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平家物語(巻第六)と絵画

巻第六のダイジェスト & 絵画のページです。

巻第六
  1181(治承五/養和元)年 ~ 1183(寿永二)年 2月 新院崩御 ( しんいん ほうぎょ )
1181(治承五)年元日、内裏では何の祝賀行事も行われず、暗い正月であった。 高倉上皇 は一昨年来、並々ならぬ天下の大事続きで病気がちであったが、1月14日に、とうとう亡くなってしまった。享年 21歳。
紅葉 ( こうよう )
高倉上皇 には幼ない頃から帝王の素質があった。
高倉天皇 は紅葉を愛でていたが、10歳ほどの時のある朝、台風で散らされた紅葉の落葉を掃除の担当者がすべて掃き捨ててしまった。奉行の蔵人は、これはきついお叱りを受けると、相当ビビってしまったのだが、高倉天皇 は古歌を例に出して「優雅なことをしたものだ」と笑って済ませた。
また、ある夜中、遠くで人の叫び声がする。「何事か?」と確認しに行かせると、追いはぎに遭った少女が泣いていた。事の次第を聞いた 高倉天皇 は「堯の代、堯の心が素直だったので、民もみな素直だった。今の世、悪賢いものが世の中にいて罪を犯すのは、朕の恥だ」と嘆き、中宮 徳子 に言って、奪われた衣に代わる衣を与え、たくさんの武士を護衛につけて、主の女房の局まで送らせた。
葵前 ( あおいの まえ )
中宮 徳子 に出仕していた、ある女房の女童が、高倉天皇 の目に留まったことがあった。名前を という。そのため、女童の主の女房の方が、逆に、その童を主のように扱い、内々で「葵女御」などとささやくようになった。高倉天皇 は、それはよろしくないと思ったか、病気がちになり、葵 を遠ざけてしまった。それを知って恐縮した 葵 は里へ帰り、うち臥すこと数日にして死んでしまった。
小督 ( こごう )
葵 の前の死で思い沈んでいる 高倉天皇 を慰めようと、中宮 徳子小督 という女房を送る。この 小督 は、藤原隆房 が見初めた女房であり、隆房 に何度も口説かれて、ようやくその気になったところで、高倉天皇 に召されてしまった。小督 は、こうなった以上は、もう、隆房 が何と言ってこようと相手しないと決めたので、彼はより恋い焦がれてしまう。
この話を聞きつけた 清盛 は「高倉天皇も藤原隆房も、どちらも自分の娘婿だ。小督 という女房、なんちゅ~女、よくない」と、二人から遠ざけるよう命じた。それを聞いた 小督 は、高倉天皇 のために心苦しいと思い、ある夜、行方をくらましてしまった。高倉天皇 は、さらに寂しい思いをしたのであった。
8月10日、月の光をぼんやりと眺めていた 高倉天皇 は、弾正の大弼 仲国を呼び、「小督 が嵯峨の辺りに隠れているらしいので探してくれ」と頼む。仲国 が「主の名前も知らずに尋ねることはできません」と答えるも、思案の上「そうだ、琴の名手の 小督 は、こんな月夜には琴を弾くに違いないので、それでわかるかもしれない」と、馬に乗って出かける。
琴の音を頼りに、ほうぼうを探し回るも見当たらなかったのだが、ようやく、かすかに琴の音が聞こえてきた。仲国は腰から笛を取り出して少し吹いて近づき、その家の中に入る。高倉天皇 からの文を 小督 に渡すと、彼女は「明日から大原の奥へ行き、出家のつもり」と言う。仲国は 小督 に思い止まるよう説得した上で内裏に戻り、高倉天皇 へ報告する。
神坂雪佳 『 小督 』 1912-25 (大正期)

    京都市美術館


こうして 小督 は内裏に連れて還られる。高倉天皇 は 小督 を目立たぬ場所に隠した。そうして、しばらくして姫君が一人生まれた。

  尾形光琳 『 小督局図 』 江戸時代  畠山記念館
  木村武山 『 小督 』 1903-04 (M36-37)頃
  小林古径 『 小督 』 1901 (M34)頃  山種美術館

しかし、その後、小督 の存在に気づいた 清盛 は、とうとう捕らえて尼にし、追放してしまった。
後白河法皇 は二条天皇を亡くした後、この数年の間に 六条天皇、建春門院、以仁王、高倉上皇 と、立て続けに身内に先立たれてしまい、我が身の不幸を嘆き、沈んだようにしていた。
廻文 ( めぐらし ぶみ )
その頃、信濃に比類なき剛の者である 木曾義仲 という源氏がいた。義仲 は「頼朝が関東八か国を従えて平家を追討せんとしとる。我も東山道・北陸道を従えて平家を 1日も先に攻め落としたい」と思い立った。そのための回覧文書を出すと、根井行親 が同意し、信濃・上野の兵たちが、源氏再興を願って義仲 に加わった。
飛脚到来 ( ひきゃく とうらい )
2月9日、河内の 源義基源義兼 が頼朝方に付く動きが見られたので、平家が討伐を行った。大将軍に 源季貞、平盛澄 で河内の国へ向かった。源義基 は討ち死にし、源義兼 が生け捕りにされた。
源義基 の首が朱雀大路を引き回された翌日の 2月12日、九州の者すべてが平家に背き、源氏に同心したという飛脚が、九州に住む宇佐大宮司の公通(きんみち)から届いた。
4日後の 2月16日、今度は伊予から飛脚が着く。伊予の住人 河野通清 が平家に背いたため、備後の入道・額西寂( ぬかの さいじゃく )が伊予に攻め入り、通清 を討ち取った。が、通清の子 河野通信 がリベンジで、西寂を磔にして殺したと。
入道死去 ( にゅうどう しきょ )
その後、四国の者たちは 河野通信 に従ったとのことである。さらには、熊野の 湛増 が、以人王の乱の際にはいち早く平家へ忠義を果たというのに、急に源氏に同心したと噂された。世が乱れ失われようとしている事を、平家一門でなくとも、心ある人は嘆き悲しんだ。
平宗盛 は富士川での失態を挽回するために、自ら出陣すると準備を進めた。ところが、2月28日、清盛 の様態が急に重くなり、宗盛 は出発を中止。清盛 は、ひどい熱病に襲われ、10メートル内に近づくこともできないくらい熱くなっていた。
「熱い、熱い」と、熱にうなされる 清盛 を見るに見かねた 平時子 が「少しでも意識があるうちに、言いたい事があれば、何か」と訊ねると、清盛 は「何もやり残したことは無い。ただ一つ、源頼朝の首を見ていないことが不愉快だ。すぐ東国に討手を遣わし、頼朝の首を刎ねて、わが墓前に掛けよ。それこそ、後生の供養だ」と告げた。
閏2月4日、平清盛 は悶絶しながら死した。享年 64歳。 葬儀が行われ、遺骨は摂津の国、経の島に納められた。日本中に威を振った人なるも、身はひとときの煙となり、屍は浜の砂に戯れて空しき土となった。
築島 ( つきしま )
この、経の島は、1161(應保元)年に着工するも、突然の大波で全部流されてしまった。1163(應保三)年、阿波民部重能 が奉行となり再開。その際に「人柱を立てるべきか」という話が出たが、それは罪深い事だと、石の表面に一切経を書いて沈めた。そのため、経の島と言う。
滋心房 ( じしんぼう )
ある人が言うには、平清盛滋恵僧正 の生まれ変わりという。
摂津の清澄寺に 滋心坊尊恵 という人が、1172(承安二)年12月25日の夜、読経中に夢とも現ともないトランス状態に陥ると、閻魔庁の使者が迎えに来て「十万の僧による法華経の転読」のためにと、車に乗せられて空を飛んでいった。
法要後、尊恵は、この際にと、後生の事を 閻魔大王 に伺いに行った。閻魔大王は「極楽浄土に往生できるか否かは、信じる/信じないにある」と答えた。 その際に、尊恵 が 清盛が信心深いことを紹介すると、閻魔大王は「その、平清盛は、実は 滋恵僧正 の生まれ変わりである。天台の仏法を護持するため日本に再び生まれたのだ」と告げたというのである。
祇園女御 ( ぎおん にょうご )
また、ある人によると、平清盛 は、本当は 白河院 の子であると云う。祇園女御 という 白河院 の寵愛を受けた女御を 忠盛 がもらい受けたのだが、その時、彼女は妊娠していた。白河院 は「産まれる子が女ならば朕の子に、男ならば 忠盛 が弓矢を取る者に育てよ」と告げた。そして、果たして産まれてきたのは男の子であった。この子は夜泣きがひどいというので、白河院 は 忠盛 に一首を与えた。
  夜泣すと ただもり立てよ 末の代に 清くさかふる こともこそあれ
これにより、「清盛」 と呼ばれるようになったというのである。
平清盛 が死去して、いろいろな変化が起きた。
2月22日、後白河法皇 は数年ぶりに法住寺殿へ戻る。
3月1日、南都の僧都たちが皆、赦されて本官に復帰した。
3月3日、大仏殿再建の事はじめが行われた。
3月10日、源行家、源頼朝の弟 義円 が尾張まで攻め上ってきた。平家は、平知盛平清経平有盛 を大将軍に、急ぎ打ち手を出す。源義円 は深入りして平家に討たれた。源行家 も、家の子・郎党らを多く討たれ三河の国まで退くが、ここでも敗れる。平家はさらに攻め込めたのだが、平知盛 が病気になったので兵を引いた。
嗄声 ( しわがれ ごえ )
6月16日、越後の 城助長 が 木曾義仲 討伐に出兵する前夜、夜中に急に豪雨となり、晴れたかと思いきや、虚空に嗄声で「東大寺大仏を焼き滅ぼした平家に味方するもの、召し取ってしまえ」と、3回叫んで通り過ぎた。それを聞いた兵たちは、身の毛がよだった。夜が明けて不安のまま出陣したが、2キロばかり行った所で再び黒雲が覆いかぶさり、城助長 は落馬。数時間後に死んでしまう。
7月14日、改元があり、養和となった。その日、大赦があり、2年前に流された 藤原基房藤原師長・源資賢が帰洛することになった。
横田河原合戦 ( よこたがわらの かっせん )
12月24日、中宮 徳子 に号が与えられ、建礼門院 と言われた。天皇が未だ幼少の時に、母后に院号が与えられるのは、これが初めてのことである。
翌年、1182(養和二)年3月10日、除目が行われ、平家の人々はおおむね昇進した。5月24日に改元があり、寿永と号した。
9月2日、前年死去した 城助長 の弟である 城長茂 が 木曾義仲 追討のため出兵し、信濃の横田河原に陣を取る。しかし、義仲軍に攻め込まれ、多くの兵が討たれ、城長茂 も命からがら逃げ帰る。
そんな状況だというのに、都では、平宗盛 は、10月3日には内大臣に、翌1183(寿永二)年2月21日には従一位に昇進する。 興福寺や延暦寺の僧徒から伊勢神宮の祭主・神官に至るまで、全員が平家に背き源氏に心を通わせている状況にあって、平家は諸国へ院宣を遣わすも、これ、みな平家による通知であると見なされ、誰も従わなくなっていた。




この巻の登場人物と他巻リンク

後白河法皇( ごしらかわ ほうおう )

高倉天皇( たかくら てんのう )

建礼門院( けんれいもん いん )

平清盛( たいらの きよもり )

平時子( たいらの ときこ )

平清経( たいらの きよつね )

 左中将。平重盛の3男
 巻六.祇園女御
 巻七.一門都落
 巻八.大宰府落

平有盛( たいらの ありもり )

平宗盛( たいらの むねもり )

平知盛( たいらの とももり )

阿波民部重能(あわのみんぶしげよし)

 田口成能。阿波の豪族
 巻六.築島

湛増( たんぞう )

藤原隆房( ふじわらの たかふさ )

 少将、冷泉卿。平清盛の娘婿
 巻六.小督
 巻一.吾身栄花

藤原師長( ふじわらの もろなが )

 前太政大臣。妙音院
 巻六.嗄声
 巻一.鹿谷
 巻三.大臣流罪
 巻五.文学被流

藤原基房( ふじわらの もとふさ )

木曾義仲( きそ よしなか )

根井行親( ねのい ゆきちか )

源行家( みなもとの ゆきいえ )

源義基( みなもとの よしもと )

 武蔵権守入道、河内源氏
 巻六.飛脚到来
 巻四.源氏揃

源義兼( みなもとの よしかね )

 石川判官代、河内源氏
 巻六.飛脚到来
 巻四.源氏揃

河野通信( かわの みちのぶ )

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