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平家物語(灌頂巻)と絵画

灌頂巻のダイジェスト & 絵画のページです。

灌頂巻
  1185(元暦二)年 5月頃 ~ 1191(建久二)年 2月中旬
女院出家 ( にょういん しゅっけ )
建礼門院 は、東山の麓の吉田という辺り、とある法師のみすぼらしい朽ちた坊に入った。そして、1185(文治元)年5月1日、髪を落とした。今年で29歳。容姿は桃李の花のように、なお端麗で、芙蓉のような美しさもいまだ衰えていなかった。お布施として、安徳天皇が入水する時までつけていた直衣を、他に出せるものが何も無かったため、泣く泣く、渡した。
その後、7月9日の大地震で荒れた家屋がさらに傾き、どうにも住めないようになってしまった。 情けをかけてくれる縁故ある人も離れてしまって、世話をしてくれる人もいなかった。
大原入り ( おおはら いり )
ただ、建礼門院 の 2人の妹、藤原隆房の北の方と、藤原信隆の北の方は、時々、様子を見に来ていた。建礼門院は、ここは都に近くて往来の人目にもつきがちなのでと、9月の末、さらに山奥の寂光院に入った。寂光院の傍らに、約 3メートル四方の庵室を作り、一間を仏間と定め、昼夜朝夕の勤めに、常時不断の念仏を怠ることなく、月日を送った。
  今村紫紅 『 大原の奥 』 1909 (M42)  山種美術館
大原御幸 ( おおはら ごこう )
1186(文治二)年の夏、後白河法皇建礼門院 を訪ねる。徳大寺実定藤原兼雅、源通親 以下、公卿 6人、殿上人 8人、北面の武士が少々供奉した。
寂光院を訪れると、だいぶ経ってから、年老いた尼が一人出て来た。後白河法皇が「出家の常とはいうものの、仕える人もいないのは痛わしい」と告げると、尼は「肉身を捨てて浄土に往生しようと修行しておりますので、御身を惜しむことはありません。過去未来の因果を悟れば、少しも嘆くことはありません」と言う。後白河法皇は、その言葉に驚き「そもそも、汝は何者よ?」と問うと、尼は涙を抑えて、故 信西 の娘の 阿波内侍 だと言う。それには「なるほど」と、供奉していた公卿たちも納得した。
少しして、山の上から黒衣を着た尼が 2人、岩道をつたって降りて来た。しかし、2人は戻りかねている風であった。それが、建礼門院 と 大納言佐殿 である。建礼門院は「このような有り様をお見せすることの恥ずかしさよ」と、庵室に降りることもできずに立ち尽くしていた。

菊池契月 『 寂光院 』 1902 (M35)
長野県信濃美術館


  下村観山 『 大原之露 』 1900 (M33)

茨城県近代美術館

六道之沙汰 ( ろくどうの さた )
建礼門院 を迎えにいった 阿波内侍 の尼が、「何も苦しいことはございません。早々にご面会になり、お暇していただきましょう」と言ったので、建礼門院は庵室に入った。
後白河法皇 に対面した建礼門院は、「安徳天皇の菩提のために、朝夕の勤めを怠りません。これも、仏の道への善知識と思っています」と言う。後白河法皇 は「仏道修行の志があれば後生の極楽往生は疑いなかろう。が、そなたの有り様を見るに、やるせなく思う」と言った。
建礼門院が続けて口を開いた。
「わが身は平清盛の娘に生まれ、安徳天皇の国母になりましたので、国中が思うがままでした。ひたすら長生きすることばかりを祈っていました。富み栄えること、天上の果報もこれには勝るまいと思うほどでした。
ところが、寿永の秋の初めのこと、木曽義仲とやらを恐れて、平氏一門の人々が都を離れ、須磨から明石の浦を伝って行きました。身を寄せる場所も無く、五衰必滅の悲しみとはこのことかと覚えました。およそ人間に起こる事、愛別離苦・怨憎会苦、共に、わが身に知らされたのでした。さらに、筑前の大宰府というところで、緒方惟義とやらに九州を追い出され、休む場所もありませんでした。
10月に、平清経が海に身を投げたのが、憂き事のはじまりでした。浪の上で日を暮して船の中で夜を明かし、たまに食べ物があっても水が無いので食べられません。餓鬼道の苦しみとは、この事だと思いました。そうこうしているうちに、室山・水島の戦いに勝ち、少しは正気を取り戻したのですが、一の谷という所で一門の多くが滅ぼされた後は、親は子に死に遅れ、妻は夫と別れ、沖の釣り舟を敵かと肝を冷やし、松の白鷺を見ては源氏の白旗かと心配しました。
そして、門司・赤間の関で、もはや今日で最後と思われた時、二位の尼から『あなたは、何としても生き長らえて安徳天皇の後生を弔い、われらの後生を助けたまえ』と言われました。二位の尼は安徳天皇を抱いて『極楽浄土という、めでたい処へお連れします』と言って、海に沈まれました。その時のことは、忘れようとしても忘れることができず、忍ぼうと思っても忍ぶことができません。
さて、私は荒武者に捕らわれて都へ上る時、播磨の明石の浦に着いて、少しまどろみました。その時の夢に、かつての内裏よりもはるかに華々しい場所に、安徳天皇をはじめ、一門の公卿・殿上人の面々が、並び居ていました。『ここは何という所ですか?』と尋ねると、二位の尼が『竜宮城という所です』と答えました。『そこには、苦はないのですか?』と問うと、『竜宮経に書かれています。よくよく、後生を弔ってください』と言われ、そこで夢から覚めました。
その後は、ますます経を読み、念仏して、安徳天皇はじめ一門の菩提を弔っております。これ、六道の相そのままだと思われるのでございます」
そう建礼門院が話をすると、後白河法皇 は「異国の玄奘三蔵は悟りの前に六道を見たが、そなたが、それほどまでに六道を目の当たりにしたというのは、それは珍しいことよのう」と言った。
  下村観山 『 大原御幸 』(部分) 1908 (M41)  東京国立近代美術館

植中直斎 『 灌頂の巻 』 不明    京都国立近代美術館

女院死去 ( にょういん しきょ )
昔話をしているうちに、寂光院の鐘が日暮れを告げた。名残は尽きないのだが、後白河法皇 は涙を抑えて帰途についた。建礼門院 は押さえきれない涙を袖で止めつつ、後白河法皇 の姿を、はるか遠くまで見送った。
建礼門院はご本尊に向かい、「先帝聖霊、一門亡魂、成等正覚、頓証菩提」と泣きながら祈った。昔は東へ向って「伊勢大神宮、正八幡宮大菩薩、天子宝算、千秋万歳」と祈ったのだが、今は、西に向かって「過去聖霊、一仏浄土へ」と祈るのは、悲しいことである。
壇の浦で生け捕りにされた人々は、大路を渡されて首を刎ねられ、妻子と別れて遠流させられた。平頼盛 以外は誰も助からず、都に残れなかった。これは、平清盛が、上は天皇を恐れず、下は万民を顧みず、死罪・流罪を思うがままに行った報いである。されば、父祖の罪業は子孫に報うと言うのは、疑いのない事である。
このようにして建礼門院は年月を送った。そうして、病気となると、建礼門院は仏の手に掛けた 5色の糸を手にとって「南無西方極楽世界の教主、弥陀如来、必ず極楽浄土へ導きたまえ」と念仏した。
建礼門院の念仏の声がだんだんと弱まっていくや、西に紫雲がたなびき、異香が部屋に満ち、空に音楽が聞こえた。
1191(建久二年)2月中旬、建礼門院は、一生をついに終わらせた。



この巻の登場人物と他巻リンク

後白河法皇( ごしらかわ ほうおう )

建礼門院( けんれいもん いん )

平頼盛( たいらの よりもり )

 池の大納言。清盛の弟(忠盛の5男)
 灌頂巻.女院死去
 巻一.御輿振
 巻四.若宮出家
 巻七.一門都落
 巻十.三日平氏

大納言佐殿( だいなごん すけどの )

徳大寺実定(とくだいじ さねさだ)

藤原兼雅( ふじわらの かねまさ )

 花山院。平清盛の娘婿
 灌頂巻.大原御幸
 巻一.吾身栄花
 巻一.鹿谷
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