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信長公記(巻の12)

巻の12 の現代語表記と登場人物関連のページです。

巻の12
 1579 (天正 7) 年 己卯
12-01:
摂津国 御陣の事
江州 安土御山にて御越年なされ訖んぬ。歴々御衆、摂州 伊丹表 数ヶ所の御付城、各々御在番の儀に付きて、御出仕これ無し。
正月 5日、 九鬼右馬允九鬼喜隆 、堺の津より罷り上り、安土御山にて年頭の御礼 申し上ぐるのところ、 「 今の隙に在所へ罷り越し、妻子 見申し侯て、やがて上国 仕るべき 」の旨、かたじけなくも御暇下され、満足にて、勢州へ罷り下るなり。
2月 8日、御小姓衆・御馬廻・御弓衆に仰せ付けられ、馬淵
(滋賀県近江八幡市)
より、切り石 350余召し上げらる。翌日、御鷹の雁・鶴、いずれも下され、かたじけなく頂戴。
2月18日、御上洛。二条新造へ御座を移さる。
21日、東山 御鷹つかわされ、28日、また、東山、御鷹野。
3月 2日、賀茂山、御鷹つかわされ侯。
3月 4日、 中将信忠織田信忠北畠信雄織田信雄織田上野守織田信包織田三七信孝織田信孝 、御上洛。
3月 5日、信長公 御父子、摂州 伊丹
(兵庫県伊丹市)
表に至りて、御動座。山崎 御陣取り。次日、天神馬場より路次すがら、御鷹つかわされ、郡山
(大阪府茨木市)
陣取り。
3月 7日、信長公、古池田
(大阪府池田市)
に至りて御陣を居えさせられ、諸卒は伊丹四方に陣取り。越州衆: 不破不破光治前田前田利家佐々佐々成政原政茂金森金森長近 、これらも参陣なり。
岐阜中将信忠織田信忠 、御砦:賀茂岸
(兵庫県川西市)
・池の上、2ヶ所、丈夫に御要害 仰せ付けらる。四方 付城相構え、手前手前に堀を掘り、堀柵を御普請なり。
3月13日、高槻
(大阪府高槻市)
の城 御番手として 大津伝十郎大津長治 遣わさるるところに、病死の由、侯へき。
3月14日、多田
(兵庫県川西市)
の谷、御鷹つかわされ侯。塩河勘十郎、一献進上の時、御道服下され、頂戴。かたじけなき次第なり。
3月晦日、御鷹野、箕雄の滝
(大阪府箕面市)
見物。その日「十三尾」の御鷹、少し足を痛め申し侯由 - 逸物もの数仕り侯、秘蔵並び無く - 、毎日の御鷹野、信長公の御辛労 申すばかりなく、御気力強き事、諸人感じ申すなり。
4月朔日、 岐阜中将信忠卿織田信忠 の御小姓衆:佐治新太郎金森甚七郎、口論いたし、
甚七郎 刺し殺し、新太郎 腹切、相果て候。両人の年齢は 20ばかりの人にて侯。手前神妙の働き、上下、感じ申し侯。
4月 8日、御鷹野へ御出で、古池田
(大阪府池田市)
東の野にて御狂い、これあり。御馬廻・御小姓衆には、馬を乗せさせられ、御弓衆、御側に置かせられ、二手に分けて、馬乗衆、御責子
[せこ]
衆の中へ懸け入り候はんと馬を駆けられ、信長公、御責子衆と御一所に御座候て塞がせられ、御狂いありて、御気を晴らさせられ、それより直ちに御鷹野なり。
4月 8日、播州へ御人数出ださる。越前衆: 不破不破光治前田前田利家佐々佐々成政原政茂金森金森長近
織田七兵衛信澄織田信澄堀久太郎堀秀政
4月10日、 惟住五郎左衛門丹羽長秀筒井順慶筒井順慶 ・ 山城衆 出陣。
4月12日、 中将信忠卿織田信忠北畠信雄卿織田信雄織田上野守織田信包織田三七信孝織田信孝 、御馬を出ださる。 猪子兵介猪子高就飯尾隠岐守飯尾尚清 両人、播州 三木表
(兵庫県三木市)
、今度、御砦 御普請の御検使として、相添え遣わされ侯。 中将信忠卿織田信忠 御砦、古屋野
(兵庫県伊丹市)
・池上 御留守: 永田刑部少輔永田正貞牧村長兵衛牧村利貞生駒市左衛門生駒一吉 の 両 3人、御番手に仰せ付けられ侯。
4月15日、丹波より、 惟任日向明智光秀 、御馬進上のところに、すなわち、
日向明智光秀 に下さる 」の由にて、御返しなされ侯。
4月17日、関東 常陸国、多賀谷修理亮
( 多賀谷重経 )
、星河原毛の御馬、長さ 4寸8分(15cm)、歳 7歳、太くたくましき駿馬、はるばる牽き上げ進上。ここの道、30里(118km) を乗り帰り堪え者の由候。御祝着 斜ならず。
青地與右衛門青地與右衛門 に仰せ付けられ、御馬 責めさせられ侯。「正宗」の御腰物、 青地青地與右衛門 に下され候。これは、佐々木 所持侯を、 佐々内蔵佐佐々成政 求め侯て、黄金 10枚付け侯て、鞘巻きの熨斗付けにこしらえ進上の刀なり。 外聞実儀、かたじけなき次第なり。
多賀谷修理 方へ遣わせられし注文:
 御小袖 5つ、縮 30端、以上。
 銀子 5枚、これは使者に下され侯なり。
4月18日、 塩河伯耆守塩河長満 へ、銀子 100枚遣わされ侯。御使: 森乱 ( 森長定 )森長定
中西権兵衛中西権兵衛 相添え下され、「 過分、かたじけなき 」の由、侯なり。
稲葉彦六稲葉貞通 砦:河原ロ
(兵庫県伊丹市)
ヘ、伊丹城より足軽を出だし侯。すなわち、
塩河伯耆塩河長満氏家左京氏家直昌 懸かり合い、暫く取り合い、随分の者 3人討ち取り侯。
播州 三木表
(兵庫県三木市)
にても、御敵、足軽を出だし、 中将信忠卿織田信忠 御手へ、頸数 10人ばかり討ち捕り、勝利を得らるる由、御注進これあり。
4月23日、隼巣子、丹波より、 惟任日向明智光秀 求め、進上なり。

「御狂い」という表現で、信長の「うつけ」再発を記載。
4月15日のこと、信長としては善意であったのかもしれないが、送り返された光秀としては、「むっ」としたことであろう。

12-02:
京都四条こゆい町 糸屋 後家の事
さるほどに、京都に前代未聞の事あり。
下京 四条 小結町、糸屋 後家に、70に及ぶ老女あり。1人の娘を持ち侯。母と一所に侯ひつる。
4月24日の夜、母に良き酒を求め、思うほど強いて飲ませ、酔い臥し侯時、土蔵の内に置き、夜更け人静まりて、母を刺し殺し、手づから、かわこへ入れ、よくからげて、- 法花衆にて侯へども - 誓願寺の沙彌を呼び寄せ、人の知らぬ様にして、寺へ遣わし侯。
下女 1人侯ひつる。かれには美しき小袖を取らせて、「 人に深く隠密いたし侯へ 」と申し付け侯。彼女、後を怖しく思い、 村井長門村井貞勝 所へ走り入り、この有様 申し侯。
すなわち、かの娘を搦め捕り、糾明をとげ、4月28日、上京 一条の辻より車に乗せて、洛中を引かせ、六条河原にて成敗侯なり。

12-03:
二条殿・烏丸殿・菊庭殿・山科右衛門督殿・嵯峨策彦・武藤弥平衛、病死の事
4月26日、古池田
(大阪府池田市)
前、信長 御出でなされ、御狂いあり。以前の如く、御馬廻・御小姓衆、 近衛近衛前久 殿 ・ 細川右京大夫細川昭元 殿、これも御馬を召され、二手に分れて、御足軽 御懸け引き、面白く遊ばし、御気を晴らさせられ侯。
中将信忠卿織田信忠 、播州 三木表
(兵庫県三木市)
、今度、6ヶ所 塞々に御砦 仰せ付けられ、それより、小寺藤兵衛(政職) 居陣:御着
(兵庫県姫路市)
へ御馬寄せられ、押し詰め、御放火。
4月28日、有馬郡まで 中将信忠卿織田信忠 御馬入れられ、これより直ちに野瀬郡
(兵庫県三田市)
へ御働き、耕作薙ぎ捨つ。
4月29日、古池田
(大阪府池田市)
まで御帰陣。信長公へ播州表の様子 仰せ上げらるるのところに、すなわち
「 御下国侯へし 」旨、御詫侯。その日、東福寺まで御成り。
次日、岐阜に至りて御帰城。
越前衆・ 惟住五郎左衛門丹羽長秀 、御敵城: 淡河
(兵庫県神戸市)
の城へ差し向い、御砦申し付け、古池田へ帰城侯て、様子言上のところ、越前衆、御暇下され、帰国侯なり。
その他衆、伊丹表 定番 仰せ付けられ侯ヘき。
塚口郷
(兵庫県尼崎市)
惟住五郎左衛門丹羽長秀蜂屋兵庫頭蜂屋頼隆蒲生忠三郎蒲生氏郷
塚口の東田中: 福富平左衛門福富秀勝山岡対馬守山岡景佐 ・山城衆
毛馬
(兵庫県尼崎市)
永岡兵部大輔細川藤孝與一郎細川忠興頓五郎細川昌興
川端砦: 池田勝三郎池田恒興 父子 3人。
田中
(兵庫県尼崎市)
中川瀬兵衛中川清秀古田左介古田織部
四角屋敷: 氏家左京亮氏家直昌
河原砦: 稲葉彦六稲葉貞通 ・芥川
賀茂岸: 塩河伯耆塩河長満伊賀平左衛門安藤定治 ・ 伊賀七郎
池上: 中将信忠卿織田信忠 、御人数 御番替え
小屋野
(兵庫県伊丹市)
古城: 瀧川左近滝川一益武藤宗右衛門武藤舜秀
深田: 高山右近高山右近
倉橋
(大阪府豊中市)
池田勝九郎池田元助 、 以上。
かくのごとく、四方に御砦 仰せ付けられ、2重 3重 堀を堀り、塀柵を付け、手前手前、堅固に申し付けられ侯。
5月朔日、信長公 御帰洛。
さる程に、二条 殿・ 烏丸烏丸光康 殿・菊庭 殿・山科左衛門督 殿・嵯峨之策彦、この頃、歴々 病死なされ侯なり。
5月 3日、信長公、御下り。路次は山中より坂本へ、御小姓衆ばかり召し列れられ、御舟にて直ちに安土御帰城。
5月11日、吉日に付きて、信長、御天主へ御移徒。
5月25日 夜中、 羽柴筑前守秀吉羽柴秀吉 、播州 海蔵寺
(兵庫県神戸市)
の砦へ忍び入り、乗っ取り候。これにより、次日置き、淡河の城も明け退くなり。

12-04:
法花 浄土宗論の事
5月中旬の事 侯。関東より浄土宗:霊誉 という長老 上国候て、安土町にて談儀を述べられ候。法花衆:建部紹智大脇伝介 両人、説法の座へ罷り出で、不審を懸け申し侯。長老申さる様、
「 若輩の方々へ開きを申し侯へども、仏法の上、更に耳に入るべからず。所詮、両人の頼まれ侯、法花坊主を出だされ侯はば、返答申すべし 」と、返事侯て、7日候はん法談の 11日まで延べられ侯て、法花方へ使いを立てられ侯。
法花衆も「 宗論いたし候はん 」と申し侯て、京都より長命寺の 日光常光院九音院・妙願寺の大蔵坊・堺の油屋弟坊主:妙国寺不伝、歴々の僧衆、都鄙の僧俗、安土へ群れ集まり侯。
この旨、聞こしめし及ばれ、
「 御前に御祗候の衆も、余多 法花衆、御座侯。信長公 御諚として御扱いなさるべく侯の間、無事、もっとも 」の由、 菅屋九右衛門菅屋長頼矢部善七郎矢部家定堀久太郎堀秀政長谷川竹長谷川秀一 、これらを御使として、仰せ出だされ侯。
浄土宗は、何様にも上意次第の旨、御請け申され侯へども、法花方より、勝に乗って同心これなく、既に宗論に極まる。
その時、
「 さ候はば、判者を仰せ付けらるべく侯間、書き付けを以て勝負を御目に懸け侯へ 」と御諚侯て、五山の内にても物知りに侯: 日野の 秀長老 召し上せらる。折節、因果居士 参られ侯。これも相添えられ、安土町末、浄土宗の寺:浄厳院 仏殿にて、宗論あり。
寺中御警固として、 織田七兵衛信澄織田信澄菅屋九右衛門菅屋長頼矢部善七郎矢部家定堀久太郎堀秀政
長谷川竹長谷川秀一 、5人仰せ付けらる。
法花宗は、おびただしく結構に出立ち、長命寺日光・浄光院・九音院・堺の油屋弟坊主:妙国寺不伝。妙願寺の大蔵坊、筆執りにて、法花八軸に硯・料紙を取り持ち出でられ侯。
浄土宗は、墨衣にて、如何にも左道なる仕立て、関東の長老、安土 田中の 貞安長老 2人、これも硯・料紙を持ち侯て出でらる。
関東の 霊誉長老 は
「 予のしわざに侯間、申すべし 」と仰せられ侯を、田中の 貞安、早口にて初問を置かれ、それにより互いの問答 書き付くる。
貞安 問い言う 法花八軸の中に 念仏あるや?
法花 言う 答、念仏これあり
貞安 言う 念仏の義あらば、何ぞ『無間に落つる念仏』と、法花に説くや?
法花 言う 法花の弥陀と、浄土の弥陀と、一体か? 別体か?
貞安 言う 弥陀は、いずくに有る弥陀も一体よ
法花 言う さては、何ぞ浄土門に、法花の弥陀を『捨閉閣抛』と捨るや?
貞安 言う 念仏を捨てよと言うに非ず。念仏を修する機の前に、念仏の他の『捨閉閣抛』と云うなり
法花 言う 念仏を修する機の前に法花を捨てよ、という経文ありや?
貞安 言う 法花を拾つるという証文こそあれ、浄土経に云う『善立方便 顕示三乗』と云々、また『一向専念 無量寿仏』云々
法花の無量之儀経に、方便を以て『四十余年 未顕真実』と云えり
貞安 言う 40余年の法門を以て爾前を捨て、方座第 4の『妙』の 1字は、捨つるか? 捨てざるか?
法花 言う 40余年、4妙の中には?、、何ぞや??
貞安 言う 法花の『妙』よ。汝知らざるか!?
この返答、これ無く、閉ロす。
貞安 また言う  捨つるか? 拾てざるか?
 を訊ねしところに、言無くす。
その時、判者をはじめ、満座一同に、どっと笑いて袈裟を剥ぎ取る。
天正 7 己卯 年 5月27日 辰亥(8:00)、関東の長老、扇を披き立て、一舞、舞われたり。
長命寺日光、『妙』の 1字に詰まり打擲せられ、八軸の経王も、見物の者ども手々に破り取り、法花衆、四方へ、ぱっと逃げ散り候。
口々渡り渡りまで追手を懸け、少々止め置き、宗論勝負の書付け 上覧に備えらるるのところ、すなわち、信長公 時刻を移さず、午刻(12:00) に御山下なされ、浄厳院へ御座を移され、法花衆・浄土宗 召し出だれ、まず、関東の 霊誉長老 へ御扇を出だされ、田中の 貞安長老 へ御団を下され、御褒美 斜ならず。秀長老へは、先年、堺の者 進上仕り侯「東坡が杖」参られ候。
さて、大脇伝介 召し出だされ、仰せ聞かせらるるの趣、
「 一国一郡を持つ身にても似合わざるに、おのれは大俗といい町人といい、塩売りの身として、今度、長老の宿をも仕り候間、贔屓をば仕り侯はで、人にそそなかされ、長老へ不審申し懸け、都鄙の騒ぎ不届の次第 」条々、御諚侯て、まず頸を斬らせられ、
また、普伝 召し出だされ、度々、 近衛近衛前久 殿、御雑談の様子、仰せ聞かせらる。
普伝、九州より罷り上り、去る秋より在洛侯。一切経の内、いずれの所に如何様の文字これありと、中にて申すほどの物知りの由に侯。但し、何宗とも無く侯。「 八宗顕学仕り侯中には、法花衆、能き宗 」の由、常々申し侯て、「 信長申し侯はば、何れの門家にもなるべし 」と申し侯。
行義は、普伝、ある時は紅梅の小袖、またある時は薄絵の衣装などを着して、
「 己れが着たる破れ小袖、結縁 」と申し侯て、人に取らせ侯、
由、 近衛近衛前久 殿 仰せられ侯。
後に、よくよく聞こし召し及ばれ侯へば、殊勝顔に聞き侯へども、仮小袖にて作り物仕り侯。 かほど物知りの普伝さえ聞き入れ、法花衆になられ侯と申し侯はば、法花繁昌たるべく侯間、懇望せられ、属詫を取り、日蓮党になり候わん巧み、老後に及び虚言を構え不似合。
「 今度、法文に勝ち侯はば一期進退なり侯様に仕り候はんと、属詫堅約にて、法花に頼まれ、御届をも申し上げず罷り下り、日頃の申し分相違、曲事 」の由、御諚侯。
「 その上、不伝は法文申さず、先ず人に宗論言わせ、勝ち目に侯はば罷り出づべしと存知、出でざる事、胸の弱き仕立て、相届かざる 」旨、条々聞かれ、普伝をも頸を斬らせられ、
残る歴々僧衆へ仰せ出ださる様、
「 総別、諸侍 軍役勤め、日々迷惑仕り侯に、寺庵 結構に仕り、活計を致し、学文をもせず、『妙』の 1字に詰まり侯し事、第一、曲事に侯。さ侯へども、法花衆は、口の過ぎたる者に侯。後日、宗論負け申したるとは、定めて申すまじく侯。宗門を変え、浄土宗の弟子になり侯か? 然らずんば、今度、宗論負け申す上は、今より以後、他宗を誹謗仕るまじきの旨、墨付を出だし侯へ 」と上意のところに、すなわち、御請け申す。
  敬白 起請文事
今度、江州 浄厳院において浄土宗と宗論仕り、法花衆 負け申すに付いて、京の坊主:普伝、ならびに塩屋伝介、仰せ付けられ候事。
向後、他宗に対し、一切 法難いたすべからざるの事。
法花一分の儀、立て置かるべきの旨、かたじけなく存知たてまつり侯。法花上人衆、ひとまず浪人仕り、重ねて召し置かるるの事。
 (天正7) 5月27日               法花宗
   上様、浄土宗
かくのごとき誓紙 進上侯。しこうして「宗論 負け申し侯」と書き出だし、「負」の字、不思議の女童までも、末代において聞き知る事に侯。「代わり詞、如何程もこれあるべきを、越度仕り侯」と、歴々の僧衆、後悔仕り侯由、承り及び侯なり。また、諸人、これを笑いものに仕り侯。
また、建部紹智、堺の津まで逃げ行き候ひしを、追手を懸け搦め取り、今度、大脇伝介・建部紹智 両人の仕業によって、かくのごとく候間、これまた、頸を斬らせられ候。

ルイス・フロイスの「日本史」の中にも同様の記述がある。内容が似ており、牛一とフロイス間で情報交換があったのか? とすら思えてしまう。いや、共にネタ本としたものが先にあったのかもしれない。

12-05:
丹波国 波多野兄弟 張り付けの事
さるほどに、丹波国 波多野波多野秀治 館、去年より 惟任日向守明智光秀 押し詰め 取り巻き、3里(12km)四方に堀を掘らせ、塀・柵を丈夫に幾重も申し付け攻められ侯。籠城の者、既に餓死に及び、初めは草木の葉を食とし、後には牛馬を食し、了簡尽き果て、無体に罷り出で候を、ことごとく斬り捨て、 波多野波多野秀治 兄弟 3人の者、調略を以て召し捕る。
6月 4日、安土城へ進上。すなわち、慈恩寺町末に、3人の者、磔に懸けさせられ、さすが思い切り侯て、前後神妙の由に侯。
6月13日、丹後の 松田摂津守、隼:巣子 2つ進上。
6月18日、 中将信忠卿織田信忠 、安土 御見舞として御成り。
6月20日、伊丹表に在陣の衆: 瀧川滝川一益蜂屋蜂屋頼隆武藤武藤舜秀惟住丹羽長秀福富福富秀勝 、この 5人衆へ、鷂 3聯・小男鷹 2、青山與三 御使として、かたじけなく拝受 申され侯なり。
6月22日、 羽柴筑前羽柴秀吉 与力に仰せ付けられ侯: 竹中半兵衛竹中重治 、播州 御陣にて病死侯。その名代として、御馬廻に侯へつる舎弟: 竹中久作 ( 竹中重隆 ) 竹中重隆 、播州へ遣わされ侯。
6月24日、先年、 惟住五郎左衛門丹羽長秀 拝領の「周光茶碗」 → #9-01
召し上げられ、その御代りと御諚侯て「鉋切り」の御腰物
(*1)
下さる。作:長光。一段の出来物、系図、これある刀なり。
7月 3日、 武藤宗右衛門武藤舜秀 、伊丹御陣にて病死なり。
7月 6日, 7日 両日、安土御山にて御相撲これあり。
7月16日、 家康徳川家康 公より、 坂井左衛門尉酒井忠次 御使として御馬、これ進めらる。
奥平九八郎・ 坂井左衛門尉酒井忠次 両人も、御馬 進上なり。
7月19日、 中将信忠卿織田信忠 へ仰せ出だされ、岐阜にて、 津田與八・玄以・赤座七郎右衛門赤座永兼 両 3人として、井戸才介 御生害。
子細は、妻子をも安土へ越し侯はで、所々の他家をかずえ歩き、普段、安土にはこれなき無奉公者にて侯。その上、先年、謀書いたし、深尾和泉 を支え申し侯。重畳曲事ども相積り、御成敗侯ひしなり。

*1 参考
:「鉋切長光(かんなぎりながみつ)」  徳川ミュージアム

12-06:
赤井悪右衛門 退参の事
7月19日、 惟任日向守明智光秀 、丹後へ出征のところに、宇津
(京都府京都市)
構え 開け退き侯を、人数を付け、追討ちに数多討ち捕り、頸を安土へ進上。それより鬼ヶ城
(京都府福知山市)
へ相働き、近辺 放火侯て、鬼ヶ城へ付城の要害を構え、 惟任明智光秀 人数入れ置く。
8月 9日、 赤井悪右衛門 立て籠り侯、黒井
(兵庫県丹波市)
へ取り懸け、押し詰め侯ところに、人数を出だし侯。すなわち、どっと付け入るに、外郭まで込み入り、随分の者 10余人討ち取るところ、種々降参侯て退出。
惟任明智光秀 、右の趣、一々注進申し上げられ、
「 長々、丹波に在国侯て粉骨の、度々の高名・名誉も比類無し 」の旨、かたじけなくも御感状 下しなされ、都鄙の面目、これに過ぐべからず。
7月18日、出羽 大宝寺より、駿馬を揃え 御馬 5つ、ならびに御鷹11聯、この内、白の御鷹 1足これあるを進上。
7月25日、奥州の 遠野孫次郎 と申す人、白の御鷹、進上。御鷹居:石田主計、北国辺舟路にて、はるばるの風波を凌ぎ罷り上り進献。誠に、雪白 容儀勝れて見事なる御鷹。見物の貴賎、耳目を驚かし、御秘蔵 斜ならず。
また、出羽の千福と申すところの 前田薩摩、これも御鷹 居させ、罷り上り、御礼申し上げ、進上。
7月26日、石田主計・前田薩摩、両人召し寄せられ、 堀久太郎堀秀政 所にて御振舞仰せ付けられ侯。相伴は津軽の 南部宮内少輔南部政直 なり。御天主 見物仕り侯て、
「 かように御結構のためし、古今伝 承り及ばず。生前の思い出、かたじけなき 」の由、侯へき。
遠野孫次郎 方へ、まず、当座の御音信として、
 一 御服拾(如何にも御結構 御紋織付。色は 10色なり。御裏衣、これまた 10色なり)。   一 白熊 2付。  一 虎革 2枚、以上 3種。
 一 御服 5つ、ならびに黄金、路銭として使いの 石田主計 に下され、かたじけなく拝領なり。
 一 御服 5つ、黄金相添え、前田薩摩守 へ下され、かたじけなき仕合せにて、罷り下り侯へき。
8月 2日、以前、法花宗と法文仕り侯、貞安長老へ、
 一 銀子 50枚、貞安 へ下さる。   一 銀子 30枚、浄厳院長老へ。   一 銀子 10枚、日野 秀長老へ。   一 銀子 10枚、関東の 霊誉長老 へ。この如く送り遣わし、かたじけなき次第なり。
8月 6日、江州 国中 相撲取り 召し寄せられ、安土御山にて相撲取らせ御覧侯ところ、甲賀の 伴正林伴正林 と申す者、年齢18,9に侯か、能き相撲 7番打ち仕り侯。次日、また、御相撲あり、この時も取り優り、すなわち御扶持人に召し出ださる。
鉄砲屋與四郎、折節、御折檻にて籠へ入れ置かる。かの與四郎 私宅・資財・雑具共に、御知行 100石・熨斗付けの太刀・脇差大小 2つ・御小袖・御馬皆具、共に拝領。名誉の次第なり。
8月 9日、 柴田修理亮柴田勝家 、賀州へ相働き、阿多賀・本折・小松町
(石川県小松市)
口まで焼き払い、その上、苅田に申し付け、帰陣の由なり。
8月20日、仰せ出だされ、 中将信忠織田信忠 、摂州表 御出馬。その日、柏原
(滋賀県米原市)
御泊。
次日、安土 御出。22日、 堀久太郎堀秀政 相添えられ、古屋野
(兵庫県伊丹市)
に至りて御在陣。

12-07:
荒木 伊丹城・妻子捨て忍び出づるの事
9月 2日の夜、 荒木摂津守荒木村重 、5,6人召し列れ 伊丹を忍び出で、尼崎へ移り侯。
9月 4日、 羽柴筑前守秀吉羽柴秀吉 、播州より安土へ罷り越さる。「 備前の 宇喜田宇喜多直家 御赦免の筋目申し合せ侯間、御朱印なされ侯の様に 」と言上のところに、
「 御諚をも伺い申されず、示し合わすの段、曲事!」の旨、仰せ出だされ、すなわち、播州へ追い返され侯なり。
9月10日、播州の御敵:五着・曾根・衣笠の士卒、一手になり、敵城:三木
(兵庫県三木市)
の城へ兵粮入るべき行てに侯。然らば、三木に立て籠もる人数、この競いに罷り出で、
谷ノ大膳 陣所へ攻め懸かり、既に 谷ノ大膳 を討ち果し侯。
羽柴筑前守羽柴秀吉 、見合せ 斬りかかり一戦に及び、相戦い、討ち捕る人数の事:別所甚大夫・別所三大夫・別所左近尉・三枝小太郎・三枝道右・三枝與平次・砥堀孫大夫。この他、芸州・紀伊州の侍、名字は知らず、数十人討ち取り、大利を得られ侯へ訖んぬ。
9月11日、信長公 御上洛。陸を勢田を通り御出京。
逢坂にて、【 播州 三木表 合戦侯て、数多討ち死申す仕合せ 】注進侯。先度、安土より 筑前羽柴秀吉 追い返させられ侯に付いて、無念に存知、その故を以て合戦を励み、勝利を得る事に侯、
「 いよいよ、三木、一着の間は、詰め侯て、虎口の番等以下、由断なく申し付くべき事、肝要 」の旨、かたじけなくも御書きなされ侯ヘき。
今度、相州、 氏政 ( 北条氏政 )北条氏政 の舎弟: 大石源蔵氏直 ( 北条氏照 )北条氏照 、御鷹 3足、京都まで上せ進上。
9月12日、 岐阜中将信忠織田信忠 、伊丹表の御人数 半分召し列れられ、尼崎へ御働きなされ、七松
(兵庫県尼崎市)
という所に、近々と御砦 2ヶ所仰せ付けられ、 塩河伯耆塩河長満高山右近高山右近 、一与に定番として置かる。 中川瀬兵衛中川清秀福富平左衛門福富秀勝山岡対馬山岡景佐 、一組に仰せ付けられ、古屋野
(兵庫県伊丹市)
へ御人数うち帰さる。

12-08:
常見検校の事
9月14日、京都にて座頭衆の中に申し事あり。
子細は、摂州 兵庫に 常見
[つねみ]
と申し侯て、分限の者あり。かの者申す様には、人ごとに失墜いたし侯ては、必ず無力仕り侯。一期、楽々と、身を楽しむべき様を案じ出だし、かの 常見、眼は能く侯へども、千貫出し検校に罷り成り、都に在京すべき旨、存知、その段、検校衆へ申し理り、千貫積ませ「常見検校」と号し、座頭衆の官配を取り、年来、都に楽々とこれあるところに、
小座頭ども申す様には、「分限の者、かくのごとく検校になり侯はば、法度ばかりにて、今までも長久に相続き侯に、金銀の賄に耽り、猥り子細、勿躰なし。その上、秤を重く仕り侯て金を取り侯段、迷惑」の由、今度、信長公へ訴訟申し上ぐるところ、聞こし召し分けられ、
「 検校どもの条々、曲事 」の旨、仰せ出だされ、御成敗なさるべきのところ、種々 御詫言申し、黄金 200枚進上いたし、御赦免侯。

12-09:
宇治橋 取り懸けの事
「 すなわち、この代物を以て、宇治川平等院の前に橋を懸け申すべき 」の旨、
宮内卿法印松井友閑 ・山口甚介 両人に仰せ付けられ、
「 末代のために侯間、丈夫に懸け置くべき 」の旨、御諚侯 詑んぬ。
以前、浄土宗と法花、宗論仕り侯、その時の御礼として、京の法花坊主より、黄金 200枚進上侯。
「 これを召し置かれ候、御心もいかがわしき 」の由侯て、伊丹表・天王寺、播州 三木方々 御砦に在番候て粉骨の方々へ、5枚、10枚、20枚、30枚ずつ下され侯なり。
9月16日、 瀧川左近滝川一益惟住五郎左衛門丹羽長秀 両人に御馬下され、かたじけなき次第なり。
青地與右衛門青地與右衛門 御使にて侯なり。

12-10:
北畠中将殿 御折檻状の事
9月17日、 北畠中将信雄織田信雄 、伊賀国へ御人数 差し越され、御成敗のところに、一戦に及び、 柘植三郎左衛門 討ち死侯なり。
9月18日、二条 御新造にて、摂家・清花、 細川右京大夫細川昭元 殿、御鞠遊ばされ侯。信長公は御見物なり。
9月21日、信長公、京都より摂州 伊丹表に至りて御馬を出だされ、その日、山崎 御泊。
22,23 両日雨降り、御滞留。
ここにて 北畠中将信雄卿織田信雄 へ仰せ出ださるる趣、上方へ御出陣無く私の御働き、然るべからざるの旨、御内書なさる。
その御文言
今度、伊賀・堺、落ち度取り侯旨、誠に天道も恐ろしく、日月未だ地に墜ちず。
その子細は、上方へ出勢侯へば、その国の武士、あるいは民百姓 難儀侯条、所詮、国の内にて申し事候へば、他国の陣 相遁るるにより、この儀、もっともと同心せしめ、ありありしく言えば、若気ゆえ実と思い、かくのごとく侯や。
さてさて、無念至極に侯。この地へ出勢は、第一、天下のため、父への奉公、
兄: 城介織田信忠 大切、且つは、その方のため、かれこれ、現在未来の働きたるべし。
あまつさえ、三郎左衛門 をはじめ討ち死の儀、言語道断、曲事の次第に侯。実にその覚悟においては、親子の旧離許容すべからず侯。
なお、その者、申すべく侯なり。
 9月22日                 信長
北畠中将織田信雄 殿
9月24日、山崎より古池田
(大阪府池田市)
に至りて、御陣移さる。
9月27日、伊丹四方 御砦 御見舞。古屋野
(兵庫県伊丹市)
にて、 瀧川左近滝川一益 所に暫く御逗留。それより、塚口、 惟住五郎左衛門丹羽長秀 所 御成り。御休息なされ、晩に及び、池田へ御帰り。
次日 9月28日、御帰洛。その日、初めて茨木へ御立ち寄り。

12-11:
人売りの事
さるほどに、下京 場々町 門役 仕り侯者の女房、あまた女をかどわかし、和泉の堺にて、日頃 売り申し侯。今度聞き付け、 村井春長軒村井貞勝 召し捕り糺明侯へば、
「女の身として、今まで 80人ほど売りたる」由、申し侯。すなわち成敗なり。
9月29日、賀州の一揆、大坂へ通路の者、 正親町中納言 殿、搦め捕り 進上なさる。御祝着 斜ならず。すなわち、誅させられ、

12-12:
謀書の事
10月朔日、山崎の町人、先年、 惟任日向守明智光秀村井春長軒村井貞勝 前にて一果て侯、公事を謀書いたし直奏仕り侯。
村井村井貞勝 に御尋ねのところに、右の果口、言上侯。
「 曲事!」の旨、御諚侯て、御成敗侯なり。

12-13:
伊丹城 謀叛の事
10月 8日 戌刻(20:00)、二条を御立ちなされ、夜もすがら御下り、
次の朝、9日の日の出に、安土 御帰城。
10月15日、 瀧川左近滝川一益 調略を以て、 佐治新介 使いを仕り、 中西新八郎中西新八郎 を引き付け、
中西中西新八郎 、才覚を以て、足軽大将の 星野星野左衛門山脇山脇勘左衛門隠岐隠岐土佐守宮脇宮脇又兵衛 謀叛いたし、
上﨟塚へ 瀧川滝川一益 人数引き入れ、余多斬り捨て候。取る物も取り敢えず、上を下へとなって城中へ逃げ入り、親子兄弟を討たせ、泣き悲しむばかりなり。
町をば居取りにいたし、城と町との間に侍町あり。これをば火を懸け裸城になされたり。岸の砦、 渡辺勘大夫渡辺勘大夫 立て籠り、同者紛れに、多田
(兵庫県川西市)
の館まで罷り退き侯を、
「 かねて申し上ぐる儀もこれ無く、曲事!」の旨、御諚にて、生害させられ、
また、鵯塚に 野村丹後野村丹後 大将として、雑賀の者 相加え かかわり候、ことごとく討ち死にて、 丹後野村丹後 、御詫言申し侯ところ、
なかなか御許容無く、生害侯て、頸を安土へ進上侯。
荒木妹: 丹後野村丹後 後家、城中にてこの由承り、「 憂さも辛さも身一人 」と泣き悲しみ、生きて甲斐無き身ながらも、この上、また如何なる憂目をか見んずらんと、あさましく思い歎く有様、目も当てられず、哀れなり。
諸手四方より近々と押し詰め、城楼かねほりを入れ攻められ、
「 命 御助けなされ侯へ!」と御侘び申し侯へども、御許容これ無し。
10月24日、 惟任日向守明智光秀 、丹後・丹波 両国一篇に申し付け、安土へ参り御礼。その時、志々良 100端 進上侯ヘき。

12-14:
氏政 甲州表へ働きの事
10月25日、【 相模国 北条氏政北条氏政 、御味方の色を立てられ、6万ばかりにて打ち立ち、甲斐国へ差し向い、黄瀬川を隔て、三島
(静岡県三島市)
氏政北条氏政 居陣 】の由、注進なり。
武田四郎武田勝頼 も甲州の人数打ち出だし、冨士の根方・三枚橋
(静岡県沼津市)
に足懸り こしらえ対陣なり。 家康徳川家康 公も相州へ御手合せとして、駿州へ相働き、所々に煙 揚げらる。
10月29日、越中の 神保越中守神保長住 、黒葦毛御馬 進上。
10月晦日、備前 宇喜多和泉宇喜多直家 、御赦免に付きて、名代として 宇喜多與太郎、摂州 古屋野
(兵庫県伊丹市)
まで罷り上り、 中将信忠卿織田信忠 へ御礼。 羽柴筑前守秀吉羽柴秀吉 御取次なり。
11月 3日、信長公、御上洛。その日、瀬田橋 御茶屋に御泊。御番衆・御祗候の御衆へ、「白の御鷹」見せさせられ、次日、御出京。二条 御新造の御普請 造り畢り仕るに付きて、禁裏様へ御進上なさるる趣、
11月 5日、御奏聞のところ、すなわち、御博士に御日取り仰せ付けられ、吉日に付きて、
11月22日、新御所へ 親王誠仁親王 様 行啓なさるべきに相定め、その御用意 侯なり。
11月 6日、「白の御鷹」居えさせられ、北野裏の辺、鶉鷹つかわされ、
11月 8日、東山より一条寺まで「白の御鷹」つかわされ、初めて御取飼い。
9日, 10日 両日、一乗寺・修覚寺山 御鷹野なり。上京裁売の町人、一献進上仕り侯ところ、一々御詞を加えられ、かたじけなき次第なり。
11月16日、亥剋(22:00)、二条 御新造より妙覚寺へ、信長 御座を移させられ、

12-15:
伊丹の城にこれある年寄ども、妻子兄弟 置き捨て退出の事
11月19日、 荒木久左衛門 ( 池田知正 ) 池田知正 、その他、歴々の者ども、妻子 人質として伊丹に残し置き、尼崎へ罷り越し、 荒木荒木村重 に意見申し、尼崎・花熊
(兵庫県神戸市)
進上仕り、その上、各々の妻子 助け申すべきの御請け申し究め、いずれも尼崎へ越し申すなり。
この時、 久左衛門池田知正 、一首、
いくたひも 毛利を頼みに ありをかや  けふ思ひたつ あまのはころも
と、詠み置き侯。
織田七兵衛信澄織田信澄 、伊丹城中 御警固として、御人数入れ置かれ、櫓櫓に御番仰せ付けられ侯。いよいよ、女ども詰め籠みの仕立てにて、互いに目と目を見合せ、あまりの物憂さに、 たし ( 荒木たし )荒木たし 、歌詠みて、 荒木荒木村重 方へ遣わし侯。
霜かれに 残りて我は 八重むくら  なにはのうらの そこのみくつに
荒木荒木村重 返歌、
思きや あまのかけ橋 ふみならし  なにはの花も 夢ならんとは
あここ 方より、 たし荒木たし 方への歌、
ふたり行 なにかくるしき のりの道  風はふくとも ねさへたへすは
お千代、 荒木荒木村重 方への歌、
此ほとの 思ひし花は ちり行て  形見になるそ 君か面かけ
荒木荒木村重 返歌、
百年に 思ひし事は 夢なれや  また後の代の 又後の世は
かくのごとく詠み交わし侯ひしなり。

12-16:
親王様 二条御新造へ行啓の事
天正 7年 己卯 11月22日 親王誠仁親王 様、二条 新御所へ御移徙
[わたまし]
のため、行啓の御時取、卯刻(6:00) と侯ひつる。辰刻(8:00) に至りてなり。一条より室町通り、
次第:御先へ 近衛近衛前久 殿 御参なり。次、近衛大納言 殿・関白 殿・五摂家・一條左府 殿・二条右府 殿・鷹司少将 殿、御輿にて御参り。御輿添えには侍衆歴々とあり。介添えの衆・中間以下、御輿の後に打ちこみに参るなり。
大藤左衛門尉・大藤備前守・御奉行衆:林越前守・小河亀千代丸、触口・折烏帽子・素襖・袴・返し股立ちを取る。
御物、5尺四方ほどあり。皆、朱の御唐櫃、上下 台に乗るなり。雑色、折烏帽子・素襖・袴・返し股立ちを取る。引き敷き、思い思いに付くる金手棒にて、あるいは刀物を持ち、あるいは腰高なる者を下知して通るなり。
御琴、錦の袋に入る ( 天王寺楽人持ち、手かさ折り布き、直垂を着、一人 )。
御唐笠、白御笠袋に入る ( 持ち手仕丁、立鳥帽子、白張なり )。
1番: 御板輿、五の宮様着、若御局様 御合輿なり
2番: 中山の上﨟、勧修寺上﨟
3番: 大御乳人
4番: 御屋々
5番: 中将 殿
6番: 五の宮様 御乳人
以上、御輿 6丁なり。仕丁十徳を着、御脇輿侍衆、左右にこれあり。御伴の御女房衆 60人、衣かずきにて、皮蹈皮に、うらなしを履かせられ、誠に光り耀き、衣香薫じ、結構、申すばかり無し。ならびに、下部衆、上さしの袋など持ちたるもあり。
当庄方・御公家 御供衆: 飛鳥井大納言飛鳥井雅教 殿・庭田大納言 殿・柳原大納言 殿・四辻大納言 殿・甘露寺大納言 殿・持明院中納言 殿・高倉藤中納言 殿・山科中納言 殿・庭田源中納言 殿・勧修寺中納言 殿・正親町中納言 殿・中山中納言 殿・中院中紳言 殿・烏丸弁 殿・ 日野中納言日野輝資 殿・水無瀬治部卿 殿・広橋頭弁 殿・吉田右衛門督 殿・竹内左兵衛督 殿・坊城式部少輔 殿・水無瀬中将 殿・高倉右衛門佐 殿・葉室蔵人弁 殿・萬里小路蔵人右少弁 殿・四辻少将 殿・四条少将 殿・中山少将 殿・六條少将 殿・飛鳥井少将 殿・水無瀬侍従 殿・五条大内記 殿・中御門権右少弁 殿・富小路新蔵人 殿・唐橋 殿、 以上。
各々、かちだちにて御供なり。立烏帽子・絹直垂・御紋、色々。素足に大ふと履かせられ、風折のかけ緒、紫色の平打なり。飛鳥井中納言 殿、紫の四打のかけ緒なり。吉田神主、堂上方に召し加えられ候。これは、白八打のかけ緒なり。
御輿添え、御方 御所様 御輿、御輿舁、立烏帽子に白張を着。北面の御侍衆 11、折烏帽子・素襖・袴、足半なり。御輿の少し御後に牛飼も参るなり。
清花御衆:徳大寺大納言 殿・西園寺大納言 殿・三條中納言 殿・大炊御門中納言 殿・久我中納言 殿・転法輪三條中納言 殿・花山院宰相中将 殿、以上。 立鳥帽子、絹直垂、色々。素足に大ふと、少し引き退けて参らるるなり。御公家衆の召し具さるる侍・中間、打ちこみに御次に参り候。300人ばかりもこれあるか。
折節、御簾へ朝日 差し入り侯て、御物見の所より、確かに拝まれさせ給わり侯。御眉召され、御立鳥帽子、御練貫、かうの御そばつき、衣の白き御袴なり。昔も後代にも、かくの如く間近く拝み奉る事、あるまじき試しなり。御儀式 御結構、なかなか申すばかり無し。
伯中将 殿・冷泉中将 殿、この両人は御輿に付き申さるるなり。菊庭内府 殿、御簾を上げ申さるる御役なり。御剣、中院中納言 殿 持たるるなり。御礼御申次は、勧修寺中納言 殿の由なり。以上。
11月27日、北野参り、御鷹つかわされ、御秘蔵の鷂 失い申し侯。方々、御尋ねなされ侯ところ、12月朔日、丹波より居え上せ、進上。
さるほどに、伊丹の城に女どもの警固として、吹田・泊々部・ 池田和泉池田和泉 、両 3人残し置き侯ところに、城中の様体、何と見極め申し侯やらん、 池田和泉池田和泉 、一首をつらね、
露の身の 消ても心 残り行  なにとかならん みとり子の末
と、詠み置き、その後、鉄砲に薬を込み、己と頭を撃ち砕き自害仕り侯。いよいよ、女房ども、心も心ならず、尼崎よりの迎えを遅し早しと相待ち、哀れなる有様、なかなか申すばかりもこれ無し。
12月 3日、御家人の上下、ことごとく妙覚寺へ召し寄せられ、縮羅・巻物・板物、千反に余り積み置かれ、御馬廻・諸奉公人に下さる。かたじけなく頂戴侯なり。
12月 5日、 高山飛彈守 、去る年、伊丹へ走り入り、不忠者たるにより、青木鶴 御使にて、北国へ遣わされ、 柴田柴田勝家 に御預けなされ侯なり。

高山飛彈守:髙山右近の父。ルイス・フロイス「日本史」では重要な信者として登場。

12-17:
やはた八幡空 造営の事
12月10日、山崎に至りて御座移さる。11,12両日、雨降り、宝寺に御逗留。
八幡社頭、内陳・下陳の間に、昔より木戸井を懸け置き侯。既に朽ち腐り、雨漏り、廃壊 正体無し。この旨、信長公 聞こし召し及ばれ、御造営なさるべきの趣、上意にて、すなわち、山城の御代官:武田佐吉・林高兵衛・長坂助一 召し寄せられ、末代のために侯の間、6間(11m) の樋を、から金にて 5つに鋳物に仰せ付けらる。
昔は、大工の棟梁・諸職人 頭々、過分に作料を引き取り、邪なる費えばかりを仕り侯間、更に然々と はかゆかず。
「 今度は作料あるべきの他には、少しも費えなき様に、それぞれに奉行を申し付け、片時も急ぎ出来侯様に、念を入れ申し付くべき 」の旨、堅く仰せ出ださる。
鍛冶・番匠・大鋸引・葺師・鋳物師・瓦焼 等、召し寄せ、和州 三輪山
(奈良県桜井市)
より材木を取り、社僧へ釿初めの吉日、相尋ねらるるのところ、恒例として、禁中より御日取り出ださるるの由候間、相待たるるのところ、
吉日良辰、天正 7年 己卯 12月16日 卯剋(6:00) と勅諚なり。
さるほどに、八幡の 片岡鵜右衛門 と申す者、「周光香炉」所持侯を召し上げられ、銀子 150枚下され候なり。

12-18:
伊丹城 相果たし、御成敗の事
今度、尼崎・花熊 渡し進上申さず、歴々の者どもの妻子兄弟を捨て、我が身一人宛助かるの由、前代未聞の仕立なり。
余多の妻子ども、この趣承り、これは夢かや現かや、恩愛の別れの悲しさ、今更、喩ん方も無し。さて、如何と歎き、あるいは幼あい子を抱き、あるいは懐妊したる人もあり。悶えこがれ、声も惜まず泣き悲しむ有様は、目も当てられぬ次第なり。猛き武士も、さすが岩木ならねば、皆、涙を流さぬ者は無し。
この由、聞こし召し及ばれ、不便におぼし召され侯といえども、佞人懲らしめのため、人質 御成敗の様子、山崎にて条々仰せ出ださる。
荒木荒木村重 一類の者どもをば、都にて仰せ付けらるべき 」の由侯て、12月12日、晩景より、夜もすがら、京へ召し上せられ、妙顕寺に、ひろ籠を構え、30余人の女ども とり籠め置かれ、泊々都・吹田・ 久左衛門池田知正 息子:自念、この 3人は、 村井春長軒村井貞勝 所にて、籠へ入れさせられ、この他、
「 摂津国にて首に置くるほどの者の妻子より出だし、 瀧川左近滝川一益蜂屋兵庫頭蜂屋頼隆
惟住五郎左衛門丹羽長秀 、3人として請け取り、磔に懸け侯へ 」と、仰せ付けられ候。
しかるところに、 荒木五郎右衛門 と申す者、日来は、女房の間、さのみ親しくは候はねども、
「 今度、妻女を捨て置き候わん事、本儀ならざる 」由、申し侯て、 惟任日向明智光秀 を頼み走り入り、「 女房の命に代り候はん 」と、色々懇望の歎きを申し侯へども、なかなか許容なく、結句、両人共以て成敗。哀れなる仕立て、是非なき次第なり。
皆、親子兄弟の方へ、思い思いに、最後の送り文、涙と共に書き置くなり。
12月13日 辰刻(8:00) に、122人、尼崎近き 七松という所にて磔に懸けらるべきに相定め、各々引き出だし侯。さすが歴々の上﨟たち、衣装美々しき出立ち、叶わぬ道を悟り、美しき女房達、並び居たるを、さも荒けなき武士どもが請け取り、その母親に抱かせて引き上げ引き上げ、磔に懸け、鉄砲を以て、ひしひしと撃ち殺し、鎗・長刀を以て刺し殺し害せられ、122人の女房、一度に悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかりにて、見る人、目もくれ、心も消えて、感涙押さえ難し。これを見る人は、20日 30日の間は、その面影身に添いて忘れやらざる由にて侯なり。
この他、女の分 388人:かせ侍の妻子付々の者どもなり。男の分 124人:これは歴々の女房衆へ付け置き侯 若党以下なり。合せて 510余人。
矢部善七郎矢部家定 御検使にて、家 4つに取り籠み、草を積ませられ、焼き殺され侯。風の回るに随いて、魚のこぞる様に上を下へと なみ寄り、焦熱・大焦熱の炎にむせび、躍り上り飛び上り、悲しみの声、煙につれて空に響き、獄卒の呵責の攻めも、是なるべし。肝魂を失い、ふた目とも更に見る人無し。哀れなる次第、なかなか申すに足らず。
伊丹の城、御小姓衆として、20日番に仰せ付けらる。
12月14日、山崎より京都 妙覚寺に至りて御帰洛。
12月16日、 「 荒木荒木村重 一類の者、都にて御成敗なさるべき 」の旨、仰せ出ださる。
さるほどに、越し方行く末の物語 承り、哀れなる次第 申すばかり無し。
去る年 10月下旬に、 荒木荒木村重 、天罰を蒙り、御敵仕り侯。
ほどなく、霜月(11月) 3日に御上洛。同 9日に御馬を天神馬場に出だされ、御砦 仰せ付けられ侯。然れども、高槻・茨木、能き構えにて侯間、一旦には御存分に敵い難しと、 荒木荒木村重 も、その他、下々も存知侯ところ、
思いの外、杖にも柱にもと存知侯: 中川瀬兵衛中川清秀高山右近高山右近 、御味方に参り侯。
この時も『 かほどに御座候はん 』とは存ぜず侯ところ、軽々と古屋野
(兵庫県伊丹市)
へ御陣を寄せられ、隙間をあらせず、伊丹を取り巻き、御陣取り 仰せ付けらる。
12月朔日の夜、 安部二右衛門安部二右衛門 、これも心を変え、大坂・尼崎より伊丹への通路 止め申し侯。ここにて、上下難儀いたし侯。
されども、安芸の 毛利毛利輝元 、正月15日過ぎ候はば、必ず馬を出だし、西宮か越水辺に、大将陣を居え、 吉川吉川元春小早川小早川隆景宇喜多宇喜多直家 を尼崎へ移し、雑賀・大坂の者どもに先手を申し付け、両手より斬りかかり、御陣取り追い払い、 荒木荒木村重 存分に申し付くべき事、案の内と、誠に、げにげにしく誓紙を仕り侯て、越し申され侯の間、我人神仏へも祈りを懸け、これを頼みにいたし侯ところ、
また、2月18日、御上洛なされ、3月 5日、御馬を寄せられ、信長、池田に御陣を居えさせられ、 中将信忠織田信忠 、賀茂岸 近々と御砦 寄せさせられ、伊丹四方に堀を掘らせ、塀柵を 2重 3重、丈夫に仰せ付けらる。誠に、籠の内の鳥に異ならず。
『 行末如何に成り果て候はん 』と物思いにて侯へども、『 春夏の内に 毛利毛利輝元 出でられ侯はば、定めて一途に候はん 』と、待ち暮らし、『 如何なる森林も、春は花も咲き出で侯まま、百花開け、国も広く成り候はん 』と明け暮れ待ち申し侯ところ、ほどなく春も暮れ、既に、楊梅・桃李の花咲き散りて、梢茂みの更衣・卯花・郭公・5月の雨の数々物思い、かように月日の過ぎ行く間に、切々の懸け合いに、親を討たせ、子に後れ、我も人も一方ならぬ歎き、喩えん方も無かりけり。
『 さてまた、如何にあるべき?』とて、中国へ数の使い 遣わし侯へば、「 人馬のはみ物、しゅったい侯て、7月中に罷り立ち候はん 」と申し延べ侯。また、「 8月には、国に物言い出来たる 」由、申し越し侯。
今は早や、木々も落葉し、森も次第に枯木になり、頼み少なくなり果て、力を失い詮方なし。然れども、 荒木荒木村重 申す様には 「 波多野波多野秀治 兄弟 磔にかかり侯如く、やみやみとはあるまじく侯。兵粮、漸く尽き侯はば、前かどに諸手の人数引き出だし、古屋野
(兵庫県伊丹市)
・塚ロヘ差し向け、戦をさせ、その間に 伊丹に 3千これある人数、3段に備え、足弱を囲わせ退き候はんに、何の子細あるまじく侯。もしまた、この調え成り侯はずば、尼崎・花熊 進上申し、命助かり申すべく侯 」とて、皆々に、 荒木荒木村重 力を付け、9月 2日夜に入り、 荒木摂津守荒木村重 、5,6人召し列れ忍び出で、尼崎へ移り侯。
城中 いよいよ 力無く、『 我人、行く末 如何如何?』と案じ暮し侯ところ、10月15日、 星野星野左衛門山脇山脇勘左衛門隠岐隠岐土佐守 、この足軽大将 3人謀叛いたし、日来は伊丹てに首をするほどの者の妻子人質として、夜々は城中へ取り入り侯。運の尽きたる験にや、不暁に人質帰し侯。すなわち、上﨟塚へ御敵引き入れ、数多斬り拾て、町を居取にいたし、城と町の間に侍町あり - これは火を懸け 裸城になされ、 渡辺勘大夫渡辺勘大夫 、岸の砦より多田の館まで罷り退き侯を、生害させられ、また、鵯塚に 野村丹後野村丹後 、大将として立て籠り侯。これも降参申し侯へども、御赦免なく、腹を切らせられ、
然らば、 惟任日向明智光秀
「 尼崎・花熊を進上侯て、命助かり、もっとも 」の由侯。かたじけなく存知、
荒木荒木村重 方へ申し送り侯へども、一途もなく侯間、妻子人質として残し置き、その断、
荒木荒木村重 に申し聞かせ、両城進上申すべく侯。若し、同心これなく侯はば、御人数申し請け、先を仕り、即時に申し付くべし 」と御請けを申し極め、
伯々部・吹田・ 池田和泉池田和泉 、女どもの警固に置き、霜月(11月)19日、尼崎へ各々年寄ども罷り越し侯。
かくの如くなり果て候はん事を見及び、 池田和泉池田和泉 は、鉄炮に薬を込み、己と頭を撃ち砕き果てられ候。世の中に命ほど つれ無きもの無し。
昨日までは口言を言われし歴々の侍、その妻子兄弟 捨て置き、我が身一人ずつ助かるの由、申し越し、
「 この上は、とても遁れぬ道なれば、導師を頼み申さん 」とて、思い思いに寺々の僧を供養し、珠数・経帷申し請け、戒をたもち、御布施には金銀を参らせられ候人もあり。着たる衣装を参らせずる者もあり。いにしえの綾羅錦繍よりも、今の経帷ありがたし。世にありし時は、聞くも忌々しき経帷に、戒名授かり、頼もしく思われ候。
千年万年と契りし婦妻・親子・兄弟の間の仲をも去り離れ、思わずも都にて諸人に恥をさらす事、この上は、更に 荒木荒木村重 をも恨みず、先世の因果、浅ましきとばかりにて、 たし荒木たし 、歌あまた詠み置き侯。
きゆる身は おしむべきにも 無物を  母のおもひそ さはりとはなく
たし荒木たし
残しをく そのみとり子の 心こそ  おもひやられて かなしかりけり
たし荒木たし
木末より あたにちりにし 桜花  さかりもなくて あらしこそふけ
たし荒木たし
みかくべき 心の月の くもらねは  ひかりとともに にしへこそ行
おちい: たし荒木たし 局 京殿
世中の うきまよひをは かき拾て  弥陀のちかひに あふそうれしき
隼人 の女房: 荒木荒木村重 娘 の歌
露の身の 消残りても 何かせん  南無あみた仏に たすかりそする
おほて: 荒木荒木村重
もえ出る 花は二たび  さかめやと  たのみをかけて あり明の月
同主
歎くへき 弥陀のおしへの ちかひこそ  ひかりとともに にしへとそ行
荒木與兵衛 女房:村田因幡が娘
頼めたた 弥陀のおしへの くもらねは  こころのうちは あり明の月
さい
先たちし このみか露も おしからし  母のおもひそ さはりとはなる
いずれも、思い思いに文どもに書き置かれ侯。
さて、12月16日 辰刻(8:00)、車 1両に 2人ずつ乗りて、洛中を引かせられ侯次第:
1番 (20ばかり)吹田: 荒木荒木村重 弟  (17) 丹後野村丹後 後家: 荒木荒木村重
2番 (15) 荒木荒木村重 娘:隼人女房、懐妊なり  (21) たし荒木たし
3番 (13) 荒木荒木村重 娘:だご、隼人女房妹  (16)吹田女房:吹田因幡娘
4番 (21)渡辺四郎: 荒木志摩守荒木元清 の兄息子なり。 渡辺勘大夫渡辺勘大夫 娘に仕合、すなわち養子とするなり  (19)荒木新丞:同じく弟
5番 (35)宗祭娘(伊丹源内ことをいうなり):伊丹安大夫 女房、この子 8歳
   (17)瓦林越後 娘:北河原與作 女房
6番 (18)荒木與兵衛 女房:村田因幡娘なり  (28) 池田和泉池田和泉 女房
7番 (13)荒木越中 女房: たし荒木たし 妹  (15)牧左衛門 女房: たし荒木たし
8番 (50ばかり)泊々部  (14) 荒木久左衛門池田知正 息子:自念
この他、車 3両には子供御乳付々 7,8人ずつ乗せられ、上京一条辻より、室町通り洛中を引かせ、六条河原まで引き付けらる。
御奉行:越前衆: 不破不破光治前田前田利家佐々佐々成政原政茂金森金森長近 、5人。この他役人・觸口・雑色・青屋、河原の者、数百人。具足・甲を着け、太刀・長刀 抜き持ち、弓に矢を差しはけ、さも凄まじき仕立てにて、車の前後警固なり。
女房たち、いずれも膚には経帷、上には色よき小袖、美しく出で立ち、歴々の女房衆にてましませば、遁れぬ道を悟り、少しも取りまぎれず神妙なり。 たし荒木たし と申すは聞こえ有る美人なり。いにしえは、仮にも人にまみゆる事無きを、時世に随う習いとて、さもあらけなき雑色どもの手にはたり、小肘掴んで車に引き乗せらる。最後の時も、かの、 たし荒木たし と申す、車より降りざまに帯締め直し、髪 高々と結い直し、小袖の襟 押し退きて、尋常に斬られ候。
これを見るより、いずれも最後よかりけり。されども、下女半物どもは人目をも憚からず、もだえこがれ泣き悲しみ、哀なり。
久左衛門池田知正 息子 14歳:自念、 伊丹安大夫 息子 8歳の倅、2人の者おとなしく、「 最後の所は、ここか 」と申し侯て、敷皮に直り、頸抜き上げて斬らるるを、貴賎、褒めずという者無し。
栴檀
[せんだん]
は 二葉よりしてかんばしく、 荒木荒木村重 1人の仕業にて、一門親類上下の数を知らず、四鳥
[してう]
の別れ、血の涙を流す。諸人の恨み、怖ろしやと、舌を巻かぬ者も無し。
かねて頼みし寺々の御僧達、死後を取り隠し申さるる。おびただしく御成敗、上古よりの初めなり。
12月18日 夜に入り、信長公、二条 新御所へ御参内。金銀巻物等、その数を尽し叡覧に備えられ、
翌日19日 御下り、路次にて終日雨降り。安土に至りて御帰城。珍重々々。





この巻の登場人物と他巻リンク

織田信長 [45歳]

青地與右衛門 [--] あおち ようえもん

赤座永兼 [--] あかざ ながかね

明智光秀 [51] あけち みつひで

 織田の家臣。惟任日向守
 12-01: 摂津国 御陣の事
 12-05: 丹波国 波多野兄弟 張...
 12-06: 赤井悪右衛門 退参の事
 12-12: 謀書の事
 12-13: 伊丹城 謀叛の事
 12-18: 伊丹城 相果たし、御成...
 13-08: 因幡・伯耆両国に至り...
 13-11: 佐久間・林佐渡・丹羽...
 14-01: 御爆竹の事
 14-02: 御馬揃えの事
 14-07: 8月朔日 御馬揃えの事
 15-05: 木曾義政 忠節の事
 15-14: 人数備えの事
 15-25: 家康公・穴山梅雪 御上...
 15-26: 羽柴筑前守秀吉、備中...
 15-29: 明智日向 西国出陣の事
 15-31: 明智日向守 逆心の事
 15-32: 信長公 本能寺にて御腹...
 15-33: 中将信忠卿、二条にて...
 15-34: 江州安土城御留守居衆...
 2-01: 六条合戦の事
 3-04: 越前 手筒山攻め落せらる...
 3-10: 志賀御陣の事
 4-05: 叡山御退治の事
 5-01: 武者小路 御普請の事
 5-03: 奇妙様 御具足初めに 虎後...
 6-02: 公方様御謀叛 付17ヶ条
 6-03: 石山・今堅田 攻められ候...
 6-07: 公方様 真木島に至りて御...
 6-08: 真木島にて御降参 公方様...
 6-09: 大船にて高島へ御働き、木...
 6-11: 阿閉 謀叛の事
 8-03: 河内国新堀城攻め干され...
 8-06: 禁中において親王様 御鞠...
 8-07: 越前御進発、賀・越 両国...
 9-03: 原田備中、御津寺へ砦 討...
 10-01: 雑賀御陣の事
 10-03: 御名物召し置かるるの事
 10-08: 片岡の城 攻め干さる事
 10-09: 信貴城 攻め落さるるの事
 11-01: 御茶の湯の事
 11-06: 高倉山西国陣の事
 11-08: 播磨神吉城攻めの事
 11-13: 荒木摂津守 逆心を企て...
 11-15: 丹波国 波多野館取り巻...

飛鳥井雅教 [59] あすかい まさのり

安部二右衛門 [--] あべ にえもん

荒木たし [20] あらき たし

荒木村重 [44] あらき むらしげ

荒木元清 [44] あらき もときよ

安藤定治 [--] あんどう さだはる

飯尾尚清 [51] いいのお ひさきよ

池田和泉 [--] いけだ いずみ

池田恒興 [43] いけだ つねおき

池田知正 [24] いけだ ともまさ

池田元助 [20] いけだ もとすけ

生駒一吉 [--] いこま かずよし

稲葉貞通 [33] いなば さだみち

猪子高就 [33] いのこ たかなり

宇喜多直家 [50] うきた なおいえ

氏家直昌 [--] うじいえ なおまさ

大津長治 [--] おおつ ながはる

隠岐土佐守[--] おき とさ

織田信雄 [21] おだ のぶかつ

織田信包 [36] おだ のぶかね

織田信澄 [21] おだ のぶすみ

織田信孝 [21] おだ のぶたか

織田信忠 [24] おだ のぶただ

 信長の嫡男。岐阜中将
 12-01: 摂津国 御陣の事
 12-03: 二条殿・烏丸殿・菊庭...
 12-05: 丹波国 波多野兄弟 張...
 12-06: 赤井悪右衛門 退参の事
 12-07: 荒木 伊丹城・妻子捨て...
 12-14: 氏政 甲州表へ働きの事
 12-18: 伊丹城 相果たし、御成...
 13-05: 阿賀の寺内 申し付くる...
 13-08: 因幡・伯耆両国に至り...
 13-09: 大坂退散の事
 14-01: 御爆竹の事
 14-02: 御馬揃えの事
 14-06: 因幡国 鳥取城 取り詰...
 14-07: 8月朔日 御馬揃えの事
 14-11: 伊賀国へ 信長 御発向...
 15-01: 御出仕の事
 15-02: 御爆竹の事
 15-03: 伊勢大神宮 上遷宮の事
 15-05: 木曾義政 忠節の事
 15-06: 信州 高遠の城、中将信...
 15-08: 武田四郎 甲州 新府 退...
 15-09: 信長公 御乱入の事
 15-10: 武田四郎 父子 生害の事
 15-12: 武田典厩 生害、下曾禰...
 15-18: 諸勢 帰陣の事
 15-19: 御国割りの事
 15-20: 恵林寺 御成敗の事
 15-22: 信州 川中島表、森勝蔵...
 15-25: 家康公・穴山梅雪 御上...
 15-33: 中将信忠卿、二条にて...
 15-34: 江州安土城御留守居衆...
 5-03: 奇妙様 御具足初めに...
 6-11: 阿閉 謀叛の事
 7-09: 河内長島一篇に仰せ付けら...
 8-03: 河内国新堀城攻め干され...
 8-04: 三州 長篠 御合戦の事
 8-12: 菅九郎殿 岩村 御存分に仰...
 8-13: 菅九郎殿 御位の事
 9-01: 安土 御普請の事
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 10-09: 信貴城 攻め落さるるの事
 10-10: 中将信忠御位の事
 10-14: 中将信忠へ御名物11種...
 11-01: 御茶の湯の事
 11-03: 回禄せし御弓衆 御折檻...
 11-06: 高倉山西国陣の事
 11-08: 播磨神吉城攻めの事
 11-10: 小相撲の事
 11-13: 荒木摂津守 逆心を企て...
 11-15: 丹波国 波多野館取り巻...

蒲生氏郷 [23] がもう うじさと

金森長近 [55] かなもり ながちか

烏丸光康 [62] からすま みつやす

吉川元春 [49] きっかわ もとはる

九鬼喜隆 [39] くき よしたか

近衛前久 [43] このえ まえひさ

小早川隆景 [46] こばやかわ たかかげ

酒井忠次 [52] さかい ただつぐ

佐々成政 [43] さっさ なりまさ

誠仁親王 [27] さねひと しんのう

塩河長満 [41] しおかわ ながみつ

柴田勝家 [57] しばた かついえ

 織田の家臣。柴田修理亮
 12-06: 赤井悪右衛門 退参の事
 12-16: 親王様 二条御新造へ行...
 13-04: 能登・加賀両国、柴田...
 13-05: 阿賀の寺内 申し付くる...
 13-11: 佐久間・林佐渡・丹羽...
 13-12: 賀州一揆 歴々 生害の事
 14-01: 御爆竹の事
 14-02: 御馬揃えの事
 14-06: 因幡国 鳥取城 取り詰...
 15-11: 越中富山の城、神保越...
 15-12: 武田典厩 生害、下曾禰...
 0-09: 備後守 病死の事
 0-12: 深田松葉 両城 手替わりの事
 0-15: 柴田権六 中市場 合戦の事
 0-18: 勘十郎殿 林 柴田 御敵の事
 0-25: 家康公 岡崎の御城へ...
 1-04: 信長御入洛十余日の内に...
 2-06: 阿坂の城 退散の事
 3-04: 越前 手筒山攻め落せらる...
 3-06: 落窪合戦の事
 3-07: たけくらべ・かりやす砦の事
 3-10: 志賀御陣の事
 4-03: 大田口合戦の事
 4-04: 志むら攻め干さるるの事
 5-02: 交野へ 松永 砦仕り侯て 追...
 5-03: 奇妙様 御具足初めに...
 6-03: 石山・今堅田 攻められ候...
 6-05: 百済寺伽藍 御放火の事
 6-07: 公方様 真木島に至りて御...
 6-11: 阿閉 謀叛の事
 7-04: 蘭著待 切り取らるるの事
 7-09: 河内長島一篇に仰せ付けら...
 8-03: 河内国新堀城攻め干され...
 8-07: 越前御進発、賀・越 両国...
 10-06: 柴田 北国 相働くの事
 10-09: 信貴城 攻め落さるるの事

神保長住 [--] じんぼう ながずみ

菅屋長頼 [--] すがや ながより

高山右近 [26] たかやま うこん

滝川一益 [54] たきがわ かずます

武田勝頼 [33] たけだ かつより

竹中重隆 [17] たけなか しげたか

 半兵衛の弟。竹中久作
 12-05: 丹波国 波多野兄弟 張...
 15-14: 人数備えの事

竹中重治 [35] たけなか しげはる

筒井順慶 [30] つつい じゅんけい

徳川家康 [36] とくがわ いえやす

伴正林  [18] とも しょうりん

中川清秀 [37] なかがわ きよひで

永田正貞 [--] ながた まささだ

中西権兵衛 [--] なかにし ごんべえ

中西新八郎 [--] なかにし しんぱちろう

 伊丹の武将。荒木→ 織田へ
 12-13: 伊丹城 謀叛の事
 13-08: 因幡・伯耆両国に至り...

南部政直 [--] なんぶ まさなお

 津軽の武将。南部宮内少輔
 12-06: 赤井悪右衛門 退参の事
 11-10: 小相撲の事

丹羽長秀 [44] にわ ながひで

 織田の家臣。惟住五郎左衛門
 12-01: 摂津国 御陣の事
 12-03: 二条殿・烏丸殿・菊庭...
 12-05: 丹波国 波多野兄弟 張...
 12-09: 宇治橋 取り懸けの事
 12-10: 北畠中将殿 御折檻状の事
 12-18: 伊丹城 相果たし、御成...
 13-01: 播州 三木落居の事
 13-05: 阿賀の寺内 申し付くる...
 14-02: 御馬揃えの事
 14-03: 高天神 干殺し 歴々 討...
 14-04: 和泉 巻尾寺 破滅の事
 14-06: 因幡国 鳥取城 取り詰...
 14-09: 能登・越中 城々破却の事
 14-10: 伊賀国、三介殿に仰せ...
 14-11: 伊賀国へ 信長 御発向...
 15-14: 人数備えの事
 15-19: 御国割りの事
 15-23: 信長公 甲州より御帰陣...
 15-25: 家康公・穴山梅雪 御上...
 15-28: 家康公・穴山梅雪、奈...
 0-05: 景清 あざ丸刀の事
 0-40: 加治田之城 御味方に参る事
 0-41: 犬山両おとな 御忠節の事
 0-42: 濃州 伊木山へ御上りの事
 0-43: 堂洞砦 攻めらるの事
 1-04: 信長御入洛十余日の内に...
 2-05: 名物 召され置きの事
 2-06: 阿坂の城 退散の事
 3-02: 名物 召し置かるるの事
 3-04: 越前 手筒山攻め落せらる...
 3-07: たけくらべ・かりやす砦の事
 3-08: 姉川合戦の事
 3-10: 志賀御陣の事
 4-01: 佐和山城 渡し進上の事
 4-04: 志むら攻め干さるるの事
 4-06: 御修理造り畢るの事
 5-01: 武者小路 御普請の事
 5-03: 奇妙様 御具足初めに...
 6-03: 石山・今堅田 攻められ候...
 6-05: 百済寺伽藍 御放火の事
 6-07: 公方様 真木島に至りて御...
 6-11: 阿閉 謀叛の事
 7-02: 前波生害、越前一揆蜂起の事
 7-04: 蘭著待 切り取らるるの事
 7-09: 河内長島一篇に仰せ付けら...
 8-01: 御分国 道作り 仰せ付けら...
 8-02: 公家領 徳政にて仰せ付け...
 8-03: 河内国新堀城攻め干され...
 8-04: 三州 長篠 御合戦の事
 8-06: 禁中において親王様 御鞠...
 8-07: 越前御進発、賀・越 両国...
 9-01: 安土 御普請の事
 9-04: 御後巻 再三 御合戦の事
 10-01: 雑賀御陣の事
 10-03: 御名物召し置かるるの事
 10-06: 柴田 北国 相働くの事
 10-07: 松永謀叛 並びに 人質...
 10-09: 信貴城 攻め落さるるの事
 10-13: 三州吉良へ御鷹野の事
 10-14: 中将信忠へ御名物11種...
 11-01: 御茶の湯の事
 11-06: 高倉山西国陣の事
 11-08: 播磨神吉城攻めの事
 11-13: 荒木摂津守 逆心を企て...
 11-14: 安部二右衛門 御忠節の事
 11-15: 丹波国 波多野館取り巻...

野村丹後 [--] のむら たんご

羽柴秀吉 [42] はしば ひでよし

 織田の家臣。羽柴筑前守
 12-03: 二条殿・烏丸殿・菊庭...
 12-05: 丹波国 波多野兄弟 張...
 12-07: 荒木 伊丹城・妻子捨て...
 12-14: 氏政 甲州表へ働きの事
 13-01: 播州 三木落居の事
 13-05: 阿賀の寺内 申し付くる...
 13-08: 因幡・伯耆両国に至り...
 13-11: 佐久間・林佐渡・丹羽...
 14-03: 高天神 干殺し 歴々 討...
 14-06: 因幡国 鳥取城 取り詰...
 14-07: 8月朔日 御馬揃えの事
 14-12: 因幡国 鳥取 果て口の事
 14-13: 伯耆国 南条表 発向の事
 14-14: 淡路島 申し付けらるる...
 14-15: 悪党 御成敗の事
 15-02: 御爆竹の事
 15-05: 木曾義政 忠節の事
 15-13: 中国表 羽柴筑前 働き...
 15-26: 羽柴筑前守秀吉、備中...
 1-04: 信長御入洛十余日の内に...
 2-06: 阿坂の城 退散の事
 3-04: 越前 手筒山攻め落せらる...
 3-07: たけくらべ・かりやす砦の事
 3-08: 姉川合戦の事
 3-10: 志賀御陣の事
 4-02: 箕蒲合戦の事
 5-03: 奇妙様 御具足初めに 虎後...
 6-07: 公方様 真木島に至りて御...
 6-08: 真木島にて御降参 公方様...
 6-10: 岩成 討ち果たされ候事
 6-11: 阿閉 謀叛の事
 7-02: 前波生害、越前一揆蜂起の事
 7-10: 樋口夫婦 御生害の事
 8-07: 越前御進発、賀・越 両国...
 9-01: 安土 御普請の事
 9-04: 御後巻 再三 御合戦の事
 10-01: 雑賀御陣の事
 10-03: 御名物召し置かるるの事
 10-06: 柴田 北国 相働くの事
 10-09: 信貴城 攻め落さるるの事
 10-10: 中将信忠御位の事
 10-12: 但馬・播磨、羽柴に申...
 10-13: 三州吉良へ御鷹野の事
 11-01: 御茶の湯の事
 11-04: 磯野丹波・磯貝新左衛...
 11-06: 高倉山西国陣の事
 11-07: 洪水の事
 11-08: 播磨神吉城攻めの事
 11-13: 荒木摂津守 逆心を企て...
 11-15: 丹波国 波多野館取り巻...

長谷川秀一 [--] はせがわ ひでかず

波多野秀治 [--] はたの ひではる

蜂屋頼隆 [42] はちや よりたか

原政茂  [--] はら まさしげ

日野輝資 [24] ひの てるすけ

福富秀勝 [--] ふくずみ ひでかつ

古田織部 [36] ふるた おりべ

不破光治 [--] ふわ みつはる

北条氏照 [39] ほうじょう うじてる

北条氏政 [41] ほうじょう うじまさ

星野左衛門 [--] ほしの さえもん

細川昭元 [31] ほそかわ あきもと

細川忠興 [16] ほそかわ ただおき

細川藤孝 [45] ほそかわ ふじたか

細川昌興 [13] ほそかわ まさおき

堀秀政  [26] ほり ひでまさ

前田利家 [41] まえだ としいえ

牧村利貞 [33] まきむら としさだ

松井友閑 [--] まつい ゆうかん

宮脇又兵衛 [--] みやわき またひょうえ

武藤舜秀 [--] むとう きよひで

村井貞勝 [59] むらい さだかつ

毛利輝元 [26] もうり てるもと

森長定  [14] もり ながさだ

矢部家定 [--] やべ いえさだ

山岡景佐 [48] やまおか かげすけ

山脇勘左衛門 [--] やまわき かんざえもん

六角義賢 [58] ろっかく よしかた

渡辺勘大夫 [--] わたなべ かんたゆう