■ 巻第七
1183(寿永二)年 3月~7月
清水冠者 ( しみずの かんじゃ )
1183(寿永二)年3月上旬、
木曾義仲 に謀反の意志ありと、
源頼朝 は信濃の善光寺まで出兵する。慌てた 義仲 は、
今井兼平 を使者にして、頼朝 に他意のないことを伝えるも信用してもらえない。頼朝 は、
土肥実平 と
梶原景時 に攻めさせるという。義仲 は恐れ、11歳になる嫡子の 清水冠者 源義重 に数名の強者を付けて 頼朝の許へ送った。これで、ようやく、頼朝 は納得し「義重をわが子にしよう」と鎌倉へ連れて帰った。
北国下向 ( ほっこく げこう )
平家は西国の武士を集めて兵力を付け、まず、
木曾義仲 を討つべしとの戦略の下、大軍を北陸へ向けることにした。4月17日、以下の構成の軍が都を出発する。
竹生島詣 ( ちくぶしま もうで )
平経正 は詩歌・管弦に長じた人であったので、この戦乱の中でも心を澄ませ、琵琶湖のほとりに立って沖を見渡し竹生島を見付けるや、小舟を出して渡って行った。経正 は弁財天の前で静かに経を誦する。
そのうち日が暮れると、常住の僧が琵琶を出してきたので、「上玄・石上」の秘曲を弾いた。すると、あら不思議、経正 の袖の上に白龍が姿を現したのである。経正 は「凶徒を攻め落とすこと疑いなし」と悦び、竹生島を後にした。
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鈴木守一『 平経正弾琵琶図屏風 』 江戸時代 ファインバーグ・コレクション
火打合戦 ( ひうち かっせん )
平家の進行に対し、信濃に居る
木曾義仲 は越前の火打が城を強化させる。この城は四方を高い山に囲まれ、前には二つの川がある。この両川が流れ込む所に堰を作ってダム湖のようにしたため、平家は攻めあぐねていた。城内に居た平泉寺の
斎明 という平家支持者が矢を射て「これは最近作られた人造湖。柵を壊せば水は引く」と密告する。平家方はラッキー!とばかりに、夜になったら早速、柵を切り落として水が引くのを見るや、一斉に川を渡って城内に攻め込み、勝利した。
5月8日、平家は加賀の篠原に勢揃いし、ここで軍勢を大手と搦手に分ける。
大手 → 加賀越中の境にある砥浪山(となみやま)へ
大将軍:
平維盛、
平通盛
侍大将:
平盛俊
搦手 → 能登越中の境にある志保山へ
大将軍:
平忠度、
平知度
侍大将:
武蔵有国
一方、平家の動きの情報を得た 木曾義仲 は、平家の大手が目指す砥浪山へ向かい、
源行家 の軍、仁科・高梨・山田次郎の軍、
樋口兼光・
落合兼行 の軍、伏兵、
今井兼平 の軍、木曾義仲の軍とに分ける。
願書 ( がんじょ )
木曾義仲 は「ここは四方が岩で、よもや搦め手は来ねぇと思うはずずら。山中に馬を休めっだろから、小出しに攻めてそこに待機させておいて、暗くなったら東南の倶利伽羅谷に一気に追いおっことす」という戦略を伝える。
合戦を前に、義仲 が四方を見渡すと遠くに神社が見える。調べると、それは源氏の氏神といえる八幡宮であった。義仲 は喜び、
覚明 に願書を書かせ、宝殿に納めた。すると、その時、山鳩が 3羽、源氏の白旗の上を飛び回った。吉兆である。
この 覚明 は、以仁王が三井寺に入り興福寺へ協力依頼した際に、返状を書いた僧。平清盛をさんざん扱き下ろす文を書いたため、清盛に睨まれ北国へ逃げていたが、その後、義仲 の右筆となり、覚明 と名乗るようになった。
倶利伽羅落 ( くりから おとし )
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源平両陣が、距離わずか 300メートルぐらいの所で相対。源氏側は兵を小出しにして時間稼ぎをする。そうしているうちに、平家の背後で源氏の搦め手の大軍が押し寄せてきた。と思いきや、正面の 木曾義仲 軍も攻めてくる。次第に辺りが暗くなる中、前後から敵は攻め込まれた平家の陣は崩れ始めた。立て直す間もなく、全軍が倶利伽羅の谷へ我先にと落ちていったのである。馬の上に人が落ち、人の上に馬が落ち、深い谷が平家の死体で埋め尽くされてしまった。
平家の侍大将、伊藤忠綱、伊藤景高、河内秀国 が谷底に落ちて死亡。瀬尾兼康 は、倉光成澄 に生け捕りにされた。火打ち城で裏切った平泉寺の 斎明 も捕えられ、即刻、首を刎ねられてしまった。
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『 平家物語図屏風 』 倶利伽羅落 神奈川県立博物館
大将軍の
平維盛 と
平通盛 はからくも助かり、加賀の国に退いた。平家軍のほとんどが壊滅してしまったのである。
翌日、木曾義仲 は苦戦していた
源行家 の志保山の戦いの援軍に向かう。ココで、義仲軍は火が出るような猛攻をかけ、平家軍は防ぎきれずに退却。大将軍
平知度 が討たれた。
篠原合戦 ( しのはら かっせん )
3年前の石橋山の戦において
源頼朝 を攻めた武士たちは皆、平家方に付いていた。その中の一人、
斎藤実盛 は酒盛りの場にて仲間たちに、わざと「時流は源氏だぁ、木曾方につこう」と問うた。しかし、翌日、周りの者たちは「我ら、東国では名の知れた者。有利な方にコロコロ変えて付くのは見苦しいべ。あくまでも平家に付いて討ち死にする」と言い、全員一致で、そう決定になった。
平家の軍勢は、加賀の篠原に退いていたが、5月20日、ここに、
木曾義仲 軍が攻め込む。まず、源氏からは
今井兼平 軍、平家からは
畠山重能 らの軍が対決。双方、死闘の上、平家方は引く。
次に、源氏方から
樋口兼光、
落合兼行 の兵。平家方から
高橋長綱 の兵が戦うも、当軍は各地からの寄せ集めのため逃げ出してしまい、長綱 は、ただ一騎で落ちていた。そこに 入善行重 が馬を駆って並んで組むも、行重は 長綱 に押さえ込まれてしまう。問えば「越中国の住人、入善小太郎行重、生年18歳」と名乗る。長綱 は、自分の子も生きていれば 18だったと、涙を浮かべ赦してやった。長綱 が味方を待つ間、休んでいると、行重 は 長綱 が目を逸らせた隙に刺し殺してしまった。
続いて、平家方から
武蔵有国 が突進してきた。源氏からは、仁科・高梨・山田次郎の兵が迎え撃つ。有国 はあまりに深入りしてしまったので、矢も尽きて、馬を射られ徒歩となり、太刀を抜いて戦った。しかし、矢を7、8本も受け、立ったまま死んでしまった。
真盛 ( さねもり )
平家軍が総崩れになり落ちていく中で、
斎藤実盛 は、ただ一騎で引き返しては戦いつつ後退していたが、義仲軍の 手塚光盛 が進み出て、ついに討ち取る。
光盛が 実盛 の首を
木曾義仲 に持ってくると、義仲 は「こりゃ、実盛の爺っちゃんではねぇか? もう 70超えて白髪のはずなのに、なんで、びん髭が黒いんだ?」と問う。
樋口兼光 によると「以前、彼は『60を超えて戦に向かう時は、びん髭を黒く染めて若返るつもりだ。若者と先駆けを争うのは大人げないし、老武者と侮り受けるのも口惜しい』と言っていた」との事。果たして、首を洗わせてみると白髪であった。
かくして、北国への出兵で、平家は当初の 4/5もの兵を失ってしまう。
還亡 ( げんぼう )
伊藤忠清、
伊藤景家 は一昨年、平清盛が死んだ時に共に出家していたが、今回の北国の下向で、子の 忠綱 と 景高 が討たれたと聞き、嘆き死にしてしまった。
6月1日、今度の戦乱が静まったら伊勢神宮へ御幸あるということになった。伊勢神宮は、崇神天皇の時代に、大和の笠縫の里から伊勢 度会郡五十鈴の河上の地に、地中深く神殿の大宮柱を建て崇めてからこの方、日本全国の中でも別格。しかし、歴代の天皇の御幸は無かった。
聖武天皇の時代に藤原広嗣が肥前で反乱を起こした時、その追討のために初めて天皇の伊勢神宮御幸があった。広嗣は負けたが、その後、亡霊が暴れて、常々、恐ろしいことがあった。翌年、藤原広嗣の亡霊を鎮めるために、玄昉僧正を導師に供養が行われた。玄昉が高座に上ると、急に曇って落雷するや、玄昉の首が雲の中に吸い込まれていった。この僧は吉備真備が渡唐の際に同行し、法相宗を持ち帰った人。唐の人が「玄昉とは『還亡』と音が同じ。後々、難に遭うだろう」と占ったと云う。翌年「玄昉」と書かれたしゃれこうべが興福寺の庭に落ちてきた。このような事が起き、藤原広嗣の亡霊は崇められるようになった。
木曾山門牒状 ( きそ さんもん ちょうじょう )
木曾義仲 は、越前の国府に到着。家の子・郎党を集めて評定する。「近江を抜けて都へ上ろうと思うが、比叡山延暦寺が邪魔をすることが考えられっべ。蹴散らすのは簡単だが、今は平家が寺を滅ぼす悪行を阻止するために上洛せんとしてるんだから、延暦寺と戦えば平家の二の舞になっちまう。さて、どうすっべか。。」
祐筆の
覚明 が進み出て「延暦寺には 3千人いますが、必ずしも皆が一枚岩なわけではありません。まずは、牒状を出しては如何?」と言う。さればと、「天台の宗徒は、平家と源氏、どちらに協力するのか?」という牒状を 覚明 に書かせて延暦寺へ送った。6月10日
返牒 ( へんちょう )
当初、延暦寺の各僧たちの意見はまちまちであった。しかし、老僧たちが詮議し意見をまとめた結果、「我々は修学賛仰の勤行をしばらく中止し、悪行を行う平家を罰する官軍を助けん」と返事した。 7月2日
平家山門連署 ( へいけ さんもんへの れんじょ )
平家側も「味方してほしい」との願書を延暦寺へ送っている。しかし、
明雲 も力及ばず、既に源氏に協力するとの返牒を送っている以上、軽々しく翻すこともできず、延暦寺は平家の願書を受け入れなかったのである。7月5日
主上都落 ( しゅしょうの みやこおち )
7月14日、
平貞能 が九州を平定し、
菊池高直、原田種直、松浦党など 3千騎を引き連れて上洛。
しかし、7月22日の夜半に、木曾の
楯親忠 と
覚明 が、比叡山の僧と共に都に討ち入って来るという情報が入るや、平家側は大慌てする。
平知盛 と
平重衡 が山科に陣取り、
平通盛 と
平教経 が宇治橋を、
平行盛 と
平忠度 が淀路を固めるも、
源行家 が宇治橋から攻め込み、
矢田義清 も都へ乱入すると噂されたため、一旦、兵を都へ呼び戻す。7月24日の夜更け、
平宗盛 は
建礼門院 の許へ行き「後白河法皇と安徳天皇を奉じて、西国へ逃げていただきたい」と告げた。
ところが、その混乱の隙に、
後白河法皇 は密かに法住寺殿を出て、行方をくらませてしまったのである。後白河法皇 に見放された平家は、慌て落胆するが、ともかくもと、
安徳天皇 を連れ出し、
三種の神器* の "八咫鏡" と "八尺瓊勾玉" と "草薙の剣" を持ち出した。
平時忠 は「天皇の法印・時刻札・琵琶の『玄上』『鈴鹿』など忘れるな」と下知するも、みな慌てふためいていたので、清涼殿に置かれていた御剣などは置き忘れられた。
藤原基通 も一旦は供奉したが、途中で車を返して北山付近の知足院へ逃げ隠れる。
維盛都落 ( これもりの みやこおち )
平維盛 には、
六代御前 という 10歳の若君と 8歳の姫君がいた。
維盛の北の方 は「共に都から落ちて行く」と言ったが、維盛 は頑として許さなかった。「たとえ自分が死んでも出家してはならない。どんな人とでも再婚して、幼い子供たちを育ててくれ」と。北の方は「前世からの契りがあったからこそ、一緒になったというのに」と、恨めし気に告げる。維盛 は「落ち着いたら迎えを出す」となだめた上で、斎藤実盛 の子である
斎藤五 と
斎藤六 に後の者たちを託し、屋敷を後にした。
平家は都落ちの際、六波羅殿、池殿、小松殿、八条殿、西八条殿など一門の屋敷 20か所余りの他、臣下の家々、京白川の民家に火をかけ、一度に焼き払った。
聖主臨幸 ( せいしゅ りんこう )
これらの屋敷は、かつて皇居にもなっていた場所だが、空しく灰燼と化した。
禁裏警護の大番役で在京していた
畠山重能、小山田有重、宇都宮朝綱は、保元の乱で捕まり、30年近く平家に仕えていた。
平知盛 が「もし、平家の運が開けて再び都へ戻る時があれば、恩を残すことにもなりましょう」と
宗盛 に進言し、解放して東国へ行かせることにした。彼らは「どこまでも、お供します」と願い出たものの、宗盛 は「お前らの魂は皆東国にあり、抜け殻だけを西国へ連れて行っても仕方ない。早く行け」と言った。
忠教都落 ( ただのりの みやこおち )
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都落ちする中、平忠度 は一度戻り、藤原俊成の屋敷にやってきた。忠度 は、日頃詠んだ歌の中から選んだ 100首ばかりを「今後、世が静まって、撰集の勅命があれば、選んでいただければ」、と俊成に渡した。
その後、世が静まり、勅撰和歌集の撰集があった。俊成は、忠度 が朝敵となり名前が出せないため、「読み人知らず」として「故郷の花」という一首を載せた。
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菊池契月 『 忠度 』 1939 (S14)
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経正都落 ( つねまさの みやこおち )
平経正 は、幼少の時、守覚法親王に仕えていた。都落ちの際に仁和寺へ馳せ戻り、「先年に賜った『青山』を持って参りました。このような宝を田舎の塵にしてしまうのは悔しく、もし、運が開けて都を帰ることがありましたら、その時、改めてください」と、泣く泣く、その秘宝の琵琶を差し出した。
青山之沙汰 ( せいざんの さた )
「青山」という琵琶は、仁明天皇の時代に「玄象」と共に唐から伝えられた秘宝である。後年、村上天皇が「玄上」を弾いていると、その秘曲を伝えた唐の廉承武(れんしょうふ)の亡霊が現れ、「3秘曲のうち 1曲を伝え残したので、それを伝えたい」と、この「青山」を取り、秘曲を村上天皇に授けた。
という事があって、皆「青山」を恐れて、誰も手にする者がおらず、仁和寺の御室の御所へ置かれていたのだが、平経正 に預けられたということである。
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菊池契月 『 経政 』 1926 (T15)
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京都市美術館
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一門都落 ( いちもんの みやこおち )
平頼盛 も、一旦、都を出たのだが、しかし、途中で「忘れた事がある」と言って、平家を見捨てて都へ戻って行った。
平盛嗣 なんかは頭に来て「侍どもに矢のひとつも射掛けたい」と
平宗盛 に言うも、彼は「平家を見捨てようという不埒者など放っておけ」と告げた。
平知盛 は「都の内に留まってなんとかしましょうと、あれほど言ったのに」と、宗盛 へ恨めしげな視線を送る。
平頼盛が離脱したのは、
源頼朝 が「頼盛は自分を救ってくれた 故 池禅尼の子であるので、身の保障をする」と事前に何度も言っていたからある。
そうして、
平維盛 の兄弟 6人が、淀の六田河原で、
安徳天皇 の行幸に追い付く。落ち行く面々は、
落ちていく際、平時忠 は石清水八幡宮の方角へ伏し拝み、「南無帰命頂礼八幡大菩薩、
安徳天皇 をはじめ、我らを都へ帰し入れさせ給え」と祈った。
西国に詳しい
平貞能 は「西国へ下れば討ち取られてしまう。主従の絆を解いて、都で戦う」と、都に留った。その後、平重盛の墓を掘り起して遺骨を高野山に送り、そして、東国へ落ちて行ってしまった。
福原落 ( ふくはら おち )
京を捨てた平家は旧都福原に到着した。
平宗盛 は皆の前で、「十善の帝王・三種の神器を奉じて西国へ下るうえは、いかいかなる場所へとも、行幸お供つかまつる」と宣言した。翌朝、平家は福原に火を掛け、
安徳天皇 をはじめ、人々は皆、船に乗った。
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菊池契月 『 福原故事 』
1899 (M32) 中野市
1183(寿永二)年の7月25日、平家は完全に都を落ち果てた。