■ 巻第二
1177(安元三)年 5月~12月
座主流 ( ざす ながし )
加賀騒動は、これでは済まなかった。翌 5月になって、延暦寺の天台座主
明雲 大僧正が、突如失脚させられ伊豆への遠流となる。明雲 は、当時天下第一の高僧。
これは、
西光 と
師高 の親子が「今回の強訴は、明雲が自分の加賀の領地を師高に没収されたことを恨み、比叡山の大衆をけしかけて引き起こしたもの」と讒言し、それが、
後白河法皇 の逆鱗に触れたため。
明雲 は自から座主の職を辞して還俗。伊豆への流刑を受ける。5月21日。
天台座主は、覚快(かっかい)法親王が継いだ。
一行阿闍梨之沙汰 ( いちぎょうあじゃりの さた )
一方的な密室判決のような形で座主が有罪となったことに、比叡山の大衆が黙っているはずがない。事前に十禅師権現のご宣託を得た上は、猛ダッシュで護送団に追いつき、
明雲 の奪還に成功する。5月23日
西光被斬 ( さいこうが きられ )
計画を挫かれた
西光 としては反撃に出たいところ。
後白河法皇 は
藤原成親 ら近習の者たちに、比叡山を攻めるべきと言った。
そんな中、藤原成親 から平家打倒軍の大将を依頼されていた
源行綱 は、「平家打倒なんて無謀や。誰かの口から漏れたら、まず殺される。先に自ら寝返って助かろう」と決意する。
5月29日の夜分、源行綱 は
清盛 を訪ねる。行綱 は小声で「藤原成親ら院の者が兵を集めているのは比叡山を攻めるためでは無く、平家を攻めるつもりであります」と密告する。また「平康頼や俊寛、西光が、鹿谷で、こぉんなことを言ってましたよ」と、誇張して。
清盛 は激怒し慌てる。行綱 は、野に火を放ったような気分になり、その場を、そそくさと退出した。
清盛 は
平貞能 を呼び出して一門の侍を集めさせると、
宗盛、
知盛、
重衡、
平行盛 以下の一門の者たちが武装して清盛邸に集結した。翌朝早く、謀反人を逮捕するとのことを 後白河法皇 に報告させ、その反応を見て 源行綱 の密告が嘘ではなかったことを確認した 清盛 は、平貞能 と
伊藤景家 に指示して、
俊寛僧都 や
平康頼 ら、鹿谷の陰謀に加わった者を捕えさせた。
藤原成親 へは使いを遣って「ご相談したい儀あり」と呼び出し、清盛 の屋敷へ連れてくるや、狭い部屋へ閉じ込めてしまった。
西光 はそのことを知り、急ぎ院の御所へ向かうも、途中で平家の兵に捕まる。引っ立てられてきた 西光 の顔を、清盛 はむずむずと足で踏みつけ、「お前らのような最下郎の父子が身分不相応の行動をしおって。天台座主流罪の讒言をし、さらには平家一門を滅ぼさんとする奴め。洗いざらいに吐け!」と言うと、西光 は悪びれもせず、あざ笑い、「確かに、藤原成親卿が軍兵を集めることには関わった。しかし、分不相応とは聞き捨てならぬ。侍の出ごときで大出世しているお前の方が不相応すぎるだろうが!」と言い返した。
拷問による 西光 の自白は白状 4~5枚に記され、その後、口を裂かれた上、斬首。長男の
師高 は尾張に流されて平家の家人に討たれ、次男の
師経 も獄から引き出されて六条河原で殺された。
小教訓 ( こぎょう くん )
藤原成親 は一室に閉じ込まれて自らの身を案じていると、
清盛 がやって来て、
西光 の白状を読み上げ、自白するよう迫る。
白を切る 成親 に 清盛 は腹の虫がおさまらず、
難波経遠、
瀬尾兼康 をして 成親 を庭に引きずりださせるや、そこで喚かせたのであった。
だいぶ時間が経って、
平重盛 が数名のみを連れてやって来る。屋敷中を回って蜘蛛の巣状に打木してある一室を見付けるや、そこにに閉じ込められた 成親 を探し出す。成親 は平治の乱の際に救われたことに続き、今回も命乞いをした。重盛 は 清盛 のところへ行き、故事を交えてとうとうと死罪を思いとどまるよう諫めると、清盛 は、しぶしぶ了承する。
少将乞請 ( しょうしょう こいうけ )
藤原成親の子、丹波少将
藤原成経 も、舅である
平教盛 を通して連れ出された。教盛 は「成経 をしばらく自分に預けてほしい」と
清盛 に願い出るもNG。教盛 は「認められぬとあらば、出家する」とまで言うので、これには 清盛 も驚き、一旦は了承する。
教訓状 ( きょうくん じょう )
清盛 は「今後、もし、
後白河法皇 が誰かにそそのかされて、平家追討の院宣でも出されようものならアウトだ。世が静まるまで蟄居いただこう」と、鎧を身に着け、一門の侍たちも今にも院の御所へ攻め入る気配。
平盛国 が、これは一大事と、
平重盛に報告するや、重盛は車で駆けつける。
※
菱田春草 『 平重盛六波羅諌言図 』
1902 (M35)頃 永青文庫
※
川合玉堂 『 小松内府図 』 1899 (M32)
■
東京国立近代美術館
重盛 が 清盛 に向かって、はらはら涙を流して訴えるには、、、
「太政大臣の位、かつ出家の身の人が甲冑を身につけるなど嘆かわしい。四恩の中で最も重たい朝恩によって平家も栄えてきたのに、法皇を失脚させようとは、これ神への非礼。十七条の憲法にも『事の是非は容易に定めがたい。自らを顧み、むしろ我咎を恐れよ』とあるではないですか。君のために奉公の忠勤を尽くし、民のために慈悲の心で育てるならば、神明の加護にあずかり、仏陀の配慮に背くことはありません。神明仏陀の感応があれば、後白河法皇も考え直されましょう」と。
烽火之沙汰 ( ほうかの さた )
その上で、
重盛 は院の御所を守ると言う。しかし「悲しき哉、奉公の忠を尽くそうとすれば父の恩を忘れねばならぬ。痛ましき哉、親不孝の罪を逃れようとすれば不忠の逆臣となってしまう。進退これ極まった。つまるところは、我が首をお刎ねください」と迫る。
清盛 は「い、いやいや、そ、そこまでは、言っとらんのだよ」と譲歩させられる。
自分の屋敷へ戻った 重盛 は「天下の大事あり」として、
平盛国 に兵を集めさせると、京中から多くの兵が集まってきた。重盛 は「中国の故事に、狐が化けた后が烽火を見て『きれい!』と喜ぶので、王が何度も烽火イベントをやらせていたら、本当に敵兵が襲来した際に『どうせ、またウソだろ』と、一人も兵が集まらずに滅ぼされてしまったという話があるが、今後も何かの際には集まるように」と告げた上で、「今回は誤報であったので」と解散させた。
こうして、平家が院の御所へ攻め入ることは中止となる。
大納言流罪 ( だいなごん るざい )
さて、刑の執行は早速進められた。6月2日、
藤原成親 は備前の児島半島へ流刑となった。目付け役は
難波経遠。
阿古屋之松 ( あこやの まつ )
鹿谷の陰謀に加わった者は、皆、遠国流罪となった。
平教盛 が預かっていた
藤原成経 も、やはり呼び出され、備中国へ流された。こちらの目付け役は
瀬尾兼康。
大納言死去 ( だいなごんの しきょ )
その後、俊寛僧都、藤原成経、平康頼 の3人は、さらに遠い、鬼海が島(鹿児島県の硫黄島(いおうじま))へと流された。鬼海が島は硫黄が吹き出す南海の孤島である。
一方、藤原成親 は流刑地にて出家し、静かにしていたものの、やがて、ついに、むごい形をもって処刑され、非業の死をとげる。
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大徳寺厳島詣 ( とくだいじ いつくしま もうで )
徳大寺実定 は、一時、左大将後任ポストの最有力候補だったのだが、平家人事で就任できなかった。しばらく様子を見ようと籠居していたが、今後、再起の可能性は低いと見て、出家しようという気になっていた。
そんな中、藤原重兼( しげかね )という者が新規提案をする。「平家一門は安芸の厳島神社を大層敬っているので、そこへ昇進成就の祈祷に行くべき」と言うのである。その上で「神社の内侍を連れて帰り、目一杯、接待すべきです」とも。
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さて、その企画通りに実行すると、清盛 は「はるばる厳島神社まで参詣してもらった」と、いたく喜び、徳大寺実定 をあっさりと左大将のポストに据えたのであった。
ご機嫌取りの接待攻勢により、人生が、こうも変わるのである。
※
松岡映丘 『 厳島詣 』 1919 (T08)
姫路市立美術館
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山門滅亡 堂衆合戦 ( さんもん めつぼう どうじゅ かっせん )
後白河法皇 は三井寺(=園城寺)座主の
公顕僧正 を導師として真言の秘宝を伝授され、三井寺にて御灌頂の秘儀が行われることとなったが、その儀は延暦寺で行われるはずのものだと、延暦寺側の反対により中止になった。
この頃、延暦寺では武装する荒くれ僧の「堂衆」(どうじゅ)と、学僧である学生(がくしょう)との間の争いが絶えず、山門滅亡の危機にあった。大衆が朝廷へ堂衆成敗の嘆願をすると、
平清盛 へ堂衆成敗の院宣が出される。9月20日、平家と大衆の連合軍が攻撃するも、堂衆側が勝ってしまう。
山門滅亡 ( さんもん めつぼう )
その後、延暦寺はますます荒廃し、谷々の講演は中絶し、堂々の行法もなくなった。
心ある人たちは嘆き悲しんだ。
善光寺炎上 ( ぜんこうじ えんしょう )
また、その頃、信濃の善光寺が炎上。昔、天竺から信濃の地に阿弥陀三尊が安置されてから 580年余り、炎上したのは今回が初めてのことと聞く。尊い霊寺・霊山の多くが滅び失われるのは王法が末である兆しか、と噂された。
康頼祝言 ( やすより のつと )
さて、鬼界が島の流人たちは、
平教盛 から衣食が送られていたので、命をつないでいた。
藤原成経 と
平康頼 は、元々、熊野信仰者であったので、この島の中で熊野三山をお祀りして帰京を祈願しようと思い立った。二人は島の中に熊野に似た場所はないかと探し回り、「那智のお山」などと名前を付けていった。毎日、熊野詣の真似をして「我らを故郷へ返し、今一度妻子に会わせてください」と祈願し続けた。しかし、
俊寛僧都 は生まれつき全く信心の無い人であったので、それには関心を示さなかった。
卒都婆流 ( そとば ながし )
平康頼 は、故郷恋しさのあまり、千本の卒塔婆を作り、梵字の「あ」、年号月日、俗名・実名、二首の歌を書きつけ、沖から白波が寄せては返すごとに、それらを浮かべて流した。
そして、ある日、千本の卒塔婆のうちの一本が、安芸の厳島神社の渚にあがったのである。康頼 に縁のある僧が厳島神社へ参詣し、月夜に静かに読経しているところ、沖から寄せてくる藻屑のなかに卒塔婆の形が見えた。取り上げてみると、康頼 が歌を記して流した卒塔婆であり、不思議に思って京に持ち帰った。
この卒塔婆は、康頼 の家族 →
後白河法皇 →
重盛 →
清盛 へと届けられ、それぞれ哀れに思ったのであった。
蘇武 ( そぶ )
昔、中国の蘇武は雁に書を運ばせたが、
平康頼 は浪に託した。世は異なるが、同じ風情。珍しいことである。