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信長公記(巻の15)

巻の15 の現代語表記と登場人物関連のページです。
15-01. 御出仕の事
15-03. 伊勢大神宮 上遷宮の事
15-05. 木曾義政 忠節の事
15-07. 家康公 駿河口より御乱入の事
15-09. 信長公 御乱入の事
15-11. 越中富山の城、神保越中 居城 謀叛の事
15-13. 中国表 羽柴筑前 働きの事
15-15. 木曾義政 出仕の事
15-17. 諸卒に御扶持米 下さるるの事
15-19. 御国割りの事
15-21. いいはざま右街門尉 御成敗の事
15-23. 信長公 甲州より御帰陣の事
15-25. 家康公・穴山梅雪 御上洛の事
15-27. 幸若大夫・梅若大夫の事
15-29. 明智日向 西国出陣の事
15-31. 明智日向守 逆心の事
15-33. 中将信忠卿、二条にて歴々 御生害の事
15-35. 家康公、和泉堺より引き取り退かれし事
15-02. 御爆竹の事
15-04. 紀伊州 雑賀 御陣の事
15-06. 信州 高遠の城、中将信忠卿 攻めらるるの事
15-08. 武田四郎 甲州 新府 退散の事
15-10. 武田四郎 父子 生害の事
15-12. 武田典厩 生害、下曾禰 忠節の事
15-14. 人数備えの事
15-16. 滝川左近、上野国 拝領の事
15-18. 諸勢 帰陣の事
15-20. 恵林寺 御成敗の事
15-22. 信州 川中島表、森勝蔵働きの事
15-24. 阿波国、神戸三七 御拝領の事
15-26. 羽柴筑前守秀吉、備中国 城々 攻められし事
15-28. 家康公・穴山梅雪、奈良境 御見物の事
15-30. 信長公 御上洛の事
15-32. 信長公 本能寺にて御腹めされ侯事
15-34. 江州安土城 御留守居衆の有様の事

巻の15
 1582 ( 天正10 ) 年 壬午
15-01:
御出仕の事
正月朔日、隣国の大名・小名・御連枝の御衆、各々、安土にあり侯て、御出仕あり。百々之橋より惣見寺ヘ御上りなされ、おびただしき群集にて、高山へ積み上げたる築垣を踏み崩し、石と人と一つになりて崩れ落ちて、死人もあり。手負は数人 数を知らず、刀持ちの若党どもは刀を失い、迷惑したる者多し。
1番: 御先 御一門の御衆なり、2番:他国衆、3番:在 安土衆。
「 今度は、大名・小名によらず、御礼銭 100文ずつ、自身 持参侯へ 」と、 堀久太郎堀秀政長谷川竹長谷川秀一 両人を以て、御触れなり。
惣見寺 毘沙門堂 御舞台 見物申し、表の御門より三の御門の内、御殿主の下、御白洲まで祗侯仕る。ここにて面々 御言葉を加えられ、先々次第の如く、 三位中将信忠卿織田信忠
北畠中将信雄卿織田信雄織田源五織田長益織田上野守信兼織田信包 、 この他 御一門 歴々なり。
その次、他国衆。各々、階道
[きざはし]
を上り、御座敷の内へ召され、かたじけなくも、御幸の御間 拝見なさせられ侯なり。
御馬廻・甲賀衆など御白洲へ召され、暫時 逗留のところ、
「 御白洲にて、皆々、冷え候はんの間、南殿へ罷り上げ、江雲寺 御殿を見物仕り侯へ 」と上意にて、拝見申し侯なり。御座敷 総金、間毎に 狩野永徳狩野永徳 に仰せ付けられ、色々様々あらゆる所の写絵 筆に尽させられ、その上、四方の景気・山海・田園・郷里、言語道断、面白き地景、申すにばかり無し。
「 これより御廊下 続きに参り、御幸の御間 拝見仕り侯へ 」と御諚にて、かけまくも かたじけなき、一天万乗の主の御座御殿へ召し上げられ、拝監に及びし事、ありがたく、誠に生前の思い出なり。
御廊下より御幸の御間、元来、檜皮葺、金物 日に光り、殿中ことごとく総金なり。いずれも四方御張り付け、地を金に置き上ぐるなり。
金具所はことごとく黄金を以て仰せ付けられ、斜粉
[ななこ]
をつかせ、唐草を地彫りに、天井は組入り、上も輝き下も耀き、心も言葉及ばれず。御畳:備後面、上々に青目なり。高麗縁・雲絹縁、正面より 2間(3.6m) の奥に、皇居の間と覚しくて、御簾の内に一段高く、金を以て瑩き立て光り輝き、衣香 当りを払い四方に薫じ、御結構の所有り。
東へ続いて御座敷、幾間もこれあり。ここには御張り付け、総金の上に色絵に様々描かせられ、御幸の御間拝見の後、初めて参り侯 御白洲へ罷り下り侯ところに、
「 御台所の口へ祗侯へ 」と上意にて、御厩の口に立たせられ、10疋ずつの御礼銭、かたじけなくも、信長 直に御手に取らせられ、御後ろへ投げさせられ、他国衆、金銀・唐物、様々の珍奇を尽し上覧に備えられ、おびただしき様体、申すに足らず。

信長は美術館たる安土城の観覧料を取ったのである。100文= 現在の通貨価値で1万円強なので、なかなか高額だ。

15-02:
御爆竹の事
正月15日、御爆竹、江州衆へ仰せ付けらる。御人数 次第:
北方東一番: 平野土佐守平野定久多賀新左衛門多賀常則後藤喜三郎後藤高治山岡孫太郎山岡景宗
蒲生忠三郎蒲生氏郷京極小法師京極高次山崎源太左衛門山崎秀家小河孫一郎小川祐忠
南方: 山岡対馬守山岡景佐池田孫次郎池田秀雄久徳左近久徳左近兵衛永田刑部少輔永田正貞青地千代寿青地元珍
阿閉淡路守阿閉貞征進藤山城守進藤賢盛 、以上。
1番、御馬場入: 菅屋九右衛門菅屋長頼堀久太郎堀秀政長谷川竹長谷川秀一矢部善七郎矢部家定 、御小姓衆・御馬廻。
2番、五畿内衆・隣国大名・小名。
三位中将信忠卿織田信忠北畠中将信雄卿織田信雄織田源五織田長益織田上野守信兼織田信包 、その他 御一門。
4番、信長公。軽々と召されたる御装束:京染の御小袖・御頭巾・御笠 - 少し上へ長く四角なり。御腰簑:白熊・御はきそえ・御行縢:赤地金襴、裏は紅桜。御沓:猩々皮。御馬、仁田 進上のやばかけ、奥州より参り侯:駮の御馬、遠江鹿毛、いずれも御秘蔵の御馬 3疋、取り替え取り替え召させられ、 屋代勝介矢代勝介 、これにも御馬 乗させられ、
その日、雪降り、風ありて、寒じたる事、大方ならず。辰刻(8:00) より未刻(14:00) まで召させられ、見物群集をなし、耳目 驚かし申すなり。晩に及んで、御馬納めらる。珍重々々。
正月16日、先年、 佐久間右衛門佐久間信盛 父子、御勘当 蒙り、他国致し、紀伊国 熊野奥にて病死仕り侯。不便におぼし召され侯か、子息: 甚九郎佐久間信栄 事、国の安堵、御赦免の儀、仰せ出だされ、
濃州 岐阜 祗侯侯て、 三位中将信忠卿織田信忠 へ御礼申し上げられ侯なり。 → #13-11
正月21日、備前国 宇喜多和泉宇喜多直家 、これも病死侯。 羽柴筑前守羽柴秀吉 家老の者ども召し列れ、安土城に到りて祗侯申し、右の有姿 言上侯て、信長公へ黄金 100枚進上候て 御礼申し上げ、跡職相違なきの旨、上意にて、年寄共には一々 御馬下され、かたじけなく下国侯ヘき。

15-03:
伊勢大神宮 上遷宮の事
正月25日、伊勢太神宮に於いて、正遷宮 300年以降、退転 御執行これなく、今の御代に上意を以て再興仕りたきの趣、上部大夫堀久太郎堀秀政 を以て申し上げられ侯。
「 いかほどの造作にて調うべき?」と御尋ねのところに、
「 千貫 御座侯はば、その外は勧進を以て仕るべし 」と言上侯。その時、御諚には、
「 去々年、八幡 御造営 仰せ付けられ侯に『300貫要るべし』と侯つれども、千貫に余りて要り申すの間、なかなか千貫にて成るべからず侯。民百姓等に悩を懸けさせられ侯てはいらざる 」の旨、御諚なされ、まず、3干貫 仰せ付けられ、その他、要り次第 遣わさるべき旨にて、 平井久右衛門平井久右衛門 御奉行として、上部大夫 に相加えられ侯ヘき。
正月26日、 森乱森長定 御使にて、
「 濃州 岐阜 御土蔵に、先年、鳥目 1万 6干貫 入れ置かれ侯。定めて縄も腐れ候はんの間、 三位中将信忠織田信忠 より御奉行を仰せ付けられ、つなぎ直し、正遷宮 要り次第、御渡しなられ侯へ 」と御諚なり。

15-04:
紀伊州 雑賀 御陣の事
正月27日、紀州雑賀の 鈴木孫一鈴木重秀 、同地の 土橋平次土橋守重 を生害侯。
子細は、 鈴木孫一鈴木重秀 が継父、去年、 土橋平次土橋守重 討ち果し侯。その遺恨に依りて、内々上意を経、今度、 平次土橋守重 を生害させ、土橋 が構え押し詰め、右の趣 注進申上ぐるのところ、
鈴木鈴木重秀 御見次として、 織田左衛佐織田信張 大将として、根来・和泉衆 差し遣わさる。然りしこうして、 土橋平次土橋守重 子息:根来寺 千職坊千職坊 、駆け入り、兄弟一所に立て籠るなり。

15-05:
木曾義政 忠節の事
2月朔日、信州: 木曾義政 ( 木曾義昌 )木曾義昌 、御味方の色を立てられ侯間、
「 御人数 出だされ侯様に 」と、 苗木久兵衛遠山友忠 、御調略の御使 申すに付きて、
三位中将信忠卿織田信忠 へ言上のところ、時日を移さず、 平野勘右衛門平野勘右衛門 を以て、信長公へ右の趣仰せ上げられ侯。然るところ、
「 境目の御人数出だされ、人質執り固め、その上、御出馬 」の旨、上意侯。
すなわち、 苗木久兵衛遠山友忠 父子、 木曾木曾義昌 と一手に相働き、 義政木曾義昌 の舎弟:上松蔵人、人質として、まず進上候。 御祝着なされ、 菅屋九右衛門菅屋長頼 に預け置かれ候。
2月 2日、 武田四郎武田勝頼 父子・ 典厩武田信豊木曾木曾義昌 謀叛の由 承り、新府
( 山梨県韮崎市 )
今城より馬を出だし、1万 5千ばかりにて諏訪の上原
( 長野県諏訪市 )
に至りて陣を居、諸口の儀、申しつけられ侯。
2月 3日、信長公、
「 諸口より出勢すべき 」の旨、仰せ出だされ、
「 駿河口より 家康徳川家康 公、関東口より 北条氏政北条氏政 、飛騨口より 金森五郎八金森長近 大将として相働き、伊奈口
( 長野県上伊奈郡 )
、信長公・ 三位中将信忠卿織田信忠 、二手に分かれて御乱入をなすべき 」旨、仰せ出だされ侯なり。
2月 3日、 三位中将信忠織田信忠森勝蔵森長可団平八 ( 団忠直 )団忠直 先陣として、尾州・濃州の御人数、木曾口・岩村口
( 岐阜県恵那市 )
、両手に至りて出勢なり。
御敵・伊奈口 節所を手辺にかかわり、滝ヶ沢
( 長野県下伊奈郡 )
に要害を構え、下條伊豆守 を入れ置き侯ところ、家老:下条九兵衛 逆心を企て、
2月 6日、伊豆を立出し、岩村口より 河尻與兵衛河尻秀隆 人数 引き入れ、御味方 仕り侯。
これは雑賀表の事。
野々村三十郎野々村正成 に仰せ付けられ、紀伊州 雑賀、 土橋平次土橋守重 構え、城攻め御検使として、
三十郎野々村正成 差し遣わされ侯ところ、勿論、油断無く攻め詰め候間、かかわり難く存知、
千職坊千職坊 30騎ばかりにて駆け落ち侯を、斎藤六大夫 追い駆け、 千職坊千職坊 の頸 討ち捕る。
2月 8日、安土へ持参侯て 御目に懸け侯ところ、 森乱森長定 御使にて、御小袖、ならびに、御馬、御褒美として、斎藤六大夫 に下さる。外聞面目を播す、すなわち、安土 百々橋 詰めに 千職坊千職坊 頸、懸け置かれ、各々見物仕り候。
2月 8日、 土橋平次土橋守重 が構え 攻め干し、残党 討ち果し、普請・掃除申し付け、
織田左兵衛佐織田信張 城代として入れ置かれ侯ひき。
2月 9日、信長公 信濃国に至りて御動座なさるべきについて、
  条々 御書き出し
信長 出馬に付きては、大和の人数 出張の儀、 筒井筒井順慶 召し連れ罷り立つべきの条、内々、その用意しかるべく侯。但し、高野 年寄の輩、少し相残し、吉野口 警固すべきの旨、申し付くべきの事
河内連判、鳥帽子形
( 大阪府河内長野市 )
・高野・雑賀表へ宛て置くの事
泉州一国、紀州へ押し向け侯事
三好山城守三好康長 、四国へ出陣すべきの事
摂津国、父: 勝郎池田恒興 留主居候て、両人子供、人数にて出陣すべき事
中川瀬兵衛中川清秀 、出陣すべき事
多田、出陣すべき事
上山城衆、出陣の用意、油断なく仕るべきの事
藤吉郎羽柴秀吉 、一円 中国へ宛ておく事
永岡兵部大輔細川藤孝 の儀、 與一郎細川忠興 、同: 一色五郎一色義定 罷り立ち、父、かの国に警護すべき事
惟任日向守明智光秀 、出陣用意すべき事
右、遠陣の儀候条、人数少なく召し連れ、在陣中 兵粮続き侯様に充てがい簡要侯。但し、人数多く候様に、戒力次第、粉骨を抽
[ぬきん]
ずべく侯者なり。
 2月 9日     御朱印
2月12日、 三位中将信忠卿織田信忠 御馬を出だされ、その日、土田
( 岐阜県可児市 )
に御陣取り、
13日、高野に御陣を懸けさせられ、
14日に岩村
( 岐阜県恵那市 )
に至りて御着陣。
瀧川左近滝川一益河尻與兵衛河尻秀隆毛利河内守毛利長秀水野監物水野直盛水野宗兵衛 ( 水野忠重 )水野忠重 、差し遣わさる。
2月14日、信州 松尾
( 長野県飯田市 )
の城主: 小笠原掃部大輔 ( 小笠原信嶺 )小笠原信嶺 、御忠節仕るべきの旨、申し上ぐるに付きて、妻子口
( 長野県木曽郡 )
より、 団平八団忠直森勝蔵森長可 先陣として晴南寺口
( 長野県下伊那郡 )
より相働き、木曽峠うち越え、なしの峠へ御人数 打ち上られ侯ところ、 小笠原掃部大輔小笠原信嶺 手合せとして所々に煙を揚げられ、御敵:飯田
( 長野県飯田市 )
の城に、坂西・ 星名弾正 ( 保科正直 )保科正直 立て籠り、かかわり難く存知、2月14日、夜に入り廃北侯なり。
2月15日、 森勝蔵森長可 、 3里(12km) ばかり駆け出し、印田
( 長野県下伊那郡 )
という所にて退き後れ侯者 10騎ばかり討ち止め侯ひき。
2月16日、御敵: 今福筑前守 ( 今福昌和 )今福昌和 、武者大将として薮原
( 長野県木曽郡 )
より鳥居峠へ足軽を出だし侯。 木曾木曾義昌 の御人数も、 苗木久兵衛遠山友忠 父子相加え、奈良井坂
( 長野県塩尻市 )
より懸け上り、鳥居峠にて取り合い、一戦を遂げ、討ち取りし頸の注文:跡部治部丞・有賀備後守・笠井・笠原、以上、頸数 40あまり有り、究寛の者、討ち捕り候ヘき。木曽口 御加勢の御人数の事: 織田源五織田長益 ・織田・ 織田孫十郎織田孫十郎稲葉彦六稲葉貞通
梶原平次郎梶原景久塚本小大膳塚本小大膳 ・ 水野藤次郎・簗田彦四郎・丹羽勘助、以上。
右の御人数、 木曾木曾義昌 と一手に鳥居峠を相かかわりなり。
御敵:馬場美濃守 子息 ( 馬場昌房 )馬場昌房 、深志
( 長野県松本市 )
の城に立て籠り、鳥居峠へ差し向い対陣なり。
三位中将信忠卿織田信忠 、岩村より嶮難節所を越させられ、平谷
( 長野県下伊那郡 )
に御陣取り、
次日、飯田
( 長野県飯田市 )
に至りて御陣を移され、大島
( 長野県下伊那郡 )
に、御敵:日向玄徳斎 立て籠り、物主なり。小原丹後守・ 正用軒武田信廉 、関東の 安中 ( 安中景繁 )安中景繁 、これらも番手に相加えられ、大島をかかわり侯。 中将信忠卿織田信忠 、御馬を寄せられ侯ところ、
運を開き難く存知、夜中に廃北なり。
すなわち、 三位中将信忠卿織田信忠 、大島に御在城なさる。ここには、 河尻與兵衛河尻秀隆毛利河内毛利長秀 入れ置かれ、また、御先手 飯島
( 長野県上伊那郡 )
へ御移りなり。 森勝蔵森長可団平八団忠直 、松尾の城主: 小笠原掃部大輔小笠原信嶺 、これらは先陣仰せ付けられ、
先々より百姓ども、己々が家に火を懸け、罷り出で侯なり。
子細は、近年、 武田四郎武田勝頼 、新儀の課役等申し付け、新関を据え、民百姓の悩み尽き無く、重罪をば賄を取りて用捨せしめ、軽ろき科をば懲むの由、申し侯て、あるいは磔に懸け、あるいは討たせられ、歎き悲しみ、貴賎上下ともに疎
[うみと]
果て、内心は『信長の御国に仕りたし』と、諸人願い存ずるみぎり侯間、「この時を幸い!」と、上下御手合せの御忠節仕り侯。
然れば、
「 木曽口・伊奈口 御陣の様子、懇に見及び申し上ぐべき 」の旨、御使として、信長公より、聟・犬 両人、信州御陣へ差し遣わされ、
「 大島まで、 三位中将信忠卿織田信忠 御馬寄せられ、異儀なき 」の趣、罷帰り言上侯。
さるほどに、 穴山玄蕃 ( 穴山梅雪 )穴山梅雪 、近年、遠州口 押えの手として、駿河国 江尻
( 静岡県静岡市 )
に要害こしらえ、入れ置き候。「 今度、御忠節仕り候へ 」と上意侯ところに、すなわち、御請け申し、甲斐国 府中
( 山梨県甲府市 )
に妻子を人質として置かれ侯を、
2月25日、雨夜の紛れに偸
[ぬす]
み出だし、
穴山穴山梅雪 逆心の由承り、館をかかずらうべき存分にて
2月28日、 武田四郎勝頼武田勝頼 父子・ 典厩武田信豊 、諏訪の上原を引き払い、新府の館に至りて 人数うち納め候ひき。

15-06:
信州 高遠の城、中将信忠卿 攻めらるるの事
3月朔日、 三位中将信忠卿織田信忠 、飯島より御人数を出だされ、天龍川 乗り越され、貝沼原
( 長野県伊那市 )
に御人数立てられ、松尾の城主: 小笠原掃部大輔小笠原信嶺 案内者として、
河尻與兵衛河尻秀隆毛利河内守毛利長秀団平八団忠直森勝蔵森長可 、足軽に御先へ遣わさる。 中将信忠卿織田信忠 は御母衣の衆 10人ばかり召し列れ、 仁科五郎 ( 仁科盛信 )仁科盛信 立て籠り侯、高遠
( 長野県伊那市 )
の城、川よりこなた高山へ駆け上げさせられ、御敵城の振舞い様子 御見下げすみなされ、その日は貝沼原に御陣取。
高遠の城は、三方さがしき山城にて、後ろは尾続きあり。城の麓、西より北へ富士川たぎって流れ、城のこしらえ、殊に大夫なり。在所へ入口 3町(220m) ばかりの間、下は大河、上は大山そわ伝い、一騎打ち 節所の道なり。
川下に浅瀬あり。ここを松尾の 小笠原掃部大輔小笠原信嶺 案内者にて、夜の間に、 森勝蔵森長可
団平八団忠直河尻與兵衛河尻秀隆毛利河内毛利長秀 、これらの衆 乗り渡し、大手の口 川向いへ取り詰め侯。
星名弾正保科正直 :飯田の城主にて侯。かの城 退出の後、高遠城へ立て籠もる。ここにて城中に火を懸け、御忠節仕るべきの趣、 松尾掃部小笠原信嶺 方まで夜中に申し来なり侯へども、申し上ぐべき隙も無く、
3月 2日 払暁に御人数寄せられ、 中将信忠卿織田信忠 は尾続きを搦め手の口へ取り寄せられ、大手の口、 森勝蔵森長可団平八団忠直毛利河内毛利長秀河尻與兵衛河尻秀隆松尾掃部大輔小笠原信嶺 、この口へ斬りて出で、数刻 相戦い、数多 討ち取り侯間、残党逃げ入るなり。
か様侯ところ、 中将信忠卿織田信忠 御自身、御道具を持たせられ、先を争って塀際へ付けられ、柵を引き破り、塀の上へ上がらせられ、
「 一旦に乗り入るべき!」の旨、御下知の間、我劣らじと、御小姓衆・御馬廻 城内へ乗り入り、大手・搦手より、込み入れ込み立てられ、火花を散らし相戦い、各々、傷を被り、討ち死 算を乱すに異らず。
歴々の上﨟・子供、一々に引き寄せ引き寄せ、差し殺し、斬って出で働く事、申すに及ばず。 ここに、諏訪勝右衛門 女房、刀を披き、斬って廻し、比類なき働き、前代未聞の次第なり。また、15, 6の美しき若衆 1人、弓を持ち、台所のつまりにて余多 射倒し、矢数 射尽し、後には刀を抜き、斬りて回り討ち死。手負・死人、上を下へと数を知らず。
討ち捕る頸の注文: 仁科五郎仁科盛信 ・原隼人・春日河内守・渡辺金大夫・畑野源左衛門・飛志越後守・神林十兵衛・今福又左衛門・小山田備中守 ( これは 仁科五郎仁科盛信 脇大将にて候なり )、小山田大学・小幡因幡守・小幡五郎兵衛・小幡清左衛門・諏訪勝右衛門・小幡民部丞・飯島小太郎・ 今福筑前守今福昌和 、以上、頸数 400余あり。 仁科五郎仁科盛信 頸、信長公へ持たせ、御進上候。
今度、 三位中将信忠卿織田信忠 、嶮難・節所を越させられ、東国において強物と、その隠れ無き 武田四郎武田勝頼 に打ち向い、名城の高遠の城、鹿目と究竟の侍ども入れ置き 相かかわり侯を、一旦に乗り入れ、攻め破り、東国・西国の誉を取られ、信長の御代を御相続、代々の御名誉、後胤の亀鏡に備えらるべきものなり。
3月 3日、 中将信忠卿織田信忠 、上の諏訪表に至りて、御馬を出だされ、所々御放火。
そもそも、当杜:諏訪大明神は、日本無双の霊験殊勝、七不思議、神秘の明神なり。神殿をはじめ奉り、諸伽藍ことごとく一時の煙となされ、御威光、是非なき題目なり。
関東 安中安中景繁 、大島を退出の徒、また、諏訪の池 外れに、高島 とて、小城あり。これへ立て籠り、かかわり難く存知、当城も 津田源三郎織田勝長 へ相渡し、罷り退く。
木曽口 鳥居峠の御人数も深志表に至りて打ち出で、相働き侯なり。御敵城:深志の城、 馬場美濃守馬場昌房 相かかわり、居城なり難く存知、降参申し、 織田源五織田長益 へ相渡し、退散候ふなり。

15-07:
家康公 駿河口より御乱入の事
家康徳川家康 公、 穴山玄蕃穴山梅雪 を案内者として召し列れ、駿河 河内口より甲斐国 文殊堂の麓、市川ロ
( 山梨県西八代郡 )
ヘ御乱入。

15-08:
武田四郎 甲州 新府 退散の事
武田四郎勝頼武田勝頼 、高遠の城にて、ひとまず相かかわらるると存知ぜられ侯ところ、思いの外、早速相果て、既に 三位中将信忠織田信忠 、新府へ御取り懸け候由、取々申すに付けて、新府在地の上下一門・家老の衆、軍の行ては一切これ無く、面々の足弱・子供 引越し侯に取り紛れ、廃忘致し、取る物も取り敢えず、 四郎勝頼武田勝頼 旗本に人数一勢もこれ無し。
ここより 典厩武田信豊 引き別れ、信州 佐久の郡 小諸
( 長野県小諸市 )
に立て籠り、ひとまず相かかずらうべき覚悟にて、 下曾根 ( 下曾根賢範 )下曾根賢範 を頼み、小諸へ遁れ侯。 四郎勝頼武田勝頼 攻め、一仁に罷りなる。
3月 3日、卯刻(8:00)、新府の館に火を懸け、世上の人質 余多これあるを、焼き籠にして罷り退かる。人質、どっと泣き悲しむ声、天にも響くばかりにて、哀れなる有様、申すは、なかなか愚かなり。
去る年 12月24日に、古府より新府今城へ 勝頼武田勝頼 ・簾中、一門移徙のみぎりは、金銀を鏤め、輿車、馬鞍美々しくして、隣国の諸侍に騎馬をうたせ、崇敬 斜ならず。見物群集をなす。
栄花を誇り、常は簾中深く、仮にも人にまみゆる事無く、いつきかしづき寵愛せられし上﨟達、幾程もなく引き替えて、 勝頼武田勝頼 の御前・同側:上﨟 高畠のおあい・ 勝頼武田勝頼 の伯母大方・ 信玄武田信玄 末子の娘・信虎 京上﨟の娘、この他、一門親類の上﨟の付々等、200余人のその中に、馬乗り 20騎には過ぐべからず。歴々の上﨟・子供、踏みもならわぬ山道を、徒歩裸足にて、足は紅に染みて、落人の哀れさ、なかなか目も当てられぬ次第なり。
名残り惜しくも、住み馴れし古府をば所に見て、直ちに 小山田 を頼み、勝沼
( 山梨県甲府市 )
と申す山中より、駒飼
( 山梨県甲府市 )
と申す山賀へ遁れ候。ようやく、小山田 が館
( 山梨県大月市 )
、ほど近くなりしところに、
内々、肯じ侯て呼び寄せ、ここにて、無情無下に撞き落とし、「かかわり難き」の由、申し来なり。上下の者、はたと十方を失い、難儀なり。
新府を出で侯時、侍分 5- 600も侯ひき。路次すがら引き散らし、遁ざる者、わずか 41人になるなり。田子
( 山梨県甲府市 )
という所 平屋敷に暫時の柵を付け、居陣侯て、足を休められ候。左を見、右を見るに、余多の女房達、我一人を頼りとして、歴々これあり。我身ながらも、僉議まちまち、詮方無し。
さるほどに、人 誅伐する事、思いながらも、小身の業に叶わず。国主に生まるる人は、他国を奪取せんと欲するに依りて、人数を殺す事、常の習いなり。信虎・ 信玄武田信玄信玄武田信玄 より 勝頼武田勝頼 まで 3代、人を殺す事、数千人といい、数を知らず。世間の盛衰、時節の転変、ふせぐべくもあらず。間髪を容れず、因果歴然、この節なり。天を恨まず、人を尤めず、闇より闇道に迷い、苦より苦境に沈む。あぁ、哀れなる 勝頼武田勝頼 かな。

15-09:
信長公 御乱入の事
3月 5日、信長公、隣国の御人数を召し列れられ、御動座。その日、江州の内、柏原
( 滋賀県米原市 )
上菩提院に御泊。翌日、 仁科五郎仁科盛信 が頸 持たせ参り侯を、呂久の渡り
( 岐阜県瑞穂市 )
にて御覧じ、岐阜へ持たされ、長良の河原に懸け置かれ、上下 見物仕り侯。
7日、雨降り、岐阜 御逗留。
3月 7日、 三位中将信忠卿織田信忠 、上の諏訪より甲府に至りて御入国。一条蔵人 私宅に御陣居えさせられ、 武田四郎勝頼武田勝頼 一門・親類・家老の者 尋ね捜して、ことごとく御成敗。
生害の衆:一条右衛門大輔・清野美作守・朝比奈摂津守・諏訪越中守・武田上総介・今福筑前守・小山田出羽守・ 正用軒武田信廉 ・山懸三郎兵衛 子・隆宝 - これは和尚どう事なり - これら皆、御成敗侯なり。
津田源三郎織田勝長団平八団忠直森勝蔵森長可 、足軽衆 仰せ付けられ、上野国表へ差し遣わされ侯ところ、 小幡 ( 小幡信真 )小幡信真 、人質進上申し、別条これ無し。駿・甲・信・上野 4ヶ国の諸侍、有縁をもって帰りの御礼。門前市を成す事なり。
3月 8日、信長公、岐阜より犬山
( 愛知県犬山市 )
まで御成り。9日、金山
( 岐阜県可児市 )
御泊。10日、高野 御陣取。11日、岩村に至りて、信長御着陣。

15-10:
武田四郎 父子 生害の事
3月11日、 武田四郎武田勝頼 父子・簾中・一門、駒飼
( 山梨県甲府市 )
の山中へ引籠らるるの由、 瀧川左近滝川一益 承り、嶮難・節所の山中へ分け入り相尋ねられ侯ところに、田子という所、平屋敷に、暫時、柵を付け、居陣候。
すなわち、先陣、滝川儀大夫・篠岡平右衛門 に下知を申し付け、取り巻き侯ところ、遁れがたく存知せられ、誠に花を折りたる如く、さも美しき歴々の上﨟・子供、一々に、引き寄せ引き寄せ、40余人刺し殺し、その他、散り散りに罷りなり、斬って出で、討ち死侯。 武田四郎勝頼武田勝頼 若衆:土屋右衛門尉、弓を取り、さしつめ引きつめ、散々に矢数射尽し、能き武者 余多 射倒し、追腹仕り、高名比類なき働きなり。
武田太郎 ( 武田信勝 )武田信勝 、齢は 16歳。さすが歴々の事なれば、容顔美麗、膚は白雪の如く、美しき事、余仁に勝れ、見る人「あっ!」 と感じつつ、心を懸けぬは無かりけり。会者定離の哀しさは、老いたるを後に残し、若きが先立つ世の習い、朝顔の夕べを待たぬ、唯、蜉蝣の化
[ぶゆうのあだ]
なる命なり。これまた、家の名を惜しみ、おとなしくも斬りて回り、手前の高名、名誉なり。
歴々 討ち死 相伴の衆: 武田四郎勝頼武田勝頼武田太郎信勝武田信勝 ・長坂釣竿・秋山紀伊守・小原下総守・小原丹後守・跡部尾張守・同息・安部加賀守・土屋右衛門尉・麟岳長老、中にも比類なき働きなり。以上、41人侍分、50人上﨟達女の分、3月11日、巳刻(10:00)、各々相い伴い、討ち死なり。
四郎武田勝頼 父子の頸、 瀧川左近滝川一益 方より 三位中将信忠卿織田信忠 へ御目に懸けられ侯のところに、
関可平次関可平次桑原助六桑原助六 両人に持たせ、信長公へ御進上候。

15-11:
越中富山の城、神保越中 居城 謀叛の事
さるほどに、越中国 富山の城に、 神保越中守神保長住 居城侯。しかるに今度、信長公 御父子、信州表に至りて御動座侯のところ、
武田四郎武田勝頼 、「 節所をかかわり一戦を遂げ、ことごとく討ち果し侯の聞、この競いに越中国も一揆蜂起せしめ、その国存分に申し付け侯へ 」と、ありありと越中へ、偽 申し遣わし侯事、実に心得、小島六郎左衛門・加老戸式部 両人、一揆大将に罷りなり、 神保越中神保長住 を城内へ押し籠め、3月11日、富山の城 居取りに仕り、近辺に煙を挙げ侯。
時日を移さず、 柴田修理亮柴田勝家佐々内蔵介佐々成政前田又左衛門前田利家佐久間玄蕃頭佐久間盛政 、これらの衆として富山の一揆城 取り巻き候間、
「 落去 幾程もあるべからざる 」の旨、注進申し上げられ候。

15-12:
武田典厩 生害、下曾禰 忠節の事
信長公 御返書の趣、
武田四郎勝頼武田勝頼武田太郎信勝武田信勝武田典厩武田信豊 ・小山田・長坂釣竿 はじめとして、家老者 ことごとく討ち果たし、駿・甲・信、滞りなく一篇に仰せ付けられ侯間、気遣いあるべからず侯。飛脚見及び候間、申し達すべく侯。その表の事、これまた、存分になすべき事、勿論なり。
 3月13日
柴田修理亮柴田勝家 殿   佐々内蔵介佐々成政 殿   前田又左衛門前田利家 殿   不破彦三不破直光 殿
3月13日、信長公、岩村より禰羽根
( 長野県下伊那郡 )
まで御陣移さる。
14日、平谷をうち越え、波合
( 長野県下伊那郡 )
に御陣取り、ここにて、 武田四郎武田勝頼 父子の頸、 関与兵衛関可平次桑原助六桑原助六 持たせ参り、御目に懸けられ侯。すなわち、 矢部善七郎矢部家定 仰せ付けられ、飯田
( 長野県飯田市 )
へ持たせ遣わさる。
15日 午刻(12:00) より、雨強く降り、その日、飯田に御陣を懸けさせられ、 四郎武田勝頼 父子の頸、飯田に懸け置かれ、上下見物仕り侯。
16日、御逗留。
信州 佐久の郡 小諸
( 長野県小諸市 )
に、 下曾根覚雲軒下曾根賢範 立て籠り侯。 武田典厩武田信豊下曾根下曾根賢範 を頼み、わずか 20騎ばかりにて罷り越され候。肯申
[うけこい]
、二の丸まで呼び入れ、
無情 心を変え、取巻き、既に家に火を懸け侯。
典厩武田信豊 が若衆に 朝比奈彌四郎 とて候ひき。今度、討ち死を究め、上原在陣の時、諏訪の要明寺の長老を道師にみ戒を保ち道号を付け侯て、頸に懸け、最後に斬って回り、 典厩武田信豊 を介錯し、追腹仕り、名誉、是非なき題目なり。
典厩武田信豊 の頼みし姪女聟:百井 と申す仁、これも一所に腹を仕り、侍分 11人生害させ、
典厩武田信豊 の頸、御忠節として、 下曾根下曾根賢範 持ち来、進上仕り侯。すなわち、 長谷川與次長谷川與次 持たせ参る。
3月16日 飯田 御逗留の時、 典厩武田信豊 の首、信長公へ御目に懸けられ侯。 仁科五郎仁科盛信 乗り侯 秘蔵の蘆毛馬、 武田四郎武田勝頼 乗馬 大鹿毛、これまた進められ侯ところ、大鹿毛は、
三位中将信忠卿織田信忠 へ参らせられ、 武田四郎勝頼武田勝頼 最後に差されたる刀、 瀧川左近滝川一益 方より 信長公へ上げ申され侯。使いに祗侯の 稲田九蔵 に御小袖下され、かたじけなき次第なり。
武田四郎武田勝頼 ・ 同: 太郎武田信勝武田典厩武田信豊仁科五郎仁科盛信 4人の首、 長谷川宗仁長谷川宗仁 に仰せ付けられ、
「 京都へ上せ、獄門に懸けらるべき 」の由侯て、御上京侯なり。
3月17日、信長公、飯田より大島を御通りなされ、飯島に至りて御陣取り。

15-13:
中国表 羽柴筑前 働きの事
3月17日、御次公( 羽柴秀勝 )、御具足初めにて、 羽柴筑前守秀吉羽柴秀吉 御伴仕り、備前の児島
( 岡山県倉敷市 )
に御敵城 一所 相残り侯、この表 相働き、手遣いの由、注進これあり。

15-14:
人数備えの事
3月18日、信長公、高遠の城に御陣を懸られ、
3月19日、上の諏訪 法花寺に御居陣。諸手の御陣取り、段々に仰せ付けられ侯なり。
人数持ち備えの次第: 織田七兵衛信澄織田信澄菅屋九右衛門菅屋長頼矢部善七郎矢部家定堀久太郎堀秀政
長谷川竹長谷川秀一福富平左衛門福富秀勝 ・氏家源六・ 竹中久作竹中重隆原彦次郎原政茂 ・武藤助・ 蒲生忠三郎蒲生氏郷
永岡與一郎細川忠興池田勝九郎池田元助蜂屋兵庫頭蜂屋頼隆阿閉淡路守阿閉貞征不破彦三不破直光高山右近高山右近
中川瀬兵衛中川清秀惟任日向守明智光秀惟住五郎左衛門丹羽長秀筒井順慶筒井順慶 、この他、御馬廻 御陣取り、これまた、段次にこれあり。

15-15:
木曾義政 出仕の事
3月20日、 木曾義政木曾義昌 、出仕申され、御馬 2つ進上。申し次ぎ: 菅屋九右衛門菅屋長頼 。当座 御奏者: 瀧川左近滝川一益。 御腰物 梨地蒔・金具所 焼付け・地彫り。目貫・梗概
[こうがい]
は十二神。後藤源四郎 彫りなり。ならびに、黄金 100枚、新知分 信州の内 2郡下され、御縁まで御送りなされ、冥加の至りなり。
3月20日 晩に、 穴山梅雪穴山梅雪 、御礼。御馬進上。御脇差・梨地蒔・金具所焼付け、地彫りなり。御小刀、御柄まで梨地蒔。
「 似相申す 」の由、御諚なさる。さげ鞘・ひうち袋付けさせ、下され、御領中 仰せ付けられ侯ひき。
松尾掃部大輔小笠原信嶺 御礼。駮の御馬 進上。御意に相い御秘蔵侯なり。
「 今度、忠節、比類無き 」の旨、上意にて、本知安堵の御朱印、 矢部善七郎矢部家定森乱森長定 両人御使にて下され、かたじけなき次第なり。
3月21日、 北条氏政北条氏政 より、端山 と申す者、使者にて、御馬、ならびに、江川の御酒・白鳥、色々進上。 瀧川左近滝川一益 御取次。

15-16:
滝川左近、上野国 拝領の事
3月23日、 瀧川左近滝川一益 召し寄せられ、上野国、ならびに、信州の内 2郡下され侯。
「 年罷り寄り 遠国へ遣わされ侯事、痛みおぼし召され侯といえども、関東 8州の御警固を申し付け、老後の覚えに上野に在国仕り、東国の儀 御取次、かれこれ申し付くべき 」の旨、上意。 かたじけなくも御秘蔵のゑびか毛の御馬下され、
「 この御馬に乗り侯て、入国仕り侯へ 」と御諚。都鄙の面目、この節なり。

15-17:
諸卒に御扶持米 下さるるの事
3月24日、「 各々在陣致し、兵粮等 迷惑仕るべき 」の旨、仰せ出だされ、
菅屋九右衛門菅屋長頼 、御奉行として御着到付けさせられ、諸卒の人数に随って、御扶持米、信州 深志にて渡し下され、かたじけなき次第なり。

15-18:
諸勢 帰陣の事
3月25日、上野国 小幡小幡信真 、甲府へ参り、 三位中将信忠卿織田信忠 へ帰参の御礼申し上げ、
瀧川左近滝川一益、同道申し、御暇下され帰国候なり。
3月26日、 北条氏政北条氏政 より、御馬の飼料として、米千俵、諏訪まで持ち届け、進上侯なり。
三位中将信忠卿織田信忠 、今度、高遠の名城攻め落し、御手柄 御褒美として、梨地蒔 御腰物 参られ侯。
「 天下の儀も御与奪なさるべき 」旨、仰せらる。
東国 御隙入る儀も御座無きに付きて、右の御礼として、
3月28日、 三位中将信忠卿織田信忠 、甲府より諏訪まで御馬を納めらる。 今日、もっての外 時雨、風ありて、寒じたる事、大形ならず。人余多 寒え死に侯ひき。
信長公は
「 諏訪より富土の根かたを御見物なされ、駿河・遠江へ御回り候て、御帰洛なすべき の間、諸卒これより帰し申し、頭々ばかり御伴仕り侯へ 」と仰せ出だされ、御人数、諏訪より御暇下さる。
3月29日、木曽口、伊奈口、思い思いに帰陣侯なり。

15-19:
御国割りの事
3月29日、御知行割り、仰せ出ださるる次第。
  覚
甲斐国  河尻與兵衛河尻秀隆 へ下さる。但し、 穴山穴山梅雪 本知分、これを除く。
駿河国  家康徳川家康 卿へ、
上野国  瀧川左近滝川一益 へ下さる。
信濃国:高井・水内・更科・埴科 4郡  林勝蔵森長可 へ下さる。川中島
( 長野県長野市 )
表 在城、今度、励しき先陣粉骨に付きて、御褒美として仰せ付けられ、面目の至りなり。
同:木曾谷 2郡  木曾木曾義昌 本知。
同:安曇・筑摩 2郡  木曾木曾義昌 新知に下され、
同:伊奈 1郡  毛利河内毛利長秀 へ下さる。
同:諏訪 1郡  河尻河尻秀隆穴山穴山梅雪 替地に下さる。
同:小さ県・佐久 2郡  瀧川左近滝川一益 へ下さる。
以上、12郡。
岩村
( 岐阜県恵那市 )
 団平八団忠直 、今度粉骨につきて下さる。
金山・米田島
( 岐阜県加茂郡 )
 森乱森長定 へ下さる。これは 勝蔵森長可 、かたじけなき次第なり。
  国掟  甲・信 両州
関役所・同:駒口、取るべからざるの事
百姓前、本年貢外、非分の儀、申し懸くべからざる事
忠節人立て置く他、廉がましき侍 生害させ、あるいは追失すべき事
公事等の儀、能々念を入れ、穿鑿せしめ、落着すべき事
国諸侍に懇に扱い、さすが油断なき様、気遣いすべき事
第一、慾を構うに付きて、諸人不足たるの条、内儀相続においては、皆々に支配せしめ、人数をかかずらうべき事
本国より奉公 望みの者これあらば、相改め、まえかかわり侯ものの方へ相届け、その上において、扶持すべきの事
城々 普請、丈夫にすべきの事
鉄砲・玉薬・兵粮 蓄うべきの事
進退の郡内 請け取り、道を作るべき事
堺目入り組み、少々領中を論ずるの間、悪の儀、これあるべからざるの事
右定めの他、悪き扱いにおいては、罷り上り、直に訴訟 申し上ぐべく候なり。
 天正10年 3月 日
信長公、御帰陣の間は、信州 諏訪に、 三位中将信忠織田信忠 置き申され、
「 甲州より富士の根かたを御覧じ、駿河・遠江へ御回り候て、御帰洛あるべき 」の旨、上意侯て、
4月 2日、雨降り時雨侯。兼日仰せ出ださるるに付きて、諏訪より大ヶ原
( 山梨県北杜市 )
に至りて御陣を移さる。御座所の御普請・御まかない 以下、 瀧川左近滝川一益、将監 申し付け、上下数百人の御小屋 懸け置き、御馳走 斜ならず。
北条氏政北条氏政 、武蔵野にて追鳥狩仕り侯て、雉の鳥数 500余進上侯。すなわち、
菅屋九右衛門菅屋長頼矢部善七郎矢部家定福富平左衛門福富秀勝長谷川竹長谷川秀一堀久太郎堀秀政 、5人御奉行にて、御馬廻衆 召し寄せられ、御着到付けさせられ、遠国の珍物拝領。御威光、ありがたき次第なり。
4月 3日、大ヶ原 御立ちなされ、5町(550m) ばかり御出で侯へば、山間いより名山、これぞと見えし富士の山、こうこうと雪積り、誠に殊勝、面白き有様、各々見物、耳目を驚かし申すなり。
勝頼武田勝頼 居城の甲州 新府
( 山梨県韮崎市 )
灰跡
[くわいせき]
を御覧じ、これより古府
( 山梨県甲府市 )
に至りて御参陣。 武田信玄武田信玄 館に、 三位中将信忠卿織田信忠 御普請 大夫に仰せ付けられ、仮の御殿 美々しく相構え、信長公 御居陣侯ひき。ここにて、 惟住五郎左衛門丹羽長秀
堀久太郎堀秀政多賀新左衛門多賀常則 、御暇下され、草津
( 群馬県吾妻郡 )
へ湯治仕り侯なり。

15-20:
恵林寺 御成敗の事
さるほどに、今度、恵林寺において、 佐々木次郎六角義定 隠し置くにつきて、その過怠として、 三位中将信忠卿織田信忠 より仰せ付けられ、恵林寺 僧衆 御成敗の御奉行人:
織田九郎次郎 ( 織田元秀 )織田元秀長谷川與次長谷川與次関十郎右衛門関長安赤座七郎右衛門赤座永兼 、以上。
右 奉行衆 罷り越し、寺中老若を残らず山門へ呼び上せ、廊門より山門へ籠草を積ませ、火を付けられ候。初めは黒煙立ちて見えわかず、次第次第に煙収まり、焼き上がり、人の形 見ゆるところに、快川長老 は、ちとも騒がず、座に直りたるまま動かず。
その他、老若・児・若衆 踊り上り飛び上り、互いに抱き 悶え焦れ、焦熱・大焦熱の焔に咽び、火血刀の苦を悲しむ有様、目も当てられず。
長老分 11人果たされ侯。その中 存知の分:宝泉寺の 雪岑長老・東光寺の 藍田長老・高山の長禅寺の長老・大覚和尚長老・長円寺長老・快川長老。
中にも 快川長老、これは隠れなき覚えの僧なり。これによりて、去年、内裡にて、かたじけなくも、円常国師と御補任 頂戴申され、近代国師号を賜わる事、規模なり。都鄙の面目これに過ぐべからず。
4月 3日、恵林寺 破滅。老若 上下 150余人焼き殺され訖んぬ。
所々にて御成敗の衆:諏訪刑部・諏訪采女・だみね・長篠、これらは百姓どもとして、生害させ、頸を進上。すなわち、御褒美なされ、黄金下され侯ひなり。これを見る者、先々まで名ある程の者尋ね捜して、頸を持ち参り候ひき。

15-21:
いいはざま右街門尉 御成敗の事
飯羽間右衛門尉飯羽間右衛門 、生捕り、進上侯。
先年、明智の城にて謀叛いたし、 坂井越中守坂井越中 親類の者ども 余多 討ち果し候につきて、今度、 坂井越中坂井越中 に仰せ付け、御成敗候ひしなり。 → #7-03
秋山萬の・秋山摂津守・ 長谷川竹長谷川秀一 に仰せ付けられ、御成敗侯ひしなり。
北条氏政北条氏政 より御馬 13疋、ならびに御鷹 3足進上。この内に鶴取りの御鷹これある由なり。御使:玉林斎 祗侯のところ、いずれも御気色に相い申さず、帰し遣わされ侯。

15-22:
信州 川中島表、森勝蔵働きの事
4月 5日、 森勝蔵森長可 、川中島 海津
( 長野県長野市 )
に在城いたし、 稲葉彦六稲葉貞通 、飯山に張陣侯ところ、 【 一揆蜂起せしめ、飯山を取り巻く 】の由、注進侯。
すなわち、稲葉勘右衛門稲葉刑部稲葉刑部稲葉彦一稲葉典通国枝、これらを御加勢として飯山へさし遣わされ、 三位中将信忠卿織田信忠 より、 団平八団忠直 、これまた差し越さる。しかるに、御敵、山中へ引き籠り、大蔵
( 長野県長野市 )
の古城こしらえ、芋川 という者 一揆致し、大将立て籠もる。
4月 7日、御敵、長沼
( 長野県長野市 )
ロヘ 8千ばかりにて相働き侯。すなわち、 森勝蔵森長可 駆けつけ、見合せ、どっと斬り懸かり、7, 8里(30km) の間、追い討ちに、1,200余 討ち捕り、大蔵の古城にて女童 1,000余斬り捨つる。以上、頸数 2,450余あり。
この式侯間、飯山取り詰め侯人数、勿論、引き払い、飯山請け取り、 森勝蔵森長可 、人数入れ置き、 稲葉彦六稲葉貞通 、御本陣 諏訪へ帰陣。 稲葉勘右衛門・ 稲葉刑部稲葉刑部稲葉彦一稲葉典通
国枝、江州安土へ帰陣仕り、右の趣、言上なり。
森勝蔵森長可 、山中へ日々相働き、所々の人質取り固め、百姓ども還住申しつけられ、粉骨、是非なき様体なり。

15-23:
信長公 甲州より御帰陣の事
4月10日、信長公、東国の儀 仰せ付けられ、甲府を御立ちなさる。
ここに、笛吹川とて、善光寺より流れ出ずる川あり。橋を懸け置き、徒歩人 渡し申し、御馬ども乗り越させられ、うば口
( 山梨県甲府市 )
に至りて御陣取り。
家康徳川家康 公、御念入れられ、賂次通り、鉄砲、長竹木を皆、道広々と作り、左右にひしと隙間無く警護を置かれ、石を退き、水をそそぎ、御陣屋 丈夫に御普請申し付け、2重 3重に柵を付け置き、その上、諸卒の木屋木屋、千間に余り、御先々、御泊り御泊り、御屋形の四方に作り置き、諸士のまかない、朝夕の儀、下々ことごとく申し付けられ、信長公、「奇特」と御感なられ候ひき。
4月11日 払暁に、うば口より 女坂
( 山梨県甲府市 )
高山 御上りなされ、谷合いに御茶屋・御厩 結構に構えて、一献 進上申さるる。柏坂、これまた高山にて茂りたる事、大形ならず。左右の大木を伏せられ、道を作り、石を退かさせ、山々嶺々、隙間なく御警固を置かる。柏坂の峠に御茶屋 美々しく立ておき、一献進上侯なり。
その日は、本栖
( 山梨県南都留郡 )
に至りて御陣を移され、本栖にも御座所 結構に輝くばかりに相構え、2重 3重に柵を付けさせ、その上、諸士の木屋木屋、千間に余り、御殿の四方に作りおき、上下の御まかない仰せ付けられ、御肝煎、是非なき次第なり。
4月12日、本栖を未明に出でさせられ、寒じたる事、冬の最中の如くなり。富士の根かた、かみのが原、井手野
( 静岡県富士宮市 )
にて、御小姓衆、いずれもみだりに御馬を責めさせられ、御狂いなされ、富士山 御覧じ御ところ、高山に雪積りて白雲の如くなり。誠に希有の名山なり。同:根かたの人穴 御見物。ここに御茶屋立ておき、一献進上申さるる。
大宮の社人・杜僧 罷り出で、道の掃除申し付け、御礼申し上げらる。昔、頼朝、狩りくらの屋形建てられし上井手
( 静岡県富士宮市 )
の丸山あり。西の山に白糸の滝、名所あり。 この表 詳しく御尋ねなされ、浮島ヶ原
( 静岡県富士宮市 )
にて、御馬 暫く召させられ、大宮に至りて御座 移され侯ひき。
今度、 北条氏政北条氏政 御手合せとして出勢侯て、高国寺・鐘突免
( 静岡県沼津市 )
北条北条氏政 馬を立て、後れ走りの人数を出だし、中道通り、駿河路を相働き、味方地、大宮諸伽藍をはじめとして、本栖までことごとく放火侯。
大宮は要害しかるべきにつきて、社内に御座所、一夜の御陣宿として、金銀を鏤め、それぞれの御普請 美々しく仰せ付けられ、四方に諸陣の木屋木屋 懸け置き、御馳走 斜ならず。
ここにて、
一 御脇差:作吉光  一 御長刀:作一文字  一 御馬:黒駮、以上、
家康徳川家康 卿へ進めらる。いずれも御秘蔵の御道具なり。
4月13日、大宮を払暁に立たせられ、浮島ヶ原より足高山 左に御覧じ、富士川 乗り越させられ、神原
( 静岡県静岡市 )
に御茶屋構え、一献進上侯なり。暫く御馬を立てられ、知人に、吹上げの松・六本松・和歌の宮の子細、御尋ねなされ、向地は伊豆浦・目羅ヶ崎・連々聞こし召し及ばれ侯。萬国寺・吉原・三枚橋・鐘突免・天神川、伊豆・相模 境目にこれある深沢
( 静岡県御殿場市 )
の城、いずれも尋ね聞かされ、神原の浜辺を由井て、磯部の浪に袖濡れて、清見が関、ここに興津の白波や、田子の浦浜・三保が崎、いずれも、三保の松原や羽衣の松、久堅の四海納まり、長閑にて、名所名所に御心を付けられ、江尻
( 静岡県静岡市 )
の南山の打ち越し、久能の城 御尋ねなされ、その日は、江尻の城に御泊。
4月14日、江尻を夜の間に立たせられ、駿河 府中
( 静岡県静岡市 )
町口に御茶屋立て置き、一献進上申さるる。ここにて、今川の古跡、千本の桜、詳しく尋ね聞こし召し、安倍川を越させられ、かの川下 左の山手に、 武田四郎勝頼武田勝頼 、この地にかかわられし砦、持舟という城あり。また、山中路次通り、まりこの川端に山城をこしらえ、防ぎの城あり。名にしおう宇津の山辺の坂口に御屋形を立て、一献進上侯なり。
字津の屋の坂を登りに越させられ、田中
( 静岡県藤枝市 )
ようやく、ほど近く、藤枝の宿 入り口に、誠に卒度したる「偽りの橋」とて名所あり。街道より左、田中の城より東山の尾崎、浜手へ付きて、花沢
( 静岡県焼津市 )
の古城あり。これは、昔、小原肥前守 立て籠り候ひし時、 武田信玄武田信玄 、この城へ取り懸け、攻め損じ、人余多討たせ、勝利を失いし所の城なり。同:山崎
( 静岡県焼津市 )
に、当目の虚空蔵まします。能く尋ね聞かされ侯て、その日は、田中の城に御泊。
4月15日、田中、未明に出でさせられ、藤枝
( 静岡県藤枝市 )
の宿より瀬戸の川端に御茶屋立ておき、一献進上申さるる。瀬戸川 越させられ、瀬戸の染飯とて、皆、道に人の知る所あり。島田
( 静岡県島田市 )
の町、これまた、音に聞こゆる鍛冶の在所なり。大井川 乗り越させられ、川の面に人余多立ち渡り、徒歩人 聊爾無き様に渡し申し侯なり。牧野原
( 静岡県島田市 )
の城 右に見て、諏訪の原を下り、菊川を御通りありて、上れば、小夜の中山なり。御茶屋 結構に構えて、一献進上侯なり。これより、日坂越させられ、懸川
( 静岡県掛川市 )
に御泊。
4月16日、懸川 払暁に立たせられ、見附けの国府
( 静岡県磐田市 )
の上、鎌田ヶ原、三カ野坂に御屋形立ておき、一献進上なり。ここより、まむし塚・高天神
( 静岡県掛川市 )
・小山、手に取るばかり御覧じ送り、池田
( 静岡県磐田市 )
の宿より天龍川へ着せられ、ここに舟橋懸け置かれ、奉行人:小栗二右衛門・浅井六介・大橋、以上 両 3人申し付けられ侯。
そもそも、この天龍は、甲州・信州 大河集まりて流れ出でたる大河。滝下り滝鳴りて、川の面すさまじく渺々として、誠に容易く舟橋懸かるべき所に非ず。上古よりの初めなり。
国中の人数を以て、大綱数百筋 引きはえて、舟数を寄させられ、御馬を渡さるべきためなれば、おびただしく丈夫に、殊に結構に懸けられたり。川の面、前後に堅く番を居え置き、奉行人 粉骨申すばかり無し。
この橋ばかりの造作なれども、幾何の事に侯。国々遠国まで道を作らせ、江川には舟橋を仰せ付けられ、路辺に御警護を申しつけられ、御泊御泊の御屋形 御屋形 立て置かれ、また、路道の辻々に隙間なく、御茶屋・御厩、それぞれ、おびただしく、結構に相構えられ、御膳・御進上 御用意、京都境へ人を上せられ、諸国にて珍奇を調え、御崇敬 斜ならず。
その他、諸卒の御まかない、これまた、数日送りて仰せ付けられ、1,500間ずつの小屋小屋、御先々にて立ておかるるばかり、 家康徳川家康 卿、万方の御心賦、一方ならぬ御苦労、尽期なき次第なり。
しかしながら、いずれの道にても、諸人 感じ奉る事、御名誉申すに足らず、信長公の御感悦、申すに及ばず。
大天龍 舟橋 御通りなされ、小天龍 乗り越させられ、浜松に至りて御泊。ここにて、御小姓衆・御馬廻、ことごとく御暇下され、思い思い、本坂越え、今切越えにて、御先へ帰陣なり。御弓衆・御鉄砲衆ばかり相残り、御伴なり。
去る年、 西尾小左衛門西尾義次 仰せ付けられ、黄金 50枚にて御兵粮 8千余俵 調え置かれ侯。これは、かようの時節 御用に立てらるべきため侯。併しながら、
「 この上は要らざる 」の旨、御諚侯て、 家康徳川家康 卿 御家臣衆へ御支配候て下され、各々かたじけなきの趣、御礼にて侯なり。
4月17日、浜松、払暁に出でさせられ、今切の渡り、御座船 飾り御舟の内にて、一献進上申さるる。その他、御伴衆舟数 余多寄せさせ、前後に舟奉行 付け置かれ、油断なく越させらる。
御舟御上りなされ、7, 8町(800m) 御出で候て、右手に、浜名の橋とて、卒度したる所なれども、名にしおう名所なり。 家康徳川家康 卿 御家来:渡辺彌一郎 と申す仁、こざかしく、浜名の橋・今切の由来・舟かたの子細の条々、申し上ぐるにつきて、神妙におぼし召されて、黄金下され、手前の才覚、面目なり。 汐見坂に御茶屋・御厩立て置き、それぞれの御普請侯て、一献進上侯なり。晩に及びて雨降り、吉田
( 愛知県豊橋市 )
に御泊。
4月18日、吉田川 乗り越させられ、五位
( 愛知県豊川市 )
にて御茶屋 美々しく立て置かれ、西入口に結構に橋を架けさせ、御風呂 新しく立てられ、珍物を調え、一献進上。大形ならぬ御馳走なり。本坂・長沢
( 愛知県豊川市 )
、皆道、山中にて、総別 石高なり。今度、金棒を持ちて岩を突き砕かせ、石を取り退け、平らに申し付けられ、ここに山中の宝蔵寺、御茶屋、西に結構に構えて、寺僧・喝食・老若 罷り出で、御礼申さるる。
正田
( 愛知県岡崎市 )
の町より大比良川 越させられ、岡崎城の腰、むつ田川・矢作川には、これまた造作にて橋を架けさせ、徒歩人渡し申され、御馬どもは乗り越させられ、矢作の宿をうち遇ぎて、池鯉鮒
( 愛知県知立市 )
に至りて御泊。 水野宗兵衛水野忠重 、御屋形を立てて御馳走侯なり。
4月19日、清洲まで御通り。
4月20日、岐阜へ御座 移さる。
4月21日、濃州 岐阜より安土へ御帰陣のところに、呂久の渡しにて御座船飾り、
稲葉伊予稲葉一鉄 、一献進上なり。捶井
( 岐阜県不破郡 )
に御屋形立て置き、 こぼう織田勝長 殿、一献御進上侯なり。今洲
( 岐阜県不破郡 )
に御茶屋立てて、 不破彦三不破直光 、一献進上侯なり。柏原
( 滋賀県米原市 )
に御茶屋こしらえ、 菅屋九右衛門菅屋長頼 一献進上なり。佐和山
( 滋賀県彦根市 )
に御茶屋立て、 惟住五郎左衛門丹羽長秀 一献進上。山崎
( 滋賀県彦根市 )
に御茶屋立て置き、
山崎源太左衛門山崎秀家 一献進上侯なり。
今度、京都・堺・五畿内、隣国の各々、はるばる罷り下り、御陣 御見舞の面々、門前市をなす事侯。路次中、色々進物、数を知らず上覧に備え、誠に御威光 ありがたき御代なり。
4月21日、安土 御帰陣。

15-24:
阿波国、神戸三七 御拝領の事
さるほど、四国 阿波国、 神戸三七信孝織田信孝 へ参らせられ侯につきて、御人数 御催なされ、
5月11日、住吉
( 大阪府大阪市 )
に至りて御参陣。四国へ渡海の舟ども仰せ付けられ、その御用意 半ばに候。

15-25:
家康公・穴山梅雪 御上洛の事
信長公、当春、東国へ御動座なされ、 武田四郎勝頼武田勝頼 ・ 同: 太郎信勝武田信勝武田典厩武田信豊 、一類歴々討ち果し、御本意達せられ、駿河・遠江両国、 家康徳川家康 公へ進めらる。
その御礼として、 徳川家康徳川家康 公、ならびに、 穴山梅雪穴山梅雪 、今度、上国侯。
「 一廉 御馳走あるべき 」の由侯て、まず、皆道を作られ、
「 所々御泊々に、国持ち・郡持ち大名衆 罷り出で候て、及ぶ程、結構仕り侯て、御振舞仕り侯へ 」と、仰せ出だされ侯ひしなり。
5月14日、江州の内、番場
( 滋賀県米原市 )
まで、 家康徳川家康 公・ 穴山梅雪穴山梅雪 御出でなり。
惟住五郎左衛門丹羽長秀 、番場に仮殿を立て置き、雑掌を構え、一宿振舞申さるる。
同日に、 三位中将信忠卿織田信忠 御上洛なされ、番場 御立ち寄り、暫時 御休息のところ、
惟住五郎左衛門丹羽長秀 、一献進上侯なり。その日、安土まで御通侯ひき。
5月15日、 家康徳川家康 公、番場を御立ちなされ、安土に至りて御参着。
「 御宿、大宝坊しかるべき 」の由、上意にて、御振舞の事、 惟任日向守明智光秀 に仰せ付けられ、京都・堺にて珍物調え、おびただしく結構にて、15日より 17日まで、3日の御事なり。

15-26:
羽柴筑前守秀吉、備中国 城々 攻められし事
中国 備中へ 羽柴筑前守羽柴秀吉 相働き、宿面塚
( 岡山県岡山市 )
の城、荒々と取り寄せ攻め落し、数多 討ち捕り、ならびに、ゑつたが城へ、また取り懸け侯ところ、降参申し罷り退き、高松
( 岡山県岡山市 )
の城へ一所に立て籠もるなり。
また、高松へ取り詰め、見下げすみ、くも津川・ゑつた川、両河を堰切り、水を湛え、水攻めに申しつけられ侯。
芸州より、 毛利毛利輝元吉川吉川元春小早川小早川隆景 、人数引卒し、対陣なり。
信長公、これらの趣、聞こし召し及ばれ、
「 今度、間近く寄り合い侯事、天の与うるところに侯間、御動座なされ、中国の歴々討ち果たし、九州まで一篇に仰せ付けらるべき 」の旨、上意にて、 堀久太郎堀秀政 御使として、 羽柴筑前羽柴秀吉 方へ、条々仰せ遣わされ、
惟任日向守明智光秀長岡與一郎細川忠興池田勝三郎池田恒興塩河吉大夫塩河吉大夫高山右近高山右近中川瀬兵衛中川清秀 、先陣として出勢すべき 」の旨、仰せ出だされ、すなわち御暇下さる。
5月17日、 惟任日向守明智光秀 、安土より坂本に至りて帰城仕り、いずれも何れも、同事に本国へ罷り帰り侯て、御陣 用意侯なり。

15-27:
幸若大夫・梅若大夫の事
「 5月19日、安土 御山 惣見寺にて、幸若八郎九郎大夫 に舞を舞わせ、次の日は、四座の内は珍しからず、丹波猿楽、梅若大夫に能をさせ、 家康徳川家康 公 召し列れられ侯衆、今度、道中辛労を忘れ申す様に、見物させ申さるべき 」旨、上意にて、御桟敷の内、
近衛近衛前久 殿・信長公・ 家康徳川家康 公・ 穴山梅雪穴山梅雪 ・長安・長雲・ 友閑松井友閑夕庵武井夕庵 。御芝居は御小姓衆・御馬廻・御年寄衆、 家康徳川家康 公の御家臣衆ばかりなり。
初の舞は「大職冠」、2番「田歌」、舞良く出来侯て、御機嫌 斜ならず。
「 御能は、翌日仰せ付けらるべし 」と御諚侯ひつるが、日高に舞い過ごし侯に依りて、その日、梅若大夫 御能仕り侯折節、御能 不出来に見苦しき侯て、梅若大夫 御折濫なされ、御立ち大形ならず。
幸若八郎九郎大夫 居申し侯 楽屋へ御使、 菅屋玖右衛門菅屋長頼長谷川竹長谷川秀一 両使を以て、
「 かたじけなくも上意の趣、能の後にて舞を仕り侯事、本式に非ずといえども、御所望侯間、今一番仕り侯へ 」と仰せ出だされ侯。この時「和田酒盛」を舞い申し侯。また勝れて出来、御機嫌直り、ここにて、 森乱森長定 御使にて、幸若大夫 御前へ召し出だされ、御褒美として、黄金 10枚下さるる。面目といい、外聞実儀、かたじけなく頂戴なり。
次に、梅若大夫 御能悪く仕る事、曲事におぼし召され侯へども、『 黄金かかわり惜しむの様に、世間の褒貶あるべきや 』の御思慮 加えられ、右の趣の条々、仰せ聞かされ、その後、梅若大夫 にも金子 10枚下さる。過分かたじけなき次第なり。

15-28:
家康公・穴山梅雪、奈良境 御見物の事
5月20日、 惟住五郎左衛門丹羽長秀堀久太郎堀秀政長谷川竹長谷川秀一菅谷玖右衛門菅屋長頼 4人に
徳川家康徳川家康 公 御振舞の御仕立て仰せ付けらる。御座敷は高雲寺御殿。
家康徳川家康 公・ 穴山梅雪穴山梅雪石河伯耆石川数正坂井左衛門尉酒井忠次、この他、家老の衆 御食 下され、かたじけなくも、信長公 御自身 御膳を居えさせられ、御崇敬 斜ならず。
御食過ぎ侯て、 家康徳川家康 公、御伴衆 上下残さず、安土 御山へ召し寄せられ、御帷下され、御馳走申すばかり無し。
5月21日、 家康徳川家康 公 御上洛。
「 この度、京都・大坂・奈良・堺、御心静かに御見物なされ、もっとも 」の旨、上意にて、御案内者として 長谷川竹長谷川秀一 、相添えられ、
織田七兵衛信澄織田信澄惟住五郎左衛門丹羽長秀 両人は、
「 大坂にて 家康徳川家康 公の御振舞 申しつけ侯へ 」と、仰せ付けられ、両人、大坂へ参着。

15-29:
明智日向 西国出陣の事
5月26日、 惟任日向守明智光秀 、中国へ出陣のため、坂本をうち立ち、丹波 亀山
( 京都府亀岡市 )
の居城に至り参着。
次日、27日に、亀山より愛宕山へ仏詣。一宿参籠致し、 惟任日向守明智光秀 心持ち御座侯や、神前へ参り、太郎坊の御前にて、2度 3度まで鬮を取りたる由、申し侯。
28日、西坊にて連歌興行、
 発句  惟任日向守明智光秀
ときは今 あめか下知る 五月哉    光秀明智光秀
水上まさる 庭のまつ山          西坊
花落る 流れの末を 関とめて     紹巴
かように、百韵仕り、神前に籠置き、
5月28日、丹波国 亀山へ帰城。

15-30:
信長公 御上洛の事
5月29日、信長公 御上洛。
安土 本城 御留守衆: 津田源十郎・賀藤兵庫頭・野々村又右衛門・遠山新九郎・
世木彌左衛門・市橋源八・櫛田忠兵衛。
二丸 御番衆: 蒲生右兵衛大輔蒲生賢秀木村次郎左衛門木村高重 ・雲林院出羽守・鳴海助右衛門・
祖父江五郎右衛門・ 佐久間與六郎佐久間盛明 ・簑浦次郎右衛門・ 福田三川守福田三河守 ・千福遠江守・
松本為足・ 丸毛兵庫頭丸毛長照 ・鵜飼・前波彌五郎・ 山岡対馬守山岡景佐
これらを仰せ付けられ、御小姓衆 2- 30人召し列れられ、御上洛。
「 直ちに中国へ御発向なさるべきの間、御陣 用意仕り侯て、御一左右次第、罷り立つべき 」の旨、御触れにて、今度は御伴これ無し。
さるほどに、不慮の題目出来侯て、、、

15-31:
明智日向守 逆心の事
6月朔日、夜に入り、丹波国 亀山にて、 惟任日向守光秀明智光秀 、逆心企て、 明智左馬助・
明智次右衛門・藤田伝五・ 斎藤内蔵人佐斎藤利三 、これらとして、談合を相究め、信長を討ち果し、天下主となるべき調儀を究め、亀山より中国へは三草越えを仕り侯。ここを引き返し、東向きに馬の首を並べ、
「 老の山へ上り、山崎より摂津国地を出勢すべき 」の旨、諸卒に申し触れ、談合の者どもに先手を申し付く。

15-32:
信長公 本能寺にて御腹めされ侯事
6月朔日、夜に入り、老の山へ上り、右へ行く道は山崎・天神馬場
( 大阪府高槻市 )
、摂津国 街道なり。左へ下れば、京へ出づる道なり。ここを左へ下り、桂川うち越え、ようやく夜も明け方に罷りなり侯。
既に、信長公 御座所:本能寺 取り巻き、勢衆、五方より乱れ入るなり。
信長も、御小姓衆も「 当座の喧嘩を下々の者ども仕出し侯 」とおぼし召され侯のところ、一向、さは無く、鬨の声を上げ、御殿へ鉄砲を撃ち入れ侯。
「 これは謀叛か! 如何なる者の企てぞ?」と御諚のところに、 森乱森長定 申す様に、
明智明智光秀 が者と見え申し侯 」と言上侯へば、
「 是非に及ばず 」と上意候。
隙をあらせず御殿へ乗り入れ、面御堂の御番衆も御殿へ一手になられ候。
御厩より、 矢代勝介矢代勝介 ・伴太郎左衛門・ 伴正林伴正林村田吉五村田吉五 、斬って出で討ち死。この他、御中間衆:藤九郎・藤八・岩・新六・彦一・彌六・熊・小駒若・虎若・息:小虎若 はじめとして 24人、御厩にて討ち死。
 御殿の内にて討ち死の衆:
森乱森長定 ・森力・森坊、兄弟 3人。小河愛平・高橋虎松・金森義入・菅屋角蔵・魚住勝七・
武田喜太郎・大塚又一郎・狩野又九郎・薄田與五郎・今川孫二郎・落合小八郎・
伊藤彦作・久々利亀・種田亀・山田弥太郎・飯河宮松・祖父江孫・柏原鍋兄弟・
針阿彌・平尾久助・大塚孫三・ 湯淺甚介湯浅直宗 ・小倉松寿。
御小姓衆 懸かり合い懸かり合い、討ち死侯なり。
湯淺甚助湯浅直宗 ・小倉松寿、この両人は、町の宿にて、この由を承り、敵の中に交り入り、本能寺へ懸け込み、討ち死。御台所の口にては、高橋虎松、暫く支え合い、比類なき働きなり。
信長、はじめには御弓を取り合い、2, 3つ遊ばし侯へば、いずれも時刻到来侯て、御弓の絃切れ。その後、御鎗にて御戦いなされ、御肘に鎗疵 被り引き退き、これまで御そばに女ども付き添いて居り申し侯を、
「 女は苦しからず。急ぎ罷り出でよ 」と仰せられ、追い出させられ、既に御殿に火を懸け、焼け来侯。『 御姿を御見せあるまじき 』とおぼし召され侯か、殿中 奥深く入り給い、内よりも御南戸の口を引き立て、無情 御腹召され、

ここでの信長の言葉、「 是非に及ばず 」は、本意の解釈が人によって異なるところである。『信長公記』全体を通して、この言葉は何度も出て来ることから、信長の口癖であったと思われる。なので、太田牛一は伝聞したのか、そうでなければ、「きっと、そう言ったに違いない」と推測したものだろう。
さて、ここでは、何と訳すべきか?
「くそっ、しまった」か、「やっべ、まジかよ」か、「げ! ダメだ、こりゃ」か、
はたまた「しょーもない奴」とかだろうか。。

15-33:
中将信忠卿、二条にて歴々 御生害の事
三位中将信忠織田信忠 、この由、聞かせられ、信長と御一手に御なり候わんとおぼし召され、妙覚寺を出でさせられ侯ところ、 村井春長軒村井貞勝 父子 3人走り向い、 三位中将信忠織田信忠 へ申し上げ侯趣、
「 本能寺は早や落去仕り、御殿も焼け落ち侯。定めてこれへ取り懸け申すべく侯間、二条新御所は御構え良く侯。御立て籠りしかるべし 」と申す。
これによりて直ちに二条へ御取り入り、 三位中将信忠織田信忠 御諚には、
「 軍の巷となるべく侯間、 親王誠仁親王 様・若宮 様、禁中へ御成りしかるべき 」の申、仰せられ、心ならずも御暇請いなされ、内裏へ入れ奉り、ここにて僉議まちまちなり。
「 引き取りて退かれ侯へ 」と、申し上ぐる人もあり。
三位中将信忠織田信忠 御諚には、
「 かようの謀叛に、よも逃し侯はじ。雑兵の手にかかり侯ては後難無念なり。ここにて腹を切るべし 」と仰せられ、御神妙の御働き、哀れなり。
さ候ところに、ほどなく 明智日向明智光秀 が人数 着き懸け侯て、 猪子兵介猪子高就福富平左衛門福富秀勝野々村三十郎野々村正成 ・篠川兵庫・ 下石彦右衛門下石頼重毛利新介毛利良勝赤座七郎右衛門赤座永兼団平八団忠直
坂井越中坂井越中 ・桜木伝七・逆川甚五郎・服部小藤太・小沢六郎三郎・服部六兵衛・
水野九蔵・山口半四郎・ 塙伝三郎塙伝三郎斎藤新五斎藤利治河野善四郎・寺田右衛門、この他、各々、斬って出で斬って出で、伐り殺し、斬り殺され、我れ劣らじと相戦い、互いに知っつ知らるる中の働きなれば、切っ先より火焔をふらし、誠に張良が才を振いて樊噌が勢にも劣るべからず。思い思いの働きあり。
さるほどに、小沢六郎三郎、烏帽子屋の町に寄宿、これあり。信長公 御生害の由承り、
「 この上は、 三位中将信忠卿織田信忠 御座所へ参り、御相伴仕るべき 」の由、申され候。亭主をはじめ、隣家の者ども走り寄り、
「 二条の御構えも、早、取り巻き侯間、御一手なるべからず侯。所詮、隠し置き助け申すべく候間、罷り退かれ侯へ 」と、色々意見侯へども、同心なく、味方の体にもてなし、纏を打ちかづき、町通り二条へ上られ侯。亭主・隣家の者ども、名残惜しく存知、後を慕いて見送り侯へば、
御構えに走り入り、 中将信忠卿織田信忠 へ御目に懸かり、その後、面の御門を固め、いずれも申し合せ、斬って出で斬って出で、面々の働き、なかなか是非に及ばず。
かよう侯ところ、御敵、 近衛近衛前久 殿 御殿へ上り、御構えを見下し、弓鉄砲を以て撃ち入り、手負死人 余多出来、次第次第に無人になり、既に御構えに乗り入り、火を懸け侯。
三位中将信忠卿織田信忠 の御諚には、
「 御腹召され候て後、縁の板を引き放ち給いて、後には、この中へ入れ、骸骨を隠すべき 」の旨、仰せられ、御介錯の事、鎌田新介 に仰せ付けられ、御一門歴々・宗従の家子郎等、甍を並べて討ち死。算を乱したる有様 御覧じ、不便におぼし召さる。御殿も間近く焼け来たる。
この時、御腹召され、鎌田新介、冥加なく御頸を打ち申す。御諚の如くに、御死骸を隠し置き、無常の煙となし申し、哀れなる風情、目も当てられず。
 御討ち死の衆:
津田又十郎織田長利津田源三郎織田勝長津田勘七織田勘七郎津田九郎二郎織田元秀 ・津田小藤次・ 菅屋九右衛門菅屋長頼
菅屋勝次郎・ 猪子兵介猪子高就村井春長軒村井貞勝 ・村井清次・ 村井作右衛門村井貞成 ・服部小藤太・
永井新太郎・ 野々村三十郎野々村正成 ・篠川兵庫頭・ 下石彦右衛門下石頼重 ・下方彌三郎・春日源八郎・
団平八団忠直 ・桜木伝七・寺田善右衛門・ 塙伝三郎塙伝三郎 ・雑村彦次郎・ 毛利新介毛利良勝 ・毛利岩・
斎藤新五斎藤利治坂井越中坂井越中赤座七郎右衛門赤座永兼 ・桑原助六・桑原九蔵・逆川甚五郎・
山口小弁・河野善四郎・村瀬虎・佐々清蔵・ 福富平左衛門福富秀勝 ・小沢六郎三郎・
土方次郎兵衛・石田孫左衛門・宮田彦次郎・浅井清蔵・高橋藤・小河源四郎・
神戸二郎作・大脇喜八・犬飼孫三・石黒彦二郎・越智小十郎・平野新左衛門・
平野勘右衛門平野勘右衛門 ・水野宗介・井上又蔵・松野平介・飯尾毛介・賀藤辰・山口半四郎・
竹中彦八郎・河崎與介・村井新右衛門・服部六兵衛・水野九蔵。
先年、 安東伊賀守安藤守就 、不届き働きありて、追い払われ侯。 → #13-11
その時、 伊賀守安藤守就 内に 松野平介 と申す者、侯ひき。勇士にて、こざかしき者の由、聞こし召し及ばれ、召し出だされ、一廉御領中 下され、外聞面目を播し侯。
今度、松野平助、ほど遠くこれありて、時刻過ぎて、妙顕寺へ走り来候ところ、
斎藤内蔵佐斎藤利三 、連々 知音たるに依りて、 内蔵佐斎藤利三 方より妙顕寺へ使者を差し越し、
「 早々罷り出で、 明智日向守明智光秀 に礼を申し侯へ。何事も苦しかるまじき 」と申し越し侯ところ、
平介、信長公へ召し出だされ侯 右の子細、各寺僧の衆へ、条々申し聞かせ、
「 かたじけなくも、過分の御知行下され、御用にも罷り立たず。あまつさえ、御敵へ降参申し、主と崇むべき事、無念なる 」の由申し、知音の方へ送状を書き置き、追腹仕り候。誠に誠に、”命は義に依りて軽し” と申す本文、この節侯なり。
ここにまた、土方次郎兵衛 と申す者、譜代の御家人なり。御生害の折節、上京 柳原にこれありて、時刻を移し、この由承り、
「 その座に至りて御相伴申さざること、無念なり。追腹仕るべき 」の由申し、知音の方へ文を書き送り、召使侯 下人等に武具・腰刀・衣装、形見に取らせ、尋常に追腹仕り、名誉是非なき次第なり。
6月 2日、辰刻(8:00)、信長公 御父子・御一門、歴々討ち果し、 明智日向明智光秀 申す様に、
「 落人あるベく侯間、家々を捜せ 」と申し付け、諸卒、洛中の町屋
[ちょうおく]
にうち入りて、落人を捜す事、目も当てられず。都の騒動、斜ならず。
その後、江州の御人数、切り上げ候はんや事を存知、その日、京より直ちに勢田
( 滋賀県大津市 )
へうち越し、山岡美作山岡景隆山岡対馬山岡景佐 兄弟、
「 人質出だし、 明智明智光秀 と同心仕り侯へ 」と、申し侯のところ、
「 信長公 御厚恩 浅からず。かたじけなきの間中、同心 申すまじき 」の由侯て、勢田の橋を焼き落し、山岡兄弟 居城に火を懸け、山中へ引き退き候。
ここにて手を失い、勢田の橋詰めに足がかりをこしらえ、人数入れ置き、 明智日向守明智光秀 、坂本へうち帰り侯。

ここまで詳細に戦死者の判明が出来ていたのに、信長と信忠の死体が見付からなかったというのは変である。長七唱が源頼政の首を石に括り付けて川の深い所に沈めたように、
参考: → 平家物語「宮御最期」
ともかく敵に首は渡さないというのが最期の抵抗であるとしても、それはあり得ない。 明智方で、諫言による自害といった形を取ったことにして、表に出さなかっただけでは無かろうか?

15-34:
江州安土城 御留守居衆の有様の事
6月 2日、巳刻(10:00)、安土には風の吹く様に、 明智日向守明智光秀 謀叛にて、
信長公・ 中将信忠卿織田信忠 御父子・御一門、その他、歴々、御腹召され侯由、御沙汰これあり。上下、この由承り、『 言葉に出して、大事 』と存知、はじめのほどは目と目を見合せ、騒ぎ立つ事、大方ならず。
さ候のところ、京より御下男衆 逃げ下り、いよいよ必定したり。身の介錯に取り紛れ、泣き悲しむ者も無し。日頃の蓄えし重宝の道具にも相構はず、家々をうち拾て、妻子ばかりを引き列れ引き列れ、美濃・尾張の人々は、本国を心ざし、思い思いに遁れたり。
その日、2日の夜に入り、 山崎源太左衛門山崎秀家 は自焼して、安土を山崎の居城へ罷り退かれ、いよいよ騒ぎ立つ事、正体無し。
蒲生右兵衛大輔蒲生賢秀 、この上は、御上﨟衆・御子様達、まず日野谷まで引き退き候はんに、談合を相究め、子息: 蒲生忠三郎蒲生氏郷 を、日野
( 滋賀県蒲生郡 )
より腰越
( 滋賀県蒲生郡 )
まで御迎えのため呼び越し、牛馬・人足等、日野より召し寄せ、
6月 3日、未刻(14:00)、「 退かせられ侯へ 」と申され侯。
御上﨟衆 仰せらるる様、
「 とても安土、うち捨て退かせられ侯間、御天主にこれある、金銀・太刀・刀を取り、火を懸け、罷り退き侯へ 」と仰せられ侯ところ、 蒲生右兵衛大輔蒲生賢秀 、希代無欲の存分あり。
「 信長公、年来、御心を尽され、金銀を鏤め、天下無双の御屋形作り、 蒲生蒲生賢秀 覚悟として焼き払い、空く赤土となすべき事、冥加なき次第なり。その上、金銀・御名物 乱取り致すべき事、都鄙の嘲弄、如何侯なり 」
安土御構え、 木村次郎左衛門木村高重 に渡しおき、それぞれに御上﨟衆へ警固を申し付け、退き申され候。端々の御衆は、徒歩裸足にて足は紅に染りて、哀れなる風情、目も当てられず。

15-35:
家康公、和泉堺より引き取り退かれし事
しかるに、 徳川家康徳川家康 公 ・ 穴山梅雪穴山梅雪長谷川竹長谷川秀一 、和泉の堺にて、信長公 御父子 御生害の由承り、取る物も取り敢えず、宇治田原
( 京都府綴喜郡 )
越えにて退かれ侯ところ、一揆どもさし合い、 穴山梅雪穴山梅雪 生害なり。 徳川徳川家康 公 ・ 長谷川竹長谷川秀一 、桑名
( 三重県桑名市 )
より舟に召され、熱田湊へ船着なり。

本能寺の変について「家康黒幕説」があるが、ココで織田の官僚である長谷川秀一が同行しており - 彼は、その後、豊臣秀吉に仕えた - この時、家康が少しでも不穏な動きをしていれば容易にバレたであろう。また、その後も隠し通せるものでは無かったはずである。
そもそも、やっと積年の大敵であった武田氏を滅亡させたのが、ほんの3か月前。そんな時期に家康を窮地におとしめて、再度、東国に大きな混乱をもたらすことを、信長が行うはずは無かろうものに、と考える。




さて、最後に、結局、明智光秀の謀反の理由は何だったのか? 諸説いろいろあって、どれも、それぞれ説得性があるものである。
信長自身「人生 50年」と謡って、ほぼ、その年限で一生を終えた。少し年長の光秀も、気持ち的には峠を越えた感があったであろう。しかしながら、まだまだ、中国・四国・関東・九州と、これまでの経緯からすると、同様の大激戦と大悲劇が間違いなく予想された。
「殿、この辺りで、もう、お止めくだされ」と言いたかったのか。
この書の中で何度も出て来る「時刻到来して」、起こるべくして起きたものであろう。






この巻の登場人物と他巻リンク

織田信長 [48歳]

青地元珍 [22] あおち もとたか

赤座永兼 [--] あかざ ながかね

明智光秀 [54] あけち みつひで

 織田の家臣。惟任日向守
 15-05: 木曾義政 忠節の事
 15-14: 人数備えの事
 15-25: 家康公・穴山梅雪 御上...
 15-26: 羽柴筑前守秀吉、備中...
 15-29: 明智日向 西国出陣の事
 15-31: 明智日向守 逆心の事
 15-32: 信長公 本能寺にて御腹...
 15-33: 中将信忠卿、二条にて...
 15-34: 江州安土城 御留守居衆...
 2-01: 六条合戦の事
 3-04: 越前 手筒山攻め落せらる...
 3-10: 志賀御陣の事
 4-05: 叡山御退治の事
 5-01: 武者小路 御普請の事
 5-03: 奇妙様 御具足初めに 虎後...
 6-02: 公方様御謀叛 付17ヶ条
 6-03: 石山・今堅田 攻められ候...
 6-07: 公方様 真木島に至りて御...
 6-08: 真木島にて御降参 公方様...
 6-09: 大船にて高島へ御働き、木...
 6-11: 阿閉 謀叛の事
 8-03: 河内国新堀城攻め干され...
 8-06: 禁中において親王様 御鞠...
 8-07: 越前御進発、賀・越 両国...
 9-03: 原田備中、御津寺へ砦 討...
 10-01: 雑賀御陣の事
 10-03: 御名物召し置かるるの事
 10-08: 片岡の城 攻め干さる事
 10-09: 信貴城 攻め落さるるの事
 11-01: 御茶の湯の事
 11-06: 高倉山西国陣の事
 11-08: 播磨神吉城攻めの事
 11-13: 荒木摂津守 逆心を企て...
 11-15: 丹波国波多野館取り巻...
 12-01: 摂津国 御陣の事
 12-05: 丹波国 波多野兄弟 張...
 12-06: 赤井悪右衛門 退参の事
 12-12: 謀書の事
 12-13: 伊丹城 謀叛の事
 12-18: 伊丹城 相果たし、御成...
 13-08: 因幡・伯耆両国に至り...
 13-11: 佐久間・林佐渡・丹羽...
 14-01: 御爆竹の事
 14-02: 御馬揃えの事
 14-07: 8月朔日 御馬揃えの事

阿閉貞征 [54] あつじ さだゆき

穴山梅雪 [41] あなやま ばいせつ

安藤守就 [79] あんどう もりなり

安中景繁 [--] あんなか かげしげ

飯羽間右衛門 [--] いいばさま うえもん

池田恒興 [46] いけだ つねおき

池田秀雄 [54] いけだ ひでお

石川数正 [49] いしかわ かずまさ

一色義定 [--] いっしき よしさだ

 義道の子。一色左京権大夫
 15-05: 木曾義政 忠節の事
 14-02: 御馬揃えの事

稲葉一鉄 [67] いなば いってつ

稲葉刑部 [--] いなば ぎょうぶ

稲葉貞通 [36] いなば さだみち

稲葉典通 [16] いなば のりみち

猪子高就 [36] いのこ たかなり

今福昌和 [--] いまふく まさかず

宇喜多直家 [53] うきた なおいえ

小笠原信嶺 [35] おがさわら のぶみね

 信州の武将。小笠原掃部大輔
 15-05: 木曾義政 忠節の事
 15-06: 信州 高遠の城、中将信...

小川祐忠 [--] おがわ すけただ

織田勝長 [--] おだ かつなが

織田勘七郎 [--] おだ かんひちろう

織田長利 [--] おだ ながとし

織田長益 [36] おだ ながます

織田信澄 [24] おだ のぶすみ

織田信雄 [24] おだ のぶかつ

織田信包 [39] おだ のぶかね

織田信孝 [24] おだ のぶたか

織田信忠 [27] おだ のぶただ

 信長の嫡男。三位中将
 15-01: 御出仕の事
 15-02: 御爆竹の事
 15-03: 伊勢大神宮 上遷宮の事
 15-05: 木曾義政 忠節の事
 15-06: 信州 高遠の城、中将信...
 15-08: 武田四郎 甲州 新府 退...
 15-09: 信長公 御乱入の事
 15-10: 武田四郎 父子 生害の事
 15-12: 武田典厩 生害、下曾禰...
 15-18: 諸勢 帰陣の事
 15-19: 御国割りの事
 15-20: 恵林寺 御成敗の事
 15-22: 信州 川中島表、森勝蔵...
 15-25: 家康公・穴山梅雪 御上...
 15-33: 中将信忠卿、二条にて...
 15-34: 江州安土城 御留守居衆...
 5-03: 奇妙様 御具足初めに...
 6-11: 阿閉 謀叛の事
 7-09: 河内長島一篇に仰せ付けら...
 8-03: 河内国新堀城攻め干され...
 8-04: 三州 長篠 御合戦の事
 8-12: 菅九郎殿 岩村 御存分に仰...
 8-13: 菅九郎殿 御位の事
 9-01: 安土 御普請の事
 10-01: 雑賀御陣の事
 10-07: 松永謀叛 並びに 人質...
 10-09: 信貴城 攻め落さるるの事
 10-10: 中将信忠御位の事
 10-14: 中将信忠へ御名物11種...
 11-01: 御茶の湯の事
 11-03: 回禄せし御弓衆 御折檻...
 11-06: 高倉山西国陣の事
 11-08: 播磨神吉城攻めの事
 11-10: 小相撲の事
 11-13: 荒木摂津守 逆心を企て...
 11-15: 丹波国波多野館取り巻...
 12-01: 摂津国 御陣の事
 12-03: 二条殿・烏丸殿・菊庭...
 12-05: 丹波国 波多野兄弟 張...
 12-06: 赤井悪右衛門 退参の事
 12-07: 荒木 伊丹城・妻子捨て...
 12-14: 氏政 甲州表へ働きの事
 12-18: 伊丹城 相果たし、御成...
 13-05: 阿賀の寺内 申し付くる...
 13-08: 因幡・伯耆両国に至り...
 13-09: 大坂退散の事
 14-01: 御爆竹の事
 14-02: 御馬揃えの事
 14-06: 因幡国 鳥取城 取り詰...
 14-07: 8月朔日 御馬揃えの事
 14-11: 伊賀国へ 信長 御発向...

織田信張 [55] おだ のぶはる

織田孫十郎 [--] おだ まごじゅうろう

織田元秀 [--] おだ もとひで

 織田の武将。織田九郎二郎
 15-20: 恵林寺 御成敗の事
 15-33: 中将信忠卿、二条にて...

小幡信真 [42] おばた のぶざね

 上野の武将。武田→ 織田へ
 15-09: 信長公 御乱入の事
 15-18: 諸勢 帰陣の事

下石頼重 [--] おろし よりしげ

梶原景久 [--] かじわら かげひさ

金森長近 [56] かなもり ながちか

狩野永徳 [39] かのう えいとく

蒲生氏郷 [26] がもう うじさと

蒲生賢秀 [48] がもう たかひで

河尻秀隆 [55] かわじり ひでたか

木曾義昌 [42] きそ よしまさ

吉川元春 [52] きっかわ もとはる

久徳左近兵衛 [--] きゅうとく さこんひょうえ

京極高次 [19] きょうごく たかつぐ

木村高重 [--] きむら たかしげ

桑原助六 [--] くわばら すけろく

後藤高治 [--] ごとう たかはる

近衛前久 [45] このえ まえひさ

小早川隆景 [49] こばやかわ たかかげ

斎藤利三 [48] さいとう としぞう

斎藤利治 [41] さいとう としはる

坂井越中 [--] さかい えっちゅう

酒井忠次 [55] さかい ただつぐ

佐久間信栄 [26] さくま のぶひで

佐久間信盛 [没] さくま のぶもり

 織田の家臣。佐久間右衛門
 15-02: 御爆竹の事
 0-09: 備後守 病死の事
 0-18: 勘十郎殿 林 柴田 御敵の事
 0-23: 鳴海之城へ御砦の事
 0-24: 今川義元 討ち死の事
 1-04: 信長御入洛十余日の内に...
 2-06: 阿坂の城 退散の事
 3-04: 越前 手筒山攻め落せらる...
 3-06: 落窪合戦の事
 3-07: たけくらべ・かりやす砦の事
 3-10: 志賀御陣の事
 4-03: 大田口合戦の事
 4-04: 志むら攻め干さるるの事
 5-02: 交野へ 松永 砦仕り侯て 追...
 5-03: 奇妙様 御具足初めに 虎後...
 5-04: 味方ヶ原合戦の事
 6-05: 百済寺伽藍 御放火の事
 6-07: 公方様 真木島に至りて御...
 6-08: 真木島にて御降参 公方様...
 6-11: 阿閉 謀叛の事
 7-04: 蘭著待 切り取らるるの事
 7-05: 佐々木承禎、石部城退散の事
 7-09: 河内長島一篇に仰せ付けら...
 8-03: 河内国新堀城攻め干され...
 8-07: 越前御進発、賀・越 両国...
 8-14: 御家督 御譲りの事
 9-04: 御後巻 再三 御合戦の事
 9-05: 西国より大船を催し 木津...
 10-01: 雑賀御陣の事
 10-02: 内裡 御築地の事
 10-03: 御名物召し置かるるの事
 10-09: 信貴城 攻め落さるるの事
 11-06: 高倉山西国陣の事
 11-08: 播磨神吉城攻めの事
 11-11: 大船 堺津にて御見物の事
 11-13: 荒木摂津守 逆心を企て...
 11-15: 丹波国波多野館取り巻...
 13-01: 播州 三木落居の事
 13-03: 大坂退散 御請け誓紙の事
 13-09: 大坂退散の事
 13-11: 佐久間・林佐渡・丹羽...

佐久間盛明 [--] さくま もりあき

 織田の武将。佐久間與六郎
 15-30: 信長公 御上洛の事
 10-07: 松永謀叛 並びに 人質...

佐久間盛政 [28] さくま もりまさ

佐々成政 [46] さっさ なりまさ

誠仁親王 [30] さねひと しんのう

塩河吉大夫 [--] しおかわ きちだゆう

柴田勝家 [60] しばた かついえ

 織田の家臣。柴田修理亮
 15-11: 越中富山の城、神保越...
 15-12: 武田典厩 生害、下曾禰...
 0-09: 備後守 病死の事
 0-12: 深田松葉 両城 手替わりの事
 0-15: 柴田権六 中市場 合戦の事
 0-18: 勘十郎殿 林 柴田 御敵の事
 0-25: 家康公 岡崎の御城へ...
 1-04: 信長御入洛十余日の内に...
 2-06: 阿坂の城 退散の事
 3-04: 越前 手筒山攻め落せらる...
 3-06: 落窪合戦の事
 3-07: たけくらべ・かりやす砦の事
 3-10: 志賀御陣の事
 4-03: 大田口合戦の事
 4-04: 志むら攻め干さるるの事
 5-02: 交野へ 松永 砦仕り侯て 追...
 5-03: 奇妙様 御具足初めに...
 6-03: 石山・今堅田 攻められ候...
 6-05: 百済寺伽藍 御放火の事
 6-07: 公方様 真木島に至りて御...
 6-11: 阿閉 謀叛の事
 7-04: 蘭著待 切り取らるるの事
 7-09: 河内長島一篇に仰せ付けら...
 8-03: 河内国新堀城攻め干され...
 8-07: 越前御進発、賀・越 両国...
 10-06: 柴田 北国 相働くの事
 10-09: 信貴城 攻め落さるるの事
 12-06: 赤井悪右衛門 退参の事
 12-16: 親王様 二条御新造へ行...
 13-04: 能登・加賀両国、柴田...
 13-05: 阿賀の寺内 申し付くる...
 13-11: 佐久間・林佐渡・丹羽...
 13-12: 賀州一揆 歴々 生害の事
 14-01: 御爆竹の事
 14-02: 御馬揃えの事
 14-06: 因幡国 鳥取城 取り詰...

下曾根賢範 [--] しもそね たかのり

進藤賢盛 [--] しんどう たかもり

神保長住 [--] じんぼう ながずみ

菅屋長頼 [--] すがや ながより

鈴木重秀 [--] すずき しげひで

関可平次 [--] せき かへいじ

関長安  [30]  せき ながやす

千職坊  [--] せんじゅぼう

多賀常則 [--] たが つねのり

高山右近 [29] たかやま うこん

滝川一益 [57] たきがわ かずます

武井夕庵 [--] たけい せきあん

武田勝頼 [36] たけだ かつより

武田信玄 [没] たけだ しんげん

武田信勝 [15] たけだ のぶかつ

武田信廉 [50] たけだ のぶかど

武田信豊 [33] たけだ のぶとよ

竹中重隆 [20] たけなか しげたか

 半兵衛の弟。竹中久作
 15-14: 人数備えの事
 12-05: 丹波国 波多野兄弟 張...

団忠直  [--] だん ただなお

塚本小大膳 [--] つかもと こだいぜん

土橋守重 [--] つちはし もりしげ

筒井順慶 [33] つつい じゅんけい

遠山友忠 [--] とおやま ともただ

 苗木城主。苗木久兵衛
 15-05: 木曾義政 忠節の事
 3-10: 志賀御陣の事

徳川家康 [39] とくがわ いえやす

伴正林  [21] とも しょうりん

中川清秀 [38] なかがわ きよひで

永田正貞 [--] ながた まささだ

西尾義次 [52] にしお よしつぐ

 織田の武将。西尾小左衛門
 15-23: 信長公 甲州より御帰陣...
 9-01: 安土 御普請の事

仁科盛信 [25] にしな もりのぶ

丹羽長秀 [47] にわ ながひで

 織田の家臣。惟住五郎左衛門
 15-14: 人数備えの事
 15-19: 御国割りの事
 15-23: 信長公 甲州より御帰陣...
 15-25: 家康公・穴山梅雪 御上...
 15-28: 家康公・穴山梅雪、奈...
 0-05: 景清 あざ丸刀の事
 0-40: 加治田之城 御味方に参る事
 0-41: 犬山両おとな 御忠節の事
 0-42: 濃州 伊木山へ御上りの事
 0-43: 堂洞砦 攻めらるの事
 1-04: 信長御入洛十余日の内に...
 2-05: 名物 召され置きの事
 2-06: 阿坂の城 退散の事
 3-02: 名物 召し置かるるの事
 3-04: 越前 手筒山攻め落せらる...
 3-07: たけくらべ・かりやす砦の事
 3-08: 姉川合戦の事
 3-10: 志賀御陣の事
 4-01: 佐和山城 渡し進上の事
 4-04: 志むら攻め干さるるの事
 4-06: 御修理造り畢るの事
 5-01: 武者小路 御普請の事
 5-03: 奇妙様 御具足初めに...
 6-03: 石山・今堅田 攻められ候...
 6-05: 百済寺伽藍 御放火の事
 6-07: 公方様 真木島に至りて御...
 6-11: 阿閉 謀叛の事
 7-02: 前波生害、越前一揆蜂起の事
 7-04: 蘭著待 切り取らるるの事
 7-09: 河内長島一篇に仰せ付けら...
 8-01: 御分国 道作り 仰せ付けら...
 8-02: 公家領 徳政にて仰せ付け...
 8-03: 河内国新堀城攻め干され...
 8-04: 三州 長篠 御合戦の事
 8-06: 禁中において親王様 御鞠...
 8-07: 越前御進発、賀・越 両国...
 9-01: 安土 御普請の事
 9-04: 御後巻 再三 御合戦の事
 10-01: 雑賀御陣の事
 10-03: 御名物召し置かるるの事
 10-06: 柴田 北国 相働くの事
 10-07: 松永謀叛 並びに 人質...
 10-09: 信貴城 攻め落さるるの事
 10-13: 三州吉良へ御鷹野の事
 10-14: 中将信忠へ御名物11種...
 11-01: 御茶の湯の事
 11-06: 高倉山西国陣の事
 11-08: 播磨神吉城攻めの事
 11-13: 荒木摂津守 逆心を企て...
 11-14: 安部二右衛門 御忠節の事
 11-15: 丹波国波多野館取り巻...
 12-01: 摂津国 御陣の事
 12-03: 二条殿・烏丸殿・菊庭...
 12-05: 丹波国 波多野兄弟 張...
 12-09: 宇治橋 取り懸けの事
 12-10: 北畠中将殿 御折檻状の事
 12-18: 伊丹城 相果たし、御成...
 13-01: 播州 三木落居の事
 13-05: 阿賀の寺内 申し付くる...
 14-02: 御馬揃えの事
 14-03: 高天神 干殺し 歴々 討...
 14-04: 和泉 巻尾寺 破滅の事
 14-06: 因幡国 鳥取城 取り詰...
 14-09: 能登・越中 城々破却の事
 14-10: 伊賀国、三介殿に仰せ...
 14-11: 伊賀国へ 信長 御発向...

野々村正成 [46] ののむら まさなり

羽柴秀吉 [45] はしば ひでよし

 織田の家臣。羽柴筑前守
 15-02: 御爆竹の事
 15-05: 木曾義政 忠節の事
 15-13: 中国表 羽柴筑前 働き...
 15-26: 羽柴筑前守秀吉、備中...
 1-04: 信長御入洛十余日の内に...
 2-06: 阿坂の城 退散の事
 3-04: 越前 手筒山攻め落せらる...
 3-07: たけくらべ・かりやす砦の事
 3-08: 姉川合戦の事
 3-10: 志賀御陣の事
 4-02: 箕蒲合戦の事
 5-03: 奇妙様 御具足初めに 虎後...
 6-07: 公方様 真木島に至りて御...
 6-08: 真木島にて御降参 公方様...
 6-10: 岩成 討ち果たされ候事
 6-11: 阿閉 謀叛の事
 7-02: 前波生害、越前一揆蜂起の事
 7-10: 樋口夫婦 御生害の事
 8-07: 越前御進発、賀・越 両国...
 9-01: 安土 御普請の事
 9-04: 御後巻 再三 御合戦の事
 10-01: 雑賀御陣の事
 10-03: 御名物召し置かるるの事
 10-06: 柴田 北国 相働くの事
 10-09: 信貴城 攻め落さるるの事
 10-10: 中将信忠御位の事
 10-12: 但馬・播磨、羽柴に申...
 10-13: 三州吉良へ御鷹野の事
 11-01: 御茶の湯の事
 11-04: 磯野丹波・磯貝新左衛...
 11-06: 高倉山西国陣の事
 11-07: 洪水の事
 11-08: 播磨神吉城攻めの事
 11-13: 荒木摂津守 逆心を企て...
 11-15: 丹波国波多野館取り巻...
 12-03: 二条殿・烏丸殿・菊庭...
 12-05: 丹波国 波多野兄弟 張...
 12-07: 荒木 伊丹城・妻子捨て...
 12-14: 氏政 甲州表へ働きの事
 13-01: 播州 三木落居の事
 13-05: 阿賀の寺内 申し付くる...
 13-08: 因幡・伯耆両国に至り...
 13-11: 佐久間・林佐渡・丹羽...
 14-03: 高天神 干殺し 歴々 討...
 14-06: 因幡国 鳥取城 取り詰...
 14-07: 8月朔日 御馬揃えの事
 14-12: 因幡国 鳥取 果て口の事
 14-13: 伯耆国 南条表 発向の事
 14-14: 淡路島 申し付けらるる...
 14-15: 悪党 御成敗の事

長谷川宗仁 [43] はせがわ そうにん

長谷川秀一 [--] はせがわ ひでかず

長谷川與次 [--] はせがわ よじ

蜂屋頼隆 [48] はちや よりたか

馬場昌房 [44] ばば まさふさ

 信春の子。武田の家臣。馬場美濃守
 15-05: 木曾義政 忠節の事
 15-06: 信州 高遠の城、中将信...

原政茂  [--] はら まさしげ

塙伝三郎 [--] ばん でんざぶろう

平井久右衛門 [--] ひらい きゅうえもん

平野勘右衛門 [--] ひらの かんうえもん

平野定久 [--] ひらの さだひさ

福富秀勝 [--] ふくずみ ひでかつ

福田三河守 [--] ふくだ みかわのかみ

不破直光 [--] ふわ なおみつ

北条氏政 [44] ほうじょう うじまさ

保科正直 [40] ほしな まさなお

細川忠興 [19] ほそかわ ただおき

細川藤孝 [47] ほそかわ ふじたか

堀秀政  [29] ほり ひでまさ

前田利家 [44] まえだ としいえ

松井友閑 [--] まつい ゆうかん

丸毛長照 [--] まるも ながてる

水野忠重 [41] みずの ただしげ

 信元の弟。織田の武将。水野宗兵衛
 15-05: 木曾義政 忠節の事
 15-23: 信長公 甲州より御帰陣...

水野直盛 [--] みずの なおもり

三好康長 [--] みよし やすなが

村井貞勝 [62] むらい さだかつ

村井貞成 [--] むらい さだなり

村田吉五 [--] むらた きちご

毛利輝元 [27] もうり てるもと

毛利長秀 [41] もうり ながひで

毛利良勝 [--] もうり よしかつ

森長定  [17] もり ながさだ

森長可  [24]  もり ながよし

矢代勝介 [--] やだい かつすけ

矢部家定 [--] やべ いえさだ

山岡景佐 [51] やまおか かげすけ

山岡景隆 [56] やまおか かげたか

山岡景宗 [43] やまおか かげむね

山崎秀家 [35] やまざき ひでいえ

湯浅直宗 [37] ゆあさ なおむね

六角義定 [35] ろっかく よしさだ