■ 巻第四
1180(治承四)年 1月~5月
厳島御幸 ( いつくしま ごこう )
年が明け、1180(治承四)年2月21日、
高倉天皇 は
清盛 によって帝位から降ろされ、
皇太子 が天皇になった。
三種の神器* も移された。
安徳天皇 は3歳。早すぎる無茶な譲位だと人々はささやきあったが、
平時忠 は「外国にも日本にも先例はある」と言った。安徳天皇 の即位により、清盛 と
時子 の夫婦は、今や外祖父・外祖母である。
同年3月、
高倉上皇 は譲位後の御幸始めが、先例の無いことであるが、厳島神社となった。出立前に
後白河法皇 を訪ねると、20歳になった 高倉上皇 の姿は、故 建春門院 にとても似ていて、後白河法皇 は涙するのであった。
還御 ( かんぎょ )
3月26日、
高倉上皇 は厳島神社に到着。
三井寺の
公顕僧正 を導師として法会が行われる。29日に帰還の途に。
※
木村武山 『 高倉帝厳島御幸 』
1896 (M29) ■ 東京藝術大学大学美術館
そうして、4月22日に
安徳天皇 即位の儀。
中宮 徳子 が抱いたまま玉座に着く。
源氏揃 ( げんじ ぞろえ )
後白河法皇 の第2皇子に 30歳になる
以仁王 という人がいた。才覚に優れ天皇に即位してもいいはずの人だったが、故 建春門院 に排除され、表に出ていなかった。
この人に、
源頼政 が、ある夜、おそろしい提案をする。「今の世、平家を憎まない者はおりません。謀反を起こして平家を滅ぼし、宮こそ天皇になるべきです。令旨を下されたら悦び参ずる源氏が多数おります」と。
そして、次に、全国の源氏の名前をとうとうと挙げていった。
以仁王 はすぐには返事しなかった。が、人相師の 藤原維長(これなが)も「即位される相です」と占ったこともあり、とうとう「これは
天照大御神* のお告げかもしれない」と思い立つ。熊野の 源義盛 を呼び出して
源行家 と改名させ、令旨の使いに東国へ遣わしたのであった。4月28日、 行家 は京を出立し、順に令旨をふれて回った。こうして、源頼朝 や 木曾義仲 にも令旨が伝わる。
鼬之沙汰 ( いたちの さた )
後白河法皇 は「自分も遠国へ流されるのだろうか」と不安な中、鳥羽殿で過ごしていた。5月12日、おびただしい数のイタチが走り騒いだ。「これは何の前触れか?」と、
源仲兼 を遣わせて陰陽師に占わせると「悦びのことと、嘆きのことが起きる」という結果であった。その通り、その翌日、後白河法皇 は鳥羽殿から出ることが許され都へ還る。
そんな時、熊野の
湛増 から
以仁王 謀反の報が都へ伝わり、
平宗盛 が慌てて福原に伝えると、
清盛 は、即上京し「以仁王をひっ捕らえて土佐へ流せ」と怒った。
信連 ( のぶつら )
5月15日、
以仁王 は、この夜、身に迫る危険も知らず、雲間の月を眺めていた。そこに
源頼政 の使者が急ぎ文を持ってやって来る。「謀反がすでに露呈。検非違使の役人たちが来るので、急ぎ三井寺にお入りください」と。以仁王 は女装して御所を抜け出した。
この御所の侍
長谷部信連( はせべ のぶつら )は留守宅で、以仁王 の秘蔵の笛=「小枝」が置き忘れられていることに気づく。あわてて追いつき渡すと、以仁王 は「私が死んだら、この笛を棺桶に入れてくれ」と言った。
御所へ戻った 信連 は
源兼綱、
源光長 らの検非違使に取り囲まれ、死闘の上、針で縫うかのように太刀で腿を貫かれて生け捕りにされる。
平宗盛 が「尋問の上、斬首」と指示するも、信連は「以仁王がどこに居られるのか知らぬ。たとえ知っていたとしても、侍が一度言わないと決めたことは、詰問されようとも言わぬ」と告げた後、黙秘を続けた。平家の侍たちは「天晴れな剛の者よ」と感心し、
清盛 も流罪でよしとした。信連は伯耆の日野へ流さた。
彼は、その後生きながらえ、鎌倉時代となり、
源頼朝 から能登の国を褒美に賜る。
競 ( きおう )
こうして、
以仁王 は16日の明け方、三井寺に入った。
謀反の知らせを聞いた
後白河法皇 は、先日のイタチ騒ぎで占いに出た「嘆きのこと」とは、この事だったのか、と悟る。
そもそも
源頼政 がこんなことをしでかしたのかというと、それは、
平宗盛 がガキのような、しょ~もない事をやったからである。頼政 の嫡子
源仲綱 の許に、他に並びなき名馬がいた。名前を「木(こ)のした」と云う。宗盛 は 仲綱 に、その名馬を見たいと何度も何度も所望し、ようやく手に入れると、その馬の腹に「仲綱」と焼き印させ、その後「なかつなぁ、なかつなぁ~」と呼んでからかったのである。源仲綱 本人はそれを伝え聞き、震えおののき憤る。
こんなふざけた事に、頼政 は、当時、もう、齢80に近い相当な爺さんであったにもかかわらず、到底我慢がならなかったのであろう。
5月16日の夜、源頼政 は 仲綱 らと共に三井寺に入った。
頼政 の侍に、
源三競( げんぞう きおう )という強者がいた。頼政 の許に馳せ参じるのに遅れ、捕らえられた。宗盛 から「平家に就くか、 朝敵の頼政に就くか?」と問われると、「殿に奉公いたします」と答えたため、平家に加えられた。
その後、競が「三井寺の敵を討ち取りたく、ついては、よい馬を一頭お貸し頂きたい」と願い出ると、平宗盛 は秘蔵の「煖廷」(なんりょう)という名馬を与えた。端から平家に付く気などない 競 は三井寺へ向かい、到着するや「『木の下』の代わりに、六波羅の『煖廷』を取って参りましたぁ!」と報告する。仲綱 は大喜びして、すぐに尾とたてがみを切り、焼き印をして、その夜のうちに六波羅へ返した。宗盛 が見ると、そこには「昔 煖廷、今 宗盛入道」という焼き印がしてあった。宗盛 は「生け捕りにして、ノコギリ引きにしたる!」と地団駄踏んで怒った。
山門牒状 ( さんもん ちょうじょう )
三井寺は、これを機に仏力・神力共同して平家を成敗すべきと、比叡山延暦寺と奈良興福寺に力を合わせて欲しいと依頼状を送った。
5月18日
南都牒状 ( なんと ちょうじょう )
これに対し、延暦寺側は、先に
清盛 が
明雲 を懐柔していたこともあり、また、三井寺は延暦寺の末寺であって対等ではないというプライドもあり、「味方するともしないとも決まっていない」と答えた。
南都・興福寺は一同詮議の上、信救(後の
覚明)が、「そもそも、 平清盛は平氏のぬかかす、武家の塵あくた」等と、さんざん扱き下ろした書状を書いて返し、援軍を送ることを約した。 5月21日
永僉議 ( ながの せんぎ )
一方、三井寺の中では「延暦寺は協力してくれない、興福寺からは未だ返事が来ない。ならば、こちらから夜討ちに出よう」という議論になっていた。しかし、平家寄りの僧からは慎重論も出て、なっかなか決まらない。夜も更け、ようやく出陣と決まる。
大衆揃 ( だいしゅう ぞろえ )
源頼政、
源仲綱、
源兼綱 らが数多くの僧兵と共に三井寺を出発した。しかし、
以仁王 が来てからは防御を固めていたので、いざ出発ということになって、それらを取り除いていたら夜が明けてきた。進軍していた 源仲綱 も、「昼のいくさとなってしまえば、平家にかなわぬ」と、一旦、兵を引き戻す。
そうこうしているうちに、以仁王 は「三井寺だけでは、とても平家軍に敵わない」と悟り、23日の明け方に三井寺を出て、奈良の興福寺へと向かった。
以仁王 は「蝉折」(せみおれ)と「小枝」という漢竹の笛を持っていた。「蝉折」は、昔、鳥羽院が宋朝へ献金した際の、その返礼の品で、蝉そっくりの節がついた笛竹で作られた笛である。ある時、藤原実衡がこの笛を吹いた後で下に置いたところ、笛の蝉のところが折れてしまったため「蝉折」と名付けられた。
以仁王 は笛の名手だったので、この「蝉折」を相伝されたのだが、今を限りと思ったのだろう、この笛を三井寺本堂の本尊・弥勒菩薩に納めた。
橋合戦 ( はし がっせん )
以仁王 は興福寺へ向かう途中、疲れ切っていたため、宇治の平等院で休憩を取ることになった。敵が宇治橋を渡れないようにするために、橋板が取り外される。ここに平家軍が大挙して押しかけ、宇治橋を挟んで両陣の矢合わせが始まった。
五智院の但馬 が大長刀を持って橋の上を進むと、平家方はさんざんに射かける。しかし、但馬 は少しも慌てず、雨あられの矢を見事に避ける。敵も味方も感心して見とれ、「矢切の但馬」と呼ばれた。
また、堂衆の一人、筒井明秀 は裸足になって橋板を支える縦の桁をさらさらと走り、立ち向かう平家の兵を長刀で倒していった。明秀 は川に落ちたが、それをを手本として、三井寺の大衆、
源頼政 の手の者、渡辺党は、われ先にと橋桁を進んだ。橋の上の戦いは大激戦となった。
※
『 橋合戦図屏風 』 江戸時代
■ フリーア美術館
「橋の上は手ごわい。川は水かさが増していて渡れない。一旦、迂回すべきでしょうか」と 伊藤忠清 が大将軍にと問うと、下野の住人
足利忠綱 が進み出て言うには、「武蔵と上野の境にある利根川での合戦の経験がある。馬を筏のように組んだ「馬筏」を作れば渡れまする」と告げ、真っ先に川に入った。忠綱が「強い馬を上流に置き、弱い馬を下流に置け。馬の足が川底に届くうちは手綱をゆるめて歩かせよ。馬の足が届かなくなって跳ね始めたら、手綱を操って泳がせよ」等と細かく指導しながら進めると、300騎が 1騎も流されず対岸へ上陸した。
宮御最期 ( みやの さいご )
それを見て、
平知盛 が「渡れ、渡れ」と命じるや、大軍が一斉に川を渡り平等院に攻め込んでいった。三井寺軍は
以仁王 を先に奈良へ逃がし、踏み止まって防戦。
※
安田靫彦 『 宇治合戦図 』
1905 (M38)
□
平塚市美術館
しかし、とうとう堪えきれず、
源兼綱 は討ち取られ、
源仲綱 は平等院の釣殿にて自害。六条蔵人 仲家 と 仲光 も討ち死にした。
源頼政 は、西へ向かい手を合わせて「南無阿弥陀仏」と十回唱え、最期の歌を詠み、自刃。頼政 の首は
長七唱 が取り、石に括り付けて宇治川の深い所に沈めた。平家の侍たちは、なんとしても 競 を生け捕りにしようと追いかけたが、競 はさんざん戦った末に切腹。
戦場の経験豊富な
伊藤景家 は、以仁王 が逃げたと勘付き、追いかける。光明山の鳥居の前で追い付き、雨のように矢を射かけると、その一本が 以仁王 の左側腹に刺さって落馬。そして首を取られる。
この時、援軍の興福寺兵は、あと5キロのところまで来ていたのだった。
若宮出家 ( わかみや しゅっけ )
平家は、討ち取った首を、太刀・長刀の先に貫いて六波羅へ戻った。しかし、
以仁王 の首は、検分しようにも顔を見知っている者がいない。以仁王 寵愛の女房が引き連れられてくると、一目見て袖に顔を押し当てて涙した。これで、以仁王 の首だとわかったのである。
以仁王 はあちこちの女房たちに子を産ませていた。その中に 7歳になる若君がいた。
平頼盛 が使者となり連れて来ると、若宮を見た
平宗盛 が「若宮の命を自分に下さい」と願い出る。
清盛 は出家させることで許した。
通乗之沙汰 ( とうじょうの さた )
また、奈良にも、もう一人いたが、おもり役の 讃岐守重秀 が出家させ、北国へ逃れた。この若宮は、その後、
木曾義仲 が上洛する際に天皇にしようと思い、還俗させて都へ連れて行った。なので「木曾の宮」とも「還俗の宮」ともいう。
昔、藤原道真の時代、通乗(とうじょう)という人相見がいて、よく当たった。藤原維長による
以仁王 の人相見は全く外れた。
鵼 ( ぬえ )
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さて、源頼政 には、壮年時代、これといった武功はなかったものの、近衛天皇の頃(1151-54年)、鵺を退治したことがある。毎夜の 2時頃に 近衛天皇 が悪霊に苦しめられるということが起きたため、悪霊退治に推挙されたのだった。
頼政 が、ある夜、禁中で暗い空を見上げると、雲の中に鳴く声が鵺に似た怪しい獣の姿を見定める。矢を取って「南無八幡大菩薩」と祈願して放つに、落ちてきたのは、頭は猿・体は狸・尾は蛇・手足は虎という恐ろしい怪物だった。近衛天皇は 感激し、獅子王という剣を 頼政 に与えた。
また、頼政 は 二条天皇 の時にも鵺を退治している。
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葛飾北斎 『 源頼政の鵺退治図 』 江戸時代
ファインバーグコレクション
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岩佐又兵衛(伝)『 平家物語図屏風 』 江戸時代
宮内庁 三の丸尚蔵館
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梥本一洋 『 鵺 』
1936(S11)
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京都市美術館
三井寺炎上 ( みいでら えんしょう )
今回の謀反により、三井寺と興福寺は朝敵となった。まず三井寺が攻められ、5月27日、
平重衡、
平忠度 に率いられた軍勢が三井寺へ向かった。平家に攻められて一切が焼かれてしまい、何も無くなってしまった。
円慶法親王は天王寺の別当職を停止され、その他、僧官 13人は職を解かれた。堂衆は、筒井の浄妙明秀に至るまで、30人余が流罪となった。