■ 巻第九
1184(寿永三)年 1~2月
生ズキノ沙汰 ( いけズキノ さた )
1184(寿永三)年の元日、宮中でも、屋島の平家でも正月の儀式は何も行われなかった。春が来たというのに、平家は氷に閉じ込められたような心地であった。
1月11日、
木曾義仲 は参院し、
後白河法皇 から平家追討の承認を得る。しかし、13日、
源範頼 と
源義経 の大軍が既に美濃、伊勢に到着したという報告が入り、義仲 は慌てる。兵たちは国へ帰って、手元に大軍が無かったのである。勢多橋に
今井兼平、宇治橋に仁科・高梨・山田次郎、いもあらいに
信太義憲 の軍を配する。
当時、
源頼朝 は「いけずき」「する墨」という名馬を持っていた。
梶原景季 が「いけずき」を所望すると、頼朝 は「する墨」の方を与える。ところが、その後、頼朝 は「いけずき」を
佐々木高綱 に与えた。京への進軍途中、高綱 が「いけずき」を得ている事を知った 景季 は悔しがり「佐々木と差し違えてやる」とまで思い詰めてしまった。待ち構える 景季 の所に 高綱 が現れ、呼び止められると、高綱 は「これは賜ったのではなく、盗んできたのだ」と嘘を言って逃れる。これに 景季 は「げっ、うそー、俺も盗めゃぁよかった」と大笑いして去っていった。
宇治川先陣 ( うじがわの せんじん )
佐々木高綱 が賜った馬は、そばに寄る者は馬でも人でも噛みついたので「いけずき」と名付けられた。1.5メートルの巨漢。
梶原景季 が与えられた馬は、黒々としていたので「する墨」と云った。いずれも劣らぬ名馬であった。
※
菊池契月 『 紫騮 』
1942 (S17)
□
京都市美術館
紫騮とは黒々とした色のこと。
木曾義仲追討軍は、尾張から二手に分かれる。
・大手 → 近江の野路篠原へ
・搦め手 → 伊賀の国から宇治橋へ
正月20日の明け方、宇治川は水嵩が増して急流となり、濃い霧が立ち込めていた。源義経 が「迂回すべきか、水量が減るのを待つべきか?」と配下の士気を問うと、
畠山重忠 が進み出て「以仁王の宇治合戦の際に 足利忠綱 が渡れたのだから渡れないことはない。自分がまず確かめる」と言う。と、その時、その横を 梶原景季 と 佐々木高綱 が先駆けを争い、馬に乗り川に向かって突っ込んでいった。佐々木高綱 が「梶原殿、腹帯が緩んでいるようです。お締め下さい」と声をかけると、少し先を行く 景季 は、それに気を取られ腹帯を結び直す。その間に 高綱 が 景季 の脇を抜けて川を進むと、景季 は「やられた」と、すぐに続いて突進していった。
※
曾我蕭白 『 宇治川合戦図屏風 』 江戸時代 ファインバーグコレクション
佐々木高綱 は太刀を抜いて川底に仕掛けられた大綱をブチブチと切りながら、急流の中を真っ直ぐに進んでいく。対岸に上がるや「佐々木四朗高綱、宇治川の先陣ぞや!」と大音声をあげた。景季 の「する墨」は途中から押し流され、はるか下流で上陸した。
畠山重忠 の 500騎も宇治川に入る。重忠 は途中で馬が射られたので、水底をくぐって歩いて渡った。岸に上がろうとすると後ろを掴まれている。聞くと、大串重親 であった。彼も馬を流され 重忠 の後ろを着いてきていたのである。重忠 は「困った奴っちゃなぁ」と、大串 を対岸にほうり投げた。彼が「大串次郎重親、宇治川の歩きの先陣ぞ」と名乗ると、敵も味方もどっと笑った。こうして、源義経 に率いられた東国の大軍が勝利する。
河原合戦 ( かわら かっせん )
宇治橋、勢田橋が破られてしまったので、
木曾義仲 はすぐにでも逃げるべきなのに、どうしたわけか、最近見初めた女房の所へ入ってしまった。何をしているのか、なかなか出てこない。新参の家来の 越後中太家光 という者が「軍兵を犬死させる気ですか」と怒り、その場で腹を切ってしまう。これに、義仲は、やっと出て来た。義仲の軍勢は僅か 100騎ばかりであった。
源義経 は戦いを軍兵に任せ、
後白河法皇 の許へ駆けつける。後白河法皇は喜び、名乗るように言うと、義経 に続いて、
安田義定、
畠山重忠、
梶原景季、
佐々木高綱、渋谷重資、それぞれが名乗った。そして、御所を守るよう命ぜられる。
その頃、木曾義仲 は賀茂河原を北に落ちて行っていた。「兼平とは、死ぬ時は同じとこでと契り合った。いま一度、捜してみず」と、たびたび敵に襲われながらも、
今井兼平 を探して賀茂川を渡り、粟田口、松坂に差し掛かった。
木曾最期 ( きその さいご )
一方、
今井兼平 も
木曾義仲 のことが気がかりで都へ向かっていた。義仲 と 兼平 は大津の打出の浜で行き合う。「味方が辺りに散らばってるかもしれねぇ」と、旗を揚げると 300騎ばかりが集まってきた。
義仲 は、近くに見える
一条忠頼 の軍勢に向かって「義仲を討って、頼朝への土産にしろ」と大音声をあげる。一条忠頼 はそれを聞き「大将軍だ。逃がすな、討てー!」と大勢で向かっていた。義仲 は敵の中に斬り込み、さんざんに戦ったが、一条忠頼軍のバックには
土肥実平 の軍もあり、残り 5騎までになってしまった。
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義仲 は信濃から、巴 という、色白で髪が長く容姿美麗な、一騎当千の女武者を連れていた。義仲 は 巴 を呼び「おめは女だもんで、どこへでも落ちて行け」と告げる。巴 は、すぐには立ち去らず、「最後のいくさをお見せします」と言って、敵の 恩田師重 という怪力の者の騎の中へ割って入り、首をねじ斬って捨て、そして、甲冑を脱ぎ捨てて東国へ落ちていった。
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尾竹国観 『 巴 』 1930 (S05)
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こうして、とうとう、義仲 と 兼平 の 2騎だけとなった。「日頃は何ともねぇ鎧が、今日は重い」と 義仲 が告げると、兼平 は「弓矢取る者が最後に不覚を取れば末代までの恥。あの松原の入って静かに自害なされ」と涙を流して懇願する。義仲 は「そこまで言うなら」と、粟津の松原へ駆けて行った。
時は正月21日の日没頃、田に薄い氷が張ってた。義仲 が馬を田に入れると、泥の中に馬が頭まで埋まり、身動きが取れなくなってしまった。そこに、相模の住人 石田為久 が追いつき矢を放つや、義仲 は討たれ首をあげられる。その音声が聞えた 兼平 は「もはやこれまで。日本一の剛の者の自害の手本を見よ」と告げ、太刀の先を口に入れて馬からまっ逆さまに飛び降り、太刀に貫かれて死んだ。
※
『 木曾義仲合戦図 』
1622-44 (寛永期)頃
千葉市美術館
樋口被討罰 ( ひぐちの ちゅうばつ せられ )
その頃、
樋口兼光 は
源行家 を討ち漏らして都へ戻っていたが、途中で、
木曾義仲 が討たれ
今井兼平 も自害したことを知る。兼光 は弟の 兼平 を追って討ち死にしようと、少数を連れて都に入るが、縁故のあった児玉党に説得されて降人となる。その後、
源範頼 と
源義経 が
後白河法皇 へ助命の伺いを立てたのだが、「今井・樋口・楯・根井という 義仲 の四天王の一人であり、法住寺殿攻略の罪人だから許されない」と、結局、死罪となった。
22日、新摂政
藤原師家 が、わずか60日で官職を停止され、
藤原基通 が摂政に復帰。24日、木曾義仲 と 今井兼平、
根井行親 ら 5人の郎党の首が大路を引き回された。樋口兼光 は首といっしょに大路を渡され、翌日、斬られた。
一方の平家は、1183(寿永二)年の冬から、讃岐の屋島を出て摂津の難波に渡り、西は一の谷に城郭を構え、東は生田の森を擁壁の入り口にした。そして、福原、兵庫、板宿、須磨に籠る軍勢、山陽道 8か国、南海道 6か国、都合 14か国を討ち従えて、勢力を盛り返してきた。
六ケ度軍 ( ろくかどの いくさ )
平家が一の谷へ渡ると、四国の者たちが次々と離反。「なんと恩義の無い奴らだ」と、
平教経 は激怒する。
1. |
阿波・讃岐の地方役人たちが源氏に付く前に、ちょっと、平家を攻めてみると、 教経 に猛反撃されて潰走。
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2.
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淡路の源氏、義嗣 と 義久 も 平教経 に攻められ、義嗣 は討ち死、義久 は生け捕りにされる。
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3.
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伊予の 河野通信 と 沼田次郎 が立てこもる沼田城を 平通盛 と 平教経 が攻撃すると、沼田次郎 は降参。河野通信 は最後まで抵抗し、逃げ切った。
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4.
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阿波の 安摩忠景 も平家に背き、大舟2艘に兵糧米等を積み、都を目指した。教経 の船団がこれを攻撃し、安摩忠景 は和泉の浦に逃げた。
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5.
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これに、紀伊の 園辺忠康 が支援に向かうと、教経 に手痛く攻められて敗走。教経は、残党の 200人ほどの首を斬り、福原へ戻った。
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6.
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さらに、河野通信・豊後の 臼杵惟隆・緒方惟義 が連合軍となり、備後の今木城に立て籠もった。平教経 が攻めると、連合軍は解散し、自国へ戻った。
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平家一門は、教経 の毎度の功績に感激したのであった。
三草勢揃 ( みくさ せいぞろえ )
正月29日、
源範頼 と
源義経 が参院すると、
後白河法皇 から「三種の神器を無事に都へ戻すように」との指示があった。2月4日、この日、源氏は福原を攻めようとしていたが、清盛の命日なので中止となった。福原では、形式どおりに法要が行われた。そして、7日の 6:00に一の谷の東西にて開戦と決められた。
大手 → 摂津国昆陽野に布陣
大将軍:
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源範頼
武田信義、加賀見遠光、加賀見長清、山名範義、山名義行
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侍大将:
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梶原景時、梶原景季、梶原景高、梶原景家
稲毛重成、榛谷重朝、榛谷行重、小山朝政、中沼宗政、結城朝光
佐貫広綱、小野寺道綱、曾我資信、中村時経、江戸重春、玉井資景
大河津広行、庄忠家、庄高家、勝大行平、久下重光、
河原高直、河原盛直、藤田行保
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搦め手 → 丹波と播磨の境の三草山の東の登り口である「小野原」に布陣
義経軍は、2日かかる行程を1日で強行し、三草山の東の登り口に着いた。
三草合戦 ( みくさ かっせん )
一方、平家は三草山の西の登り口に陣を取る。
大将軍:
平資盛、
平有盛、
平忠房、
平師盛
侍大将: 伊賀清家、海老盛方
平家方では、その夜、いくさは明日だろうと思い込み、「よく寝て、明日のいくさに備えよ」と、先陣は用心する者がいたものの、後陣は寝てしまっていた。
ところが、
源義経 は、
土肥実平 や 田代信綱 らの侍大将と軍議し、夜討ち決行と決定する。三里の山を越え、夜半ばかりに三草山の西の登り口に押し寄せ、攻め込んだ。夜襲をかけられた平家はあわてふためき敗退。平資盛・平有盛・平忠房 は屋島へ逃げ、平師盛は、伊賀清家・海老盛方 を連れて一の谷へ逃れた。
老馬 ( ろうば )
三草山の搦め手が破られたため、
平宗盛 が山の手防御を指示するも、皆、尻ごみする。再び、
平教経 に依頼された。教経 は
平通盛 と
平盛俊 と共に、一の谷の後ろ、鵯越のふもとである山の手へと向かった。通盛 が北の方を呼んで最後の名残を惜しんでいると、教経は「戦を前に何を呑気な!」と激怒した。
2月5日の日暮れ、
源義経 軍は徐々に生田の森へ近づいてくる。2月6日の曙、
土肥実平軍を一の谷の西の木戸口へ、義経 は自ら、一の谷の後ろにある鵯越から奇襲をかけようと、丹波路から搦め手へ向かった。「険しい山道の案内者はいないのか」と皆が心配していると、武蔵の住人で18歳の 別所清重 が進み出、「『深山で迷った時は、老馬を先に立てて行けば、必ず道へ出る』と父から聞きました」と言う。義経 は、なるほどと、老馬を先に立てて山道を分け入り進んだ。
そこへ
武蔵坊弁慶 が山に詳しい老猟師を一人連れてくる。義経 が「この崖を降りて敵に攻めたいが、可能か?」と聞くと、老翁は「崖は 100メートル近くもあり、それは無理でしょう」と答える。「では、鹿は通るか?」と尋ねると、通ると言うので、この老猟師の 18歳の息子 熊王 に案内させることにした。義経 はすぐに 熊王 を元服させ、鷲尾義久と名乗らせた。
この鷲尾義久こそ、その後、奥州で 義経 と共に討たれた強者である。
一二之懸 ( いちにの かけ )
2月6日の夜半には
源義経 の軍が一の谷の城郭の側面に到着。その中にいた
熊谷直実 は「この険路では先陣の功名争いは無理。一の谷の西の手で先陣を取ろう」と、息子の直家を連れて抜け出した。熊谷父子は
土肥実平 が陣取る塩谷を抜けて、一の谷の西の木戸口に到着。まだ夜が深いというのに、先陣を焦りすぎる 熊谷直実 は「武蔵の住人、熊谷次郎直実、子息の小次郎直家、一の谷の先陣ぞや」と大声で名乗る。しかし、平家の城内からは相手にされない。しばらくして、熊谷直実 と同じ発想で義経軍を抜け出て来た
平山季重 が遅参するや、二人は、それぞれに名乗りを上げ始めた。
ようやく夜が明けてきて戦闘にはなったが、まだ、源氏が続いて来るのではなく、あくまでも抜け駆けの前哨戦である。ただ、熊谷父子 と 平山季重 らが乗る馬は、飼い葉をたくさん食べており、元気満点。一方、平家の馬は食糧もろくに与えられず、乗り回されてばかりの船に乗せられてばかりであったので、力が無かったのであった。
二度之懸 ( にどの かけ )
熊谷直実・直家親子と
平山季重 が先陣を争って平家の城郭に押し寄せているうちに、成田五郎もやって来た。やがて、
土肥実平 の大軍が様々な旗をかざしてやってきて、雄叫びをあげながら、攻め寄せてきた。
源範頼 の大軍の中に、武蔵の住人 河原高直、河原盛直という兄弟がいた。彼らは「自ら手柄を立てねば名誉にならない」と、たった 2人で平家の陣に乗り込んでいった。当初、平家方は相手にしなかったが、河原兄弟がさんざんに射かけてきたので反撃開始となり、そして、二人は討ち取られてしまった。
河原兄弟が討たれたことを聞き、
梶原景時 の軍も突撃開始。次男の 景高 が先駆けを急ぎ、景時 と長男の
景季、三男の景家が、それに続く。ひと戦闘終わって引いてみると、景季の姿が無い。これは討たれたのかもしれないと、心配になった景時は、大音声を上げて、再度、前線に突入する。そうして、敵に囲まれ死闘していた景季を見付けるや、助け出して退却した。「梶原の二度の懸」とはこの事である。
坂落 ( さか おとし )
生田の森では
土肥実平 の主力が平家に攻め寄せ、激戦となった。この時点では平家優勢であった。
一方、2月7日の曙、源義経は、平家の城郭をはるか下に見下ろしていた。馬を落としてみると、途中で転ぶ馬もあったが、3頭は無事、崖を下り降り、平盛俊 の屋形の前にたどり着いた。
義経 は「乗り手が注意して降りれば、馬を損ずることはない。さあ、行け。義経 を手本にせよ」と、自ら先駆けて落ちていった。まず、100メートルほど流れ落ちて、崖の途中の段になっている場所で止まった。そこから下を見下ろすと、さらに 直角 90度に 40メートル以上はある。これは無理かと、あきらめて留まっていた。
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松岡映丘 『 鵯越 』 1897 (M30)
姫路市立美術館
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そこに、佐原義連が進み出て「我らが住んでいる三浦では、朝夕、このような場所を駆けています」と告げ、真っ先に駆けて行った。そして全軍が続く。声を忍ばせて馬を御して落とす様は、まさに鬼神の所為。降り終わらぬうちに、鬨の声をどっとあげた。そして、平家の屋形に火を付けて焼き払った。
黒煙が回り、平家方の兵は慌てふためく。前の海の味方の船に駆け込むが、しかし、全員は乗れない。大船 3隻が沈み、その後は、下級の者は乗せるなと、船の中から太刀・長刀で乗船拒否する。
全戦全勝の
平教経 は、今回は早々に見切りを付け、讃岐の屋島へ退却した。
越中前司最期 ( えっちゅうの せんじ さいご )
平知盛 は生田の森で戦っていたが、かつて 知盛 が武蔵の国司であったよしみから、敵の児玉党が西の手が破れた事を伝えてきたので、急ぎ退散する。
平盛俊 は鵯越側を守る侍大将であった。奇襲され、もはや逃げられないと思ったのであろう、留まって敵を待っていた。そこに、猪俣則綱 が鞭を打ちあぶみを蹴って馬を並べ、むずと組んで馬から落とす。怪力同士の二人だが、盛俊 が 猪俣 を取り押さえた。
猪俣:
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名も知らぬ首を取って、どうするのだ
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盛俊:
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平家の侍、越中前司盛俊という者だ。お前は何者だ?
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猪俣:
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武蔵の住人、猪俣小平六則綱。今、わが命を助ければ、勲功と引き換えに貴殿一門の命を助けよう
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盛俊
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我、不肖なれど、源氏を頼みとする気などない
と、ものすごく怒って、猪俣則綱の首を掻こうとした。
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猪俣:
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降人の首を掻くことがあるか
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さればと、盛俊 は許してしまった。しばらくして、武者が一騎走って来る。猪俣 が「あれは知人の人見四郎だ。安心なされ」と言う。そうは言われても、盛俊 が敵である 人見 の方に気を取られていると、その隙に 猪俣 は 盛俊 の鎧の胸板を突いて倒し、乗りかかって 盛俊 を刀で刺して首を取ったのである。
忠教最期 ( ただのり さいご )
平忠度 は、源氏に囲まれ、防ぎながら退却していた。そこに、武蔵の住人 岡部忠純 が馬を駆けて追いかけ、「いかなる人か、名を名乗りたまえ」と声を掛けると、忠度 は振り返って「味方ぞ」と言う。しかし、振り向いたその顔の歯は、お歯黒である。忠純が「平家の公達に違いない」と馬をおし並べて組むと、忠度 は「ちっ、味方という事にしておけばよかろうに」と、引き寄せ、忠純 を突いた。しかし、そこに 忠純 の童がやって来て、忠度 の右ひじを根元から、ぶっつりと切り落とした。
忠度 は、もはやこれまでと「しばしのけ。十回、最後の念仏を唱える」と言い、西へ向って「光明遍照十万世界、念仏衆生摂取不拾」と唱え始めた。その念仏が終わらぬ前に、忠純 は後ろから 忠度 の首を討った。忠度 の箙に結び付けてあった文をほどいてみると歌が一首あり「忠度」と記されていた。忠純は「薩摩守殿を、岡部の 岡部六野太忠純 が討ち取ったり」と名乗った。敵も味方も「あぁ、よき大将でもあった人を」と皆、残念に思ったのであった。
重衡生捕 ( しげひら いけどり )
平重衡 は乳兄弟である 後藤盛長 と共に、馬に乗って西へ逃げていた。そこに、
梶原景季 と
庄高家 が馬を駆って追いかけるも、なかなか追いつけない。景季 が遠矢を射ると、それが 重衡 が乗る名馬の後ろ足に刺さった。後藤盛長 は自分の馬に乗り換えられると恐れたか、鞭を打って逃げ出す。重衡 は「どうした盛長、われを捨ててどこへ行くぞ」と言うも、盛長 は聞こえないふりして、鎧に付けた平家の赤布もかなぐり捨てて逃げに逃げた。重衡 は馬が弱ってしまったので捨て、身を投げようにも海は遠浅で沈めず、切腹しようとしたが、そこで 庄高家 に生け捕りにされてしまう。
盛長 は、この後、熊野の 尾中法橋 を頼って生きていた。法橋夫人の尼公 が都へ上る際に同伴したのだが、皆からは「ああ、なんたる恥知らず。重衡 を見捨てて逃げたのに、よくも、いけしゃあしゃあと出て来たものだ」と、相当に非難された。
敦盛最期 ( あつもり さいご )
源氏方の
熊谷直実 は、汀の船へ向かう平家の公達を追いかけていた。そこに、連銭葦毛の馬に乗った一騎の武者を見付ける。熊谷直実 は「卑怯にも敵に後ろを見せるものかな。引き返せ」と招いた。馬を返した武者に直実は波打ち際で組み付き、馬から落として押さえつけると、それは薄化粧をし、お歯黒をした美少年であった。直実の子、直家と同じ16、7歳くらいである。直実は「貴殿の父が、貴殿が討たれたと聞いたらどんなに悲しむことでしょう。お助けいたします」と言って逃がそうとした時、後ろを見ると、
土肥実平、
梶原景時 らが近づいて来ている。
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直実は涙を流しながら「味方の兵が来ております。もはや、お逃がしすること出来ません。直実が手にかけ、後生を弔い仕ります」と告げ、前後不覚に陥りながら、泣く泣く首を掻いた。そして「武芸の家に生まれていなければ、このような辛い目に遭うこともないのに、情け容赦なく討ってしまった。。。」と、さめざめと泣いた。直実が首を包もうと鎧と直垂を解くと、腰に笛が差してあった。
この若武者は 平経盛 の子 平敦盛、生年17歳とのこと。その笛は、平忠盛 が 鳥羽院 から賜り、その後、経盛 → 経盛へともらい受けた「小枝(さえだ)」という笛であった。
※
菊池契月 『 敦盛 』 1927 (S02) □ 京都市美術館
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知章最期 ( ともあきら さいご )
平業盛 は、常陸の住人 土屋重行と組んで討たれた。
平経正は、
河越重房 らに囲まれて、ついに討たれた。平清貞・
平清房・
平経俊 は、3騎連れ立って敵の中に入り、散々戦い、同じ場所で討ち死にした。
平知盛 は長子の
平知章 と侍の 監物頼方 を連れて汀の方へ逃げていた。源氏の 10騎ほどが追いかけて来、大将らしき者が 知盛 と組もうと馬を並べると、父を討たせまいとした 知章 が中に割って入って組み、どうと落ちる。知章 は敵の首を取ったが、遅れてやってきた敵の童に首を取られる。監物頼方 が来て、その敵の童を討ち取るも、その後、左の膝頭を射られ、立ち上がることもできず討ち死にした。
平知盛 は、その隙に逃げ延び、馬を海で 2キロほど泳がせ、
平宗盛 の船にたどり着く。しかし、馬は渚へ追い返した。
阿波民部重能 が「敵に盗られるので射殺します」と言うと、知盛 は「今、わが命を救ってくれた馬だ。射るな」と告げた。馬は、しばらく船と一緒に沖へ泳いでいたが、次第に離れ、海岸へ泳ぎ着いた。この馬は、元々、平宗盛が
後白河法皇 から賜った馬であるが、今回、浜で河越重房が捕まえ、後白河法皇へ献上し「河越黒」と呼ばれた。
平知盛 は「子が討たれるのを助けずに、逃れてくる親がありましょうか」と、袖を顔に押し当てて、さめざめと泣いた。宗盛は「知章が父に代わって討たれたことは、世にまたと無いこと。よき大将軍であった」と慰めたのであった。
落足 ( おちあし )
平師盛 は小舟に乗って沖を目指していが、清衛門公長という侍が呼び戻して飛び乗って来たので小舟はひっくり返ってしまった。そこに、畠山の郎党の 本田親経 が 14、5騎で駆けつけ、そして、師盛 は首を取られる。14歳であった。
平通盛 は、軍勢が崩壊し、敵の大軍に取り囲まれた。今は静かに自害しようと東へ逃げていた時、近江の住人 佐々木成綱と、武蔵の住人 玉井資景 ら 7騎に取り囲まれ、ついに討たれた。
一の谷・生田の森・山のがけ・海岸で討たれた平家の兵は 2,000人あまり。この合戦で討ち死にした平家の公達は、平通盛、
平業盛、
平忠度、
平知章、
平師盛、平清貞、
平清房、
平経正、
平経俊、
平敦盛 の 10人。いくさに負け、
安徳天皇 をはじめ、平家一門は船に乗って逃げ、島々に散らばった。勢力を盛り返して、都まであと少しのところだったのだが、ここで、挫かれてしまったのである。
小宰相身投 ( こざいしょう みなげ )
平通盛 の侍、見田時員(くんだ ときかず)が 通盛 の北の方の舟に行き、通盛 の最期を告げた。それを聞いて北の方は 1週間、起き上がれなくなった。
北の方は乳母の女房へ告げる。「宿した通盛様の忘れ形見を産んで育てたいとは思うが、その子を見るたびに通盛様が恋しくて堪らないだろう。もはや、死ぬしかない」と。乳母は思い止まるよう説得したが、その乳母が少しまどろんだ隙に、北の方は静かに起き上り、船の端に出て西方へ向かって静かに念仏を唱えた。「南無西方極楽世界の経主の弥陀如来、心ならずも引き裂かれた夫婦の仲を、あの世で一つにしてください」と、海に身を投げたのであった。 舟の者が気づいて引き上げた時には、もはや遅かった。乳母の女房が声かけるも、返事なく息絶えた。
この北の方は
小宰相殿 といい、禁中一の美人。彼女が 16歳の春、通盛 が見初め、3年間ラブレターを送りまくったのだが相手にされなかった。通盛 が、これがファイナルと文を出すも、使者は渡すことが出来ず、空しく戻っていたら、丁度、帰宅途中の 小宰相 一向と行き合う。使者が車の中へ文を投げ入れると、小宰相 は路に捨てるわけもいかず、袴の腰にはさんで帰った。
さて、御所に戻った彼女は、その文を 上西門院 の御前に落としてしまう。上西門院 は「珍しいものを拾いました。持ち主は誰でしょう?」と尋ね、小宰相 のものと気づく。文を広げた 上西門院 は「これは会ってあげないことを恨んだ歌ですね。小野小町のように、あまりにも頑なだと、かえって殿方の嘆きを買いますよ」と、小宰相 を諭した。そして 上西門院 は自ら筆を取って返歌を書いてあげた。こうして、二人は結ばれたのである。
※
上村松園 『 小野小町図 』
1935 (S10)頃
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平教盛 は、子の 通盛、
業盛 に先立たれ、今、頼みになるのは
教経 と、僧の中納言律師 忠快だけである。小宰相 さえ亡くなってしまい、とても心細くなった。