侯へども、されども天道照覧にて、苦しからず。
御敵、数千挺の鉄砲を以て放つ事、降雨の如く 相防ぐといえども、
どっと懸かり崩し、一揆ども斬り捨て、天王寺へ懸け入り、御一手に御成り侯。
しかりといえども、大軍の御敵にて侯間、終に引き退かず、人数を立て固め相支え侯を
「 また重ねて御一戦に及ばるべき 」の趣、上意に侯。ここにて、各御味方 無勢に侯間、
「 この度は御合戦 御延慮、もっとも 」の旨、申し上げられ侯といえども、
「 今度 間近く寄り合い侯事、天の与うる所 」の由、御諚侯て、
後は 2段に御人数備えられ、また斬り懸かり追い崩し、大坂城戸口まで追いつき、頸数 2,700余討ち捕る。
これより大坂四方の塞々に、10ヶ所 付城 仰せ付けらる。
天王寺には、 佐久間右衛門佐久間信盛甚九郎佐久間信栄進藤山城進藤賢盛松永弾正松永久秀松永右衛門佐松永久通
水野監物水野直盛池田孫次郎池田秀雄山岡孫太郎山岡景宗青地千代寿青地元珍 、これらを定番として置かれ、
また、住吉 浜手に要害こしらえ、 まなべ七五三兵衛 ( 真鍋七五三兵衛 )真鍋七五三兵衛沼野伝内沼野伝内 、海上の御警固として入れ置かる。
6月5日、御馬を納められ、その日、若江に御泊。次日、真木島へ御立ち寄り、井戸若狭 に下され、かたじけなき次第なり。二条 妙覚寺 御帰洛。
翌日、安土に至りて御帰陣。
7月朔日より、重ねて、安土 御普請 仰せ付けられ、いずれも粉骨の働きによって、あるいは御服、あるいは金銀・唐物 拝領、その数を知らず。今度 名物:
「吊絵」- 惟住五郎左衛門丹羽長秀 、上意を以て召し置き申され、
「大軸の絵」
(*2)
羽柴筑前羽柴秀吉 取り求められ、両人、名物 所持仕られ侯事、御威光ありがたき次第なり。

*2
:伝 牧谿筆「 洞庭秋月 」か。(「瀟湘八景図」の一つ)

9-05:
西国より大船を催し 木津浦の船軍 歴々 討ち死の事
7月15日の事に侯。中国 安芸の内、能島・来島・児玉大夫・粟屋大夫・浦兵部と申す者、7- 800艘の大船を催し、上乗侯て、大坂表海上へ乗り出し、兵粮入るべき行てに侯。
打ち向いし人数: まなべ七五三兵衛真鍋七五三兵衛沼野伝内沼野伝内沼野伊賀・沼野大隅守・宮崎鎌大夫宮崎鹿目介尼崎小畑・花隈
(兵庫県神戸市)
野口、これらも 300余艘 乗り出だし、木津川口を相防ぎ侯。御敵は大船 800艘ばかりなり。乗り懸け相戦い侯。
陸は大坂 楼の岸、木津ゑつ田が城より一揆ども競い出で、住吉 後手の城へ足軽を懸け、天王寺より、 佐久間右衛門佐久間信盛 人数を出だし横手に懸け合い、押しつ押されつ、数刻の戦いなり。
かよう候ところ、海上は、ほうろく・火矢などという物をこしらえ、御味方の舟を取り籠め、投げ入れ投げ入れ、焼き崩し、多勢に敵わず、 七五三兵衛真鍋七五三兵衛 ・伊賀・ 伝内沼野伝内 ・野口・
小畑・鎌大夫・鹿目介、この他 歴々 数輩 討ち死侯。
西国舟は勝利を得、大坂へ兵粮を入れ、西国へ人数 打ち入るるなり。
信長 御出馬なさるべきところ、既に落去の由侯の間、是非に及ばず。
その後、住吉 浜の城 定番として、 保田久六 ( 保田安政 )保田安政 ・塩井因幡守・伊知地文大夫・宮崎二郎七、番手に入れ置かれ侯。

9-06:
安土 御普請 首尾仕るの事
安土山 御天主の次第:
石蔵の高さ 12間余り(22m)なり。石蔵の内を一重土蔵に御用い、これより 7重なり。
2重、石蔵の上、広さ北南へ 20間(36m)、西東へ 17間(31m)、高さ16間(30m)。ま中に有る柱数 204本立。本柱 長さ 8間(15m)、太さ 1尺5寸- 6寸(47cm) 四方/1尺4寸(42cm) 三方 木。
御座敷の内、ことごとく布を着せ、黒漆なり。
西 12畳敷、墨絵に梅の御絵を 狩野永徳狩野永徳 に仰せ付けられ、描かせられ侯。いずれも、下より上まで御座敷の内 御絵所、ことごとく金なり。
同間の内 御書院あり。これには「遠寺晩鐘」の景気 描かせられ侯。その前に、盆山を置かせられ、次 4畳敷、御棚に鳩の御絵を描かせられ侯。また 12畳敷、鵝を描かせられ、すなわち「鵝の間」と申すなり。また、その次、8畳敷、奥 4畳敷に 雉の子を愛する所あり。
南また、12畳布、唐の儒者たちを描かせられ、また、8畳敷あり。
東は 12畳敷、次 3畳布、その次 8畳敷:御膳こしらえ申す所なり。また、その次 8畳敷、これまた、御膳こしらえ申す所なり。6畳敷 御納戸、また、6畳敷、いずれも御絵所 金なり。
北の方に御土蔵あり。その次、御座敷 26畳敷 御納戸なり。西 6畳敷、次 10畳敷。また、その次 10畳敷、同 12畳敷。御納戸の数 7つあり。この下に金灯爐 置かせられたり。
3重目、12畳敷、花鳥の御絵あり。すなわち「花鳥の間」と申すなり。別に 1段、4畳敷 御座の間あり。同 花鳥の御絵あり。次 南 8畳敷「賢人の間」に、瓢箪より駒の出でたる所あり。東「麝香の間」8畳敷、12畳敷、御門の上。
次 8畳敷「呂洞賓」と申す仙人、ならびに「傅説」の図あり。北 20畳敷、駒の牧の御絵あり。次 12畳敷「西王母」の御絵あり。西、御絵は無し。御縁 2段、広縁なり。24畳敷の御物置の御納戸あり。口に 8畳敷の御座敷これあり。柱数 116本立なり。
4重目、西12間に、岩に色々木を遊ばされ、すなわち「岩の間」と申すなり。次、西 8畳敷に龍虎の戦いあり。南 12間、竹色々描かせられ「竹の間」と申す。次 12間に松ばかりを色々遊ばされ、すなわち「松の間」と申す。
東 8畳敷、桐に鳳凰 描かせらる。次 8畳敷、許由
[きょゆう]
耳を洗えば、巣父
[そうほ]
牛を牽いて帰る所、両人の出でたる故郷の体。次 御小座布 7畳敷、泥ばかりにて、御絵は無し。
北 12畳敷、これに御絵は無し。次 12畳敷、この内、西 2間の所に、手毬の木 遊ばさる。次 8畳敷、庭子の景気、すなわち「御鷹の間」と申すなり。柱数 93本立。
5重目、御絵は無し。南北の破風口に 4畳半の御座敷、両方にあり。「小屋の段」と申すなり。
6重目、8角 4間あり。外柱は朱なり。内柱は皆 金なり、釈門十大弟子等、尺尊成道御説法の次第、御縁輪には餓鬼ども・鬼ども描かせられ、御縁輪のはた板には、シャチホコ・飛龍を描かせられ、高欄 擬宝珠、彫り物あり。
上 7重目、3間四方、御座敷の内、皆 金なり。外側は、これまた 金なり。四方の内柱には、上り龍・下り龍。天井には、天人御影向の所。御座敷の内には、三皇・五帝・孔門十哲・商山四皓・七賢等を描かせられ、ひうち、ほうちゃく、数 12吊らせられ、狭間戸 鉄なり。数 60余あり、皆、黒漆なり。
御座敷の内外柱、惣々、漆にて、布を着せさせられ、その上、皆 黒漆なり。 上 1重の金具は、後藤平四郎 仕り候。京・田舎衆、手を尽し申すなり。 2重めより、京の 躯阿弥、金具なり。
御大工: 岡部又右衛門岡部又右衛門 、 漆師 首刑部、白金屋の御大工:宮内遊左衛門。瓦:唐人の 一観 に仰せ付けられ、奈良衆 焼き申すなり。御普請奉行:森三郎左衛門。
そもそも、当城は、深山こうこうとして、麓は歴々甍を並べ軒を継ぎ、光輝 御結構の次第、申すに足らず。西より北は、湖水漫々として、舟の出入満々て、遠浦帰帆・漁村夕照・浦々の漁火、湖の中に竹生島とて名高き島あり。また、竹島とて、峨々と聳えたる巌あり。奥の島山、長命寺観音、暁夕の鐘の声、音信
[おとず]
れて、耳に触る。海より向うは、高山比良のの獄・比叡の大嵩・如意ガ岳。
南は、里々、田畠平々、富士と喩えし三上山。東は観音寺山。麓は海道 往還引き続き、昼夜絶えずという事無し。御山の南、入江渺々として、御山下門を並べ、籟の声おびただしく、四方の景気、その数を尽し、御殿唐様を学ぶ。将軍の御館、玉石を研き、瑠璃を延べ、百官快よく、貴美を尽し、花洛を移さる。
御威光・御手柄、勝計べからず。
「松花の壷」「金花の壺」とて、隠れなき名物参り、御機嫌 斜ならず。また、節も無き矢箆、真鳥の羽を付け、 佐々木左京大夫六角義賢 の家に代々所持侯、今度、布施三川守、求め進上候。 この如く、希有の御道具 参り集まり侯なり。
先年、佐和山にて作りおかれ候 大船、一年、 公方足利義昭 様 御謀叛のみぎり、一度御用に立てられ侯。 この上は、大船要らざるの由にて、 猪飼野甚介猪飼野正勝 に仰せ付けられ、取りほどき、早舟 10艘に作りをかせられ、
11月 4日、御上洛。陸を勢田通り、二条 妙覚寺に至りて御寄宿。
同 12日、赤松・ 別所小三郎別所長治別所孫右衛門別所重宗 ・浦上遠江守・浦上小次郎、参洛侯て、御礼これあり。

9-07:
御官を進められ、御衣御拝領の事
天正 4 丙子 11月 21日
重ねて、信長、「内大臣」に御官を進められ、また、今般、摂家・清花等へ御知行 参らる。禁中へ黄金 200枚・沈香・巻物、色々数を尽し、叡覧に備えらる。
その時、かけまくも、かたじけなく、御衣を御拝領。御面目の次第、これに過ぐべからず。
御官位、吉例に任せ、直ちに石山 世尊院
(滋賀県大津市)
に至りて御成り。
山岡美作山岡景隆山岡玉林山岡景猶 兄弟、御祝言の御膳上げ申され、石山 両日 御鷹つかわされ、
霜月(11月)25日、安土御下り。

9-08:
三州吉良へ御鷹野の事
12月 10日、吉良
(愛知県西尾市)
御鷹野のため、佐和山 御泊。
11日、岐阜まで御出で、翌日、御逗留。
13日、尾州 清須に御下着。
22日、三州 吉良に至りて御着座。3日の御逗留、ものかず仰せ付けらる。
26日、清洲まで御帰り。
12月晦日、濃州に御成り、岐阜にて御越年侯ヘき。





この巻の登場人物と他巻リンク

織田信長 [42歳]

青地元珍 [16] あおち もとたか

明智光秀 [48] あけち みつひで

足利義昭 [39] あしかが よしあき

荒木村重 [41] あらき むらしげ

安藤守就 [73] あんどう もりなり

猪飼野正勝 [--] いかいの まさかつ

池田秀雄 [48] いけだ ひでお

稲葉一鉄 [61] いなば いってつ

猪子高就 [30] いのこ たかなり

氏家直昌 [--] うじいえ なおまさ

大津長治 [--] おおつ ながはる

岡部又右衛門 [--] おかべ またえもん

織田信澄 [18] おだ のぶすみ

織田信忠 [21] おだ のぶただ

狩野永徳 [33] かのう えいとく

佐久間信栄 [20] さくま のぶひで

佐久間信盛 [48] さくま のぶもり

進藤賢盛 [--] しんどう たかもり

滝川一益 [51] たきがわ かずます

西尾義次 [46] にしお よしつぐ

丹羽長秀 [41] にわ ながひで

沼野伝内 [--] ぬまの でんない

羽柴秀吉 [39] はしば ひでよし

蜂屋頼隆 [42] はちや よりたか

原田直政 [--] はらだ なおまさ

別所重宗 [47] べっしょ しげむね

別所長治 [18] べっしょ ながはる

細川藤孝 [42] ほそかわ ふじたか

松永久秀 [66] まつなが ひさひで

松永久通 [33] まつなが ひさみち

真鍋七五三兵衛 [--] まなべ しめのひょうえ

水野直盛 [--] みずの なおもり

三好康長 [--] みよし やすなが

村井貞勝 [56] むらい さだかつ

保田安政 [21] やすだ やすまさ

山岡景隆 [50] やまおか かげたか

山岡景猶 [--] やまおか かげなお

山岡景宗 [37] やまおか かげむね

六角義賢 [55] ろっかく よしかた