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平家物語(巻第八)と絵画

巻第八のダイジェスト & 絵画のページです。

巻第八
  1183(寿永二)年 7月~12月 山門御幸 ( さんもん ごこう )
1183(寿永二)年7月24日の夜半、後白河法皇 は密かに比叡山の奥へと隠れた。安徳天皇 は西海にあり、平家は落ちたが源氏はまだ来ず、京の都が主無き里になるとは、開闢以来初の事である。聖徳太子の未来記には何と書いてあるのだろう?
7月28日、後白河法皇 は都に戻る。木曾義仲 が大軍をもって守護した。錦織義高 が源氏の白旗をかざして先陣にお供する。 源行家矢田義清、摂津の源氏らも上洛し、京中が源氏で満ちあふれた。
そして、木曾義仲 と 源行家 は平家追討の院宣を受ける。
後白河法皇 は、安徳天皇三種の神器* を都へ還すよう要求していたが、平家は従わない。平家は高倉上皇の二の宮 守貞親王 も西国へ連れていったので、8月5日、後白河法皇 は都に残っていた 2人の宮を呼ぶ。5歳の三の宮 惟明親王 をそばに寄せると泣いてむずがった。次に四の宮を呼ぶと、すぐ、ひざの上に乗り、なついた。これにより、四の宮 尊成親王 が皇位に就くことになった。後の 後鳥羽天皇 である。
この、四の宮 尊成親王 は 法勝寺執行能円 が養っていた。平家と落ちていた 能円 は、北の方に、四の宮を西国に連れて来るように伝えたので、北の方は喜んで出発した。ところが、北の方の兄である 藤原範光 が、それを止める。後白河法皇からの迎えの車が来たのは、実に、その次の日であった。
名虎 ( なとら )
8月10日、木曾義仲 は朝日将軍という院宣を下された。越後の国を賜るも、嫌だというので伊予の国を、また、源行家 も備後の国を嫌がり、備前の国を賜った。
8月16日、平家一門 160人の官職が停止された。ただし、平時忠平信基平時実 の 3人は、安徳天皇三種の神器* を都へ還す役として、そのままにされた。
8月17日、平家は筑前の国の大宰府に到着。都から着き従って来ていた 菊池高直 が離脱し、肥後の自分の城に閉じこもって出てこなくなった。
8月20日、故高倉上皇の四の宮 尊成親王が、後鳥羽天皇 となった。摂政は 藤原基通 が返り咲き。
昔、文徳天皇の急死の際、たくさんの皇子の中から次の皇位を決めなければならなくなった。その中で、一の宮 惟喬(これたか)親王と二の宮 惟仁(これひと)親王に絞られたが、どちらにとも決め難たかった。とうとう「臣下では決められない。競馬と相撲で 2人の運をはかって決めよう」ということになった!
最初の競馬では惟仁親王が勝った。次の相撲では、惟喬親王家から名虎という力士が選出され、惟仁親王家からは能雄の少将という、背が低くいが、夢の御告げがあったという者が名乗り出た。名虎が優勢になるや、惟仁親王の母 染殿が「負けそうですわ、どうしましょう、どうしましょう」と慌てると、恵亮和尚は独鈷で頭を割って脳を砕き、護摩を焚いて祈祷した。すると、能雄が相撲に勝ったのである。こうして、惟仁親王が皇位に就く。後の清和天皇である。皇位継承は、この場合だけは法力によるものかもしれないが、その他は皆、天照大御神* の計らいといわれている。
平家は筑紫にて、高倉上皇の四の宮が即位し、後鳥羽天皇 となったことを知る。
緒環 ( おだまき )
平家では、ここに内裏を造るべきという話になり、まず、宇佐八幡宮へ参籠した。7日目の暁、平宗盛 に夢想のお告げがあり、それは「世の中の憂さには、神々の力も及ばない」というものであった。宗盛 は大いに胸騒ぎがしつつ、大宰府に戻る。
豊後は 藤原頼輔 の知行国で、頼輔の子の 藤原頼経 が代官をしていた。頼輔 は 頼経 に「豊後では平家に従ってはならない。九州から追い出せ」と告げたので、頼経 は 緒方惟義 に平家追討を命じる。この 緒方惟義 という者は、昔、豊後のある片山里に居た女が大蛇に産まされた子の末裔。国司の命令を院宣と偽り、九州二島に廻らし文を出したので、名だたる者どもは皆、惟義 に従った。
大宰府落 ( だざいふ おち )
平時忠 が「緒方惟義は平重盛の御家人なので、子息が説得してどうだろう」とアイディアを出した。それで、平資盛 が豊後の国に行き、あれこれと説得したのだが、惟義 は従わなかった。その後で、惟義 は次男を使者に立て、正式にお断りの申し入れをした。これに対し、平時忠 は「平家こそ正統であるのに、源氏の甘言に騙されて『鼻豊後』の命に従うことこそけしからん」と返した。『鼻豊後』とは、藤原頼輔 の鼻が極めて大きかったことをいう。緒方惟義 は、その態度に怒り、「もーよか。はよ、九州からおっぽっ出せ」と下知する。そして、惟義 が大軍で攻めて来ているという情報が入ってきたため、平家は大宰府を落ちる。
安徳天皇 は腰輿に乗せられ、建礼門院 をはじめとする女御たちを含め、平家一門の者は大雨の中を裸足で、はるか遠い浜まで落ちて行った。山賀秀遠が迎えに来て山賀城に籠るも、それでも敵が攻めてくると聞き、小舟に乗り豊後の柳が浦に渡った。また、長門から源氏が来ると噂されたので、再び、漁師たちの小舟を取り上げて海に浮かんだ。
平清経 は何事にも思いつめる性格であった。ある月夜に「もはや、網にかかった魚のごとし」と先行きを悲観し、静かに念仏を唱えて海に沈んでしまった。
長門は 平知盛 の知行国であった。目代の 紀伊刑部大夫 通資という者が大船 100艘余りを提供したので、これに乗って平家は四国に渡った。その後、阿波民部重能 のはからいで、讃岐の屋島の磯に、形ばかりの内裏や御所を造った。
征夷将軍院宣 ( せいい しょうぐんの いんぜん )
源頼朝 は鎌倉に居ながらにして、征夷将軍の院宣を受けた。使者は 中原泰定 で、10月4日、関東へ下った。鶴岡八幡宮の拝殿にて、中原泰定から、故 三浦義明の子、三浦義澄 が院宣を受け取り、頼朝 に渡した。義澄 が選ばれたのは、父 義明の亡魂を慰めるためと云われた。
儀式の翌日、頼朝 は泰定に次の希望を述べる。「木曾義仲 と 源行家 が都に押し入り、自分の手柄だという顔して、それぞれの官に気ままに成り、また、奥州の 藤原秀衡 と 佐竹隆義 が従わない。この 4名を追討せよとの院宣を賜りたい」と。
猫間 ( ねこま )
中原泰定は戻り、関東の様子を詳細に伝えた。後白河法皇 は頼朝の態度に大いに感じ入った。それに比べて、今、都に居る 木曾義仲 は、なんと無骨な田舎者かと。
その頃、猫間光高=中納言 藤原光隆 という人が 木曾義仲 に頼みがあり参上した。義仲 の郎党が「猫間殿が参りました」と告げると、義仲 は「猫が人に対面するんか?」と大笑いする。そして「猫殿が食事時に参られたので御馳走せろ」と命じると、根井行親 が巨大な田舎茶碗に飯を山盛り積んで持って来た。猫間光高は、悪いと思ったか、茶碗を取って食べたふりだけをして箸を置いた。義仲 は「猫殿の少食のことよ。こりゃ、よく言う猫の食べ残しですの。がはははは。さあ、さぁ、かき込みたまえで」と急かした。これには猫間光高は万事興ざめ。要件は何も言わず、急ぎ退散してしまった。
木曾義仲 が参院の際、似合わぬ正装して牛車に乗り込んだ。牛車を引くのは 平宗盛の牛飼いであり、とても嫌だったので、牛に鞭打って急発進させた。義仲 は車の中でひっくり返ってしまい、「やい、小牛こでい!」と叫ぶと、牛飼いは、さらに飛ばせと言われたものと勘違いして全力疾走させる。そうして、牛車は院の門前に到着。車は前から降りるのが決まりなのに、義仲 は「車であるからといって、素通りしちゃ良くねぇずら」と、後ろから降りてしまった。
その他、義仲 にはおかしなことがたくさんあったが、誰も恐れて口には出さなかった。 牛飼いは、とうとう斬られてしまった。
水島合戦 ( みずしま かっせん )
そうしているうちに、屋島の平家は、山陽道 8か国と、南海道 6か国の 14か国を討ち取り、挽回してきた。
これは癪にさわるぜ、と、木曾義仲 は討っ手を出す。
 大将軍: 矢田義清
 侍大将: 海野行広
備中 水島の瀬戸に船を浮かべて、屋島へ進攻しようとする。
迎える平家方は、
 大手大将軍: 平知盛
 搦手大将軍: 平教経
1,000隻の船と船を綱で結び平らな板を通すことで、船上にいながら平地で戦うような状況を作る。
源氏の侍大将 海野行広 が討ち取られるや、大将軍の 矢田義清 も自ら平家を攻めるも、攻撃途中で船が沈んでしまい、死んでしまった。
平家は水島の戦いに勝ち、会稽の恥を雪いだのであった。
瀬尾最期 ( せのお さいご )
木曾義仲 は水島合戦での敗北を聞き、急ぎ備中の国へ向かった。
倶利伽羅峠の戦いで生け捕りにされていた 瀬尾兼康 は「源氏へ恩返ししたい」と、備中の自分の領地の提供を申し出る。義仲 は気を良くし、倉光成氏 にそこへ先に行かせた。兼康 の嫡子 瀬尾宗康 が迎えに来て、御一行様歓迎の酒宴となったが、成氏らは無理矢理酔わされ、全員斬り殺されてしまう。兼康 が「平家に志を寄せる者集まれ」と触れを出すと近隣の強者たちが集まり、急ぎの城郭を造った。
今井兼平 の軍が城郭に到着すると、兼康 は「甲斐無き命を助けてもらった礼だ」と一斉に矢を射掛け始めた。 楯親忠根井行親 らが猛攻し、混戦となって城郭が破られると、兼康 は撤退。弟を討たれた 倉光成澄 は 兼康 を追いかける。2人が組み合い、馬から落ちて深い川底に落ちると、成澄 は泳ぎが下手だったため水中で 兼康 に首をあげられてしまった。
一方、息子の 宗康 はあまりにもデブっていて 100メートルも走れない。兼康 は 宗康 を置いてきていたのだが、「一人息子を見捨てて逃げたと、平家のみんなに避難されては恥ずかし」と、前線へ舞い戻る。源氏が追い付いて来るや、兼康 は太刀を抜いて宗康の首を刎ね、敵の中にさんざんに斬り込んだ末、討ち死にした。
室山 ( むろやま )
木曾義仲 は、備中 万寿の庄に軍勢を集結。いざ屋島へ攻め込もうという段階で 樋口兼光 からの使者が来る。「都で 行家 が院を取り仕切った顔して、様々に讒訴している。急ぎ帰りたまえ」と。義仲 が急ぎ京へ返すと、源行家 は播磨へ逃げた。
平家方は 義仲 を討つために、播磨に渡って室山に陣を構えた。
 大将軍: 平知盛平重衡
 侍大将: 平盛嗣伊藤忠光伊藤景清
源行家 は、この戦いに参加して 義仲 と仲直りしようと思ったか、突撃するも、平家軍に包囲される。行家 は脇目もくれず奮戦したが大敗し、敗走した。
平家は、室山と水島の 2つのいくさに勝ち、いよいよ勢いづいた。
鼓判官 ( つづみ ほうがん )
都では源氏による強奪がひどく、後白河法皇平知康 を使者に、木曾義仲 に「狼藉を鎮めよ」と命ずる。平知康 は鼓の名手であり「鼓判官」と呼ばれていた。 知康 と対面した 義仲 は「おめぇ様が鼓判官とこくのは、多くの人に打たれたからか? 張られたからかや?」と聞く。知康 は返事もせず院に帰り「義仲は大バカたれです。早々討つべきです」と報告した。後白河法皇 は、延暦寺と三井寺の悪僧たちを集めた。こうなると、五畿内の兵も 後白河法皇 方に付く。
この情勢を見て、今井兼平 が「これはマズい。今は後白河法皇に跪くべき」と 義仲 に進言する。しかし、義仲 は「たとえ天皇だろうと、降人には、絶ってぇーならん。別に悪い事やってっかぁ? こりゃ鼓判官めの策略だ。その鼓を打っちゃぶって捨てろ」と激怒し、飛び出していった。
11月19日の朝、法住寺合戦が始まる。平知康 は、いくさ奉行となり、赤地の錦の直垂に鎧を着けずに甲だけをかぶった妙な格好。両手に鉾と金剛鈴を持って、時には舞いを舞い始めるが、公卿・殿上人たちからは「ぶざまやねぇ」と失笑される。
  『平家物語絵巻』 法住寺合戦(部分) 江戸時代  林原美術館

樋口兼光 が搦め手から火の矢を法住寺殿に射立てると、折からの強風に煽られ、猛火が天に燃え上がった。黒煙が立ち込めると、平知康 は、とっとと逃げ出す次第。いくさ奉行が逃げるや、兵たちも大混乱して逃げ出す。敗走する僧兵、公卿、武士らが、さんざんに射かけられて首を刎ねられた。延暦寺の 明雲大僧正、三井寺の円慶法親王までもが、馬から射落されて首を取られてしまう。
藤原頼輔 も河原に逃げたが、そこで下級武士たちに衣類を全部はぎ取られてしまい、寒空の下、真っ裸で立っていた。彼の兄に仕える雑役僧が 頼輔 を見付け、「ああ、ひどい」と、着ていた衣を彼に投げ掛けた。頼輔 は短い衣をほおかぶりして帯もせず、けったいな格好である。その姿を見た人は皆、手を叩いて笑った。
後白河法皇 も輿に乗って他所へ逃げていたが、武士たちがさんざんに射かけてくる。藤原宗長が「こちらは後白河院であるぞ。あやまちをおこすな」と告げると、武士たちは皆、馬から降りて畏まった。その後、信濃の住人 矢島行綱が固く 後白河法皇 を守護した。 一方、後鳥羽天皇 は舟に乗って池に退避していた。藤原範光 らが「こちらは主上が乗る船ぞ。まちがいを起こすな」と叫ぶと、武士たちは皆、馬から降りて畏まった。
法住寺合戦 ( ほうじゅうじ かっせん )
源仲兼 は法住寺殿の西の門を守っていたが、錦織義高 から「後白河法皇も後鳥羽天皇も他所へ移られたぞ」と聞くと、根井行親 の陣に突入し戦い、そして、南へ落ちていった。藤原基通 に木幡山で追い付き、宇治の富家殿まで送っていった。
一夜明けた 11月20日、木曾義仲 は、六条河原で 630余りの首を検分。その中に 明雲 大僧正、円慶法親王の首もあった。信西の子 藤原修範が 後白河法皇 に今回討たれた人々の詳細を泣く泣く報告すると、後白河法皇 は「明雲が非業の死をとげるとは! 私の代わりに命を落としたのだ」と涙を流した。
11月23日、義仲 が家の子・郎党を集めて言う。「義仲は一天の君と戦って勝っただ。天皇になるべきかと思うが、童にはなれねっしな。法皇になるべきか。俺が坊主になるのも変だべな。よし、では、関白になろう」と。祐筆の 覚明 が困って「関白には、藤原鎌足の末裔の藤原摂関家の者たちが成るものなので、源氏の殿はなれませんよぉ」と止める。仕方なく、義仲 は院の厩を管理する長官に就き、丹後守になった。また、義仲 は 藤原基房 の娘を強引に妻にしてしまった。 同じ日、義仲 は平家の悪行時の 43人を超える 49人の官職を停止し閉じ込めた。
一方、都へ向っていた 源範頼源義経 の軍は、道中で都の戦いが終わったことを知ると、尾張の熱田の辺りで留まった。北面の武士 大江公朝 が 義仲 の狼藉を訴えるために、鎌倉に下り訴えた。事の経緯を聞いた 源頼朝 は「それは、鼓判官が奇怪なことを言ったのが悪い」と言う。平知康 は慌てて鎌倉に行って弁明しようとしたが、相手にされなかった。
義仲 は平家へ「ひとつになり、東国を討たねぇか?」と申し出たが、平家側は「義仲こそ、こちらへ降人なって参上すべき」との返事。当然、義仲 は受け入れない。
藤原基房 が 義仲 に「悪行ばかりでは世は治まりません」と進言したので、義仲 は皆を赦し官職に復帰させる。また、基房の子 藤原師家 を無理矢理、摂政にさせたが、世の人々は、師家を「借りの大臣」と呼んだ。12月13日、除目があり、義仲 は思うがままに人々の官位任命を行ったのである。




この巻の登場人物と他巻リンク

後白河法皇( ごしらかわ ほうおう )

安徳天皇( あんとく てんのう )

守貞親王( もりさだ しんのう )

 高倉天皇の二の宮
 巻八.山門御幸
 巻十一.一門大路渡

後鳥羽天皇( ごとば てんのう )

建礼門院( けんれいもん いん )

平時忠( たいらの ときただ )

平時実( たいらの ときざね )

平信基( たいらの のぶもと )

平資盛( たいらの すけもり )

平清経( たいらの きよつね )

 左中将。平重盛の3男
 巻八.大宰府落
 巻六.祇園女御
 巻七.一門都落

平宗盛( たいらの むねもり )

平知盛( たいらの とももり )

平重衡( たいらの しげひら )

平教経( たいらの のりつね )

瀬尾兼康( せのお かねやす )

伊藤忠光( いとう ただみつ )

伊藤景清( いとう かげきよ )

平盛嗣( たいらの もりつぐ )

阿波民部重能(あわのみんぶしげよし)

菊池高直( きくち たかなお )

明雲( めいうん )

源仲兼( みなもとの なかかね )

 近江守、後白河法皇の近習。宇多源氏
 巻八.法住寺合戦
 巻四.鼬之沙汰

平知康( たいらの ともやす )

 壱岐判官。鼓判官
 巻八.鼓判官
 巻八.法住寺合戦

藤原範光( ふじわらの のりみつ )

藤原基房( ふじわらの もとふさ )

藤原師家( ふじわらの もろいえ )

 摂政内大臣。基房の3男。借りの大臣
 巻八.法住寺合戦
 巻九.樋口被討罰
 巻三.法印問答

藤原基通( ふじわらの もとみち )

源頼朝( みなもとの よりとも )

源範頼( みなもとの のりより )

源義経( みなもとの よしつね )

三浦義澄( みうら よしずみ )

木曾義仲( きそ よしなか )

今井兼平( いまい かねひら )

樋口兼光( ひぐち かねみつ )

楯親忠( たて ちかただ )

 木曾四天王の一
 巻八.瀬尾最期
 巻七.主上都落

根井行親( ねのい ゆきちか )

錦織義高( にしこり よしたか )

 山本冠者。近江源氏
 巻八.山門御幸
 巻八.法住寺合戦
 巻四.源氏揃

矢田義清( やた よしきよ )

覚明( かくめい )

源行家( みなもとの ゆきいえ )

倉光成澄( くらみつ なりずみ )

 加賀の国の住民
 巻八.瀬尾最期
 巻七.倶利伽羅落

藤原頼輔( ふじわらの よりすけ )

 豊後守、刑部卿三位、鼻豊後
 巻八.緒環
 巻八.大宰府落
 巻八.鼓判官

緒方惟義( おがた これよし )

佐竹隆義( さたけ たかよし )

 物語と絵画
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好色五人女
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