■ 巻第五
1180(治承四)年 6月~12月
都遷 ( みやこ うつり )
世の中が騒然としている中、1180(治承四)年6月2日、今度は突如として福原へ遷都となった。平家の悪行極まり、とうとう、遷都までやってしまったのだ。皆、大わらわで移動する。
後白河法皇 は、やっと鳥羽殿から出されたものの、福原では再び小さい家に閉じ込められてしまった。子供たちは「籠の御所」と言った。
神武天皇* が橿原宮を建てた後、遷都が行われたのは 40回。桓武天皇により 794(延暦13)年に平安京遷都となった。桓武天皇は 2.4メートルの人形を作り「この都を他国へ遷すようなことがあれば守護神となるべし」と祈願し、東山の峰に埋めた。ここは「将軍が塚」と呼ばれている。
月見 ( つきみ )
夏が過ぎ、秋も半ばになった。福原の新都に来た人たちは名所の月を見たいと思い、光源氏の跡をしのびつつ、須磨から明石の浜などで月を見た。
徳大寺実定 は京の月が恋しくて、8月10日ごろ旧都へ行った。京には 実定 の妹、
太皇太后 の藤原多子(ふじわらの まさるこ)が留まっていたので訪ねると、二人は荒れ行く京を悲しんだのであった。
物怪之沙汰 ( もののけの さた )
福原へ遷都してから、
平清盛 は夢見が悪く、いつも物の怪たちが現れるようになった。ある朝、清盛 が内庭を見ると、無数の死人のしゃれこうべで満ちている。その、しゃれこうべが一つに固まって大きな山のようになり、大きな眼が千万も出てきて、清盛 を睨みつけた。
※
月岡芳年 『 新容六怪撰 平清盛 』 1882 (M15)
早馬 ( はやうま )
9月2日、東国の 大庭景親 が早馬で下記のことを福原に報告してきた。
「去る8月17日、
源頼朝 が舅の
北条時政 と結託して挙兵。
土肥実平、土屋宗遠、岡崎義実 らと共に石橋山に立て籠もった。景親 ら平家方が攻め立てた。
畠山重忠 が 三浦義明 の子
三浦義澄 らと鎌倉の浜で戦うも、一旦、敗れた。その後、畠山はリベンジで三浦一族の衣笠城に押し寄せ、義明 を討ち取った」と。
京に居た
畠山重忠 の父=
畠山重能 は「北条は源氏の親戚となっているのでわからないものの、その他の者が参加するとはあり得ない。誤報だろう」と言った。
清盛 は「源頼朝は平治の乱の際に流罪に減刑してあげたというのに、その恩を忘れて当家に弓を引くというのか!」と、ものすごく怒ったのであった。
朝敵揃 ( ちょうてき ぞろえ )
わが国初の朝敵は
神武天皇* の時代、紀州にいた土蜘蛛(土着の首長のこと)である。多くの人々を傷つけたので官軍が出動して宣旨を読み伝え、葛の網をかぶせて殺した。
それ以降、野心をもって朝威を滅ぼそうとした輩は、大石山丸、大山王子、物部守屋、山田石川、蘇我入鹿、平群真鳥、文屋宮田、橘逸勢、氷上川継、伊予親王、藤原広嗣、恵美押勝、早良親王、光仁天皇皇后、藤原仲成、平将門、藤原純友、安倍貞任・宗任、源義親、藤原頼長、藤原信頼にいたるまで 20余人。しかし、一人として成功した者はおらず、屍を山野に晒し、首は獄門に懸けられた。
咸陽宮 ( かんよう きゅう )
秦の始皇帝に12年監禁されていた燕の太子・
丹 は、ある日「故郷の老母に今一度会いたい」と願い出たが、
始皇帝 から「あほか。お前に暇を与えるのは、馬に角が生えて、烏の頭が白くなってからだ」と軽くあしらわれる。燕丹は天に仰ぎ地に伏して「願わくは、馬に角が生え、烏の頭を白くしたまえ」と祈った。すると、本当に、そういった馬とカラスが現れたのである。始皇帝はびっくりするも、仕方なく燕丹を帰してやった。
燕に戻った丹は、
荊軻(けいか)という強者に始皇帝暗殺を託す。当時、樊於期(はんよき)という者がいて、その首に懸賞金が掛けられていた。荊軻は彼に会いに行き「あなたの首を私にください。始皇帝に直接引き渡す時、剣で刺し殺すから」と頼んだ。樊於期は「私の身内は、皆、始皇帝に殺された。奴を討てるというのなら、私の首を与えることなど容易い」と言って自ら首を切って死んだ。
荊軻は樊於期の首を持って、秦の宮城・咸陽宮に到着。始皇帝に直接、樊於期の首を見せようとした、とその時、始皇帝は箱の底に剣があることに気づく。始皇帝は逃げようとしたが、荊軻が袖を捕まえ胸に剣を指し当てた。始皇帝は観念したか、「今一度、后の琴の音を聴かせてくれ」と頼むと、これに、荊軻はしばしの時間を与えてしまう。始皇帝三千人の后の中に花陽夫人という琴の名手がいた。彼女は琴を演奏し、さらに一曲「七尺の屏風は高くてもどうして越えられないことがあろうか。一重の薄い衣は、どうして引きちぎれないことがあろうか」と奏した。荊軻は曲に込められた意味が解らず、一方、それを察した始皇帝は袖を引きちぎって七尺の屏風を飛び越えて柱の陰に隠れた。怒り狂った荊軻は剣を投げつけるが外れる。始皇帝は取って返し、剣を持って荊軻を八つ裂きにした。やがて、始皇帝は大軍を派遣して、燕を滅ぼしてしまった。
今回の
源頼朝 も、こういうことになるのではないか、という人もいた。
文学荒行 ( もんがく あらぎょう )
源頼朝 は源義朝の嫡子であり、平治の乱の際に処刑されるはずであったが、故 池禅尼の懇願により、1160(永暦元)年3月20日に、伊豆の蛭が島へ流され、そこで20年の歳月を静かに送っていた。それが急に挙兵したのは何故か?それは、
文覚上人が勧めたからである。
この 文覚 という人は、元々、警備の武者だったが、19歳の時に出家心を起こし修行に出た。
熊野を参詣して、真冬というのに、那智の滝壺に首まで浸かって不動明王の慈救の呪文を唱えて続けた。当然、途中、凍え死にしそうになるのだが、不動明王の童子たちに助けられつつ、37日の大願を終に成し遂げ、そして、那智に千日籠もった。その後、全国各地を訪ねて行を行った。
※
荻原碌山(守衛)『 文覚 』 1908 (M41)
石膏原型 碌山美術館
文覚は、おそらくこんな人相であったであろうと、最もパワフルに表現しているのはこれでしょう。『平家物語』内には記述はありませんが、『源平盛衰記』では、僧になる前に人妻である袈裟御前に横恋慕して誤って殺してしまったという悲恋の持ち主です。自らも不倫に苦しんだ碌山による渾身の作。
|
|
勧進帳 ( かんじんちょう )
都に戻った
文覚 は、高雄山の奥にある神護寺を修理しようと、勧進帳を持って各地の施主に勧め歩いた。あるとき、
後白河法皇 の御所にも行った。が、その時、丁度、歌会の最中であったので寄付依頼への返事ができなかった。文覚 は傲慢にも庭の中へ入り込み、勧進帳を広げて大声で読みあげ始める。1179(治承三)年3月のことである。
文学被流 ( もんがく ながされ )
これには、
藤原師長 が琵琶を奏で和漢朗詠集を朗詠などして、楽しく盛り上がっていた歌会の調子が全く狂ってしまい、座が白けてしまう。平資行が「狼藉だ。とっとと出ていけ」と言うも、
文覚 に倒され、烏帽子を落とされてしまった。院中、大騒ぎとなり、警備員と取っ組み合いの上、文覚は縛り上げられて、門の外に放り出された。
|
※
岩佐又兵衛 『 文覚上人 』
江戸時代
■
大英博物館
|
※
岩佐又兵衛 『 文覚上人 』 江戸時代
■ フリーア美術館
その後も、文覚 は京の街中で不穏な事を言いふらして回っていたので、伊豆へ流されてしまったのである。
福原院宣 ( ふくはら いんぜん )
文覚 は
源頼朝 が居る、伊豆の蛭が島に近い場所に住んだ。文覚 は、たびたび 頼朝 を訪問し、物語などを聞かせた。
ある時、文覚 は 頼朝 に「平家の 平重盛 殿こそ優れていたが、平家も運命の末か、去年の 8月に死去された。今、源平の中に、あなたほど天下の将の相を持った方はいない。早々に謀反を起こし、日本国を従えたまえ」と告げる。頼朝 は「思いもよらぬこと。私は、故 池禅尼に助けられ、その恩に報いるため毎日法華経一部を転読している。その他にやるべきことはない」と答える。
さればと、文覚 は説得のために、懐から白い布に包んだドクロを取り出し、「これこそ、あなたの父、源義朝殿のこうべよ」と切り出す。頼朝 は、その話を真に受けたわけではなかろうが、父のドクロと聞くと、懐かしさに、まず涙を流した。
源頼朝 が「そもそも、勅命による勘当を赦されなければ、謀反は起こせない」と言うと、文覚 は「そんなのちょろいことよ。都へ上って奏上し、赦してもらって来てやろう」と言う。
早速、文覚 が福原の新都に上って 藤原光能 を尋ねて言うには、「伊豆の源頼朝は勅勘を赦されて院宣さえ受ければ、八か国の源氏の家臣を集め、平家を滅ぼし、天下を鎮めると言うちょります」と。それを 光能 が
後白河法皇 に伝えるや、すぐに院宣が下された。
文覚 は、喜び勇んで伊豆へ帰り、頼朝 に「ほれ、これが院宣よ」と、ぽぃと渡した。
こうして、1180(治承四)年8月17日、源頼朝 は挙兵する。
※
安田靫彦 『 源氏挙兵(頼朝)』
1941 (S15) ■
京都国立近代美術館
富士川 ( ふじがわ )
源頼朝 の謀反に対して、平家は急ぎ討手を出した。
大将軍:
平維盛
副将軍:
平忠度
侍大将:伊藤忠清
9月18日に福原を発ち、10月16日に駿河到着。はやる 維盛 に対し、
伊藤忠清 は「伊豆・駿河の兵が合流するのを待ち、勢力を付けるべき」と諌める。しかし、頼みの 大庭景親 は源氏に阻まれ参戦できず、
畠山重忠 ら畠山一族は、既に、源頼朝 に帰伏していたのである。
一方、頼朝 は鎌倉を発ち、黄瀬川に着いた。甲斐や信濃の源氏たちが合流し、駿河・浮島が原(富士沼周辺)で勢揃いする。
※
安田靫彦 『 黄瀬川陣 』
1940/41 (S15/16) ■
東京国立近代美術館
『平家物語』内には記述は無いが、源義経が源頼朝の許へ駆け参じた場面
平維盛 が東国の事情に詳しい
斎藤実盛 を呼んで状況をヒアリングすると、彼は「わしくらいの強者は東国には、いっぺえーおる。戦になれば、屍を乗り越えて戦って来っぞ」などと士気を高めるように言ったのだが、平家の兵たちは逆に震え上がってしまった。
かくして平家方の勢力が増強されぬまま、10月24日・午前6時・富士川にて源平で矢合わせをして開戦することに定められた。しかし、前夜に現地の者たちが野に入って炊事用に炊いた火を見た平家の兵たちは、山河に満ち満ちている敵だと思い込み、これまた怖じ気づいてしまう。
そして、夜中に富士の沼に大量に集まっていた水鳥たちが一斉に飛び立ち大きな羽音を立てるや、すわ源氏の大軍かと恐れ慌てふためいた平家の兵たちは、取る物も取らず、我先にと一斉に逃げ出してしまった。
翌朝、午前6時、源氏の大軍が富士川に押し寄せ、天に届き大地を揺るがすほどの鬨の声を 3回上げた。
五節之沙汰 ( ごせつの さた )
しかし、平家方は静まりかえっている。人を出して様子を見に生かせると「皆、逃げました。およそ、蝿一匹おりません」と報告。全く拍子抜けの源氏方であったが、
源頼朝 は「これは、ひとえに八幡大菩薩の御はからいだ」と告げた。
頼朝は、戦う相手がいないので、駿河の国を
一条忠頼 に与え、遠江の国を
安田義定 に預けて、鎌倉に戻った。
世の人々から、平家の不甲斐なさ、呆れ返られる事、きりなし。11月8日、
平維盛 は福原に帰り着く。
清盛 は激怒して「維盛を鬼界が島へ流してしまえ。忠清は死罪だ」と告げたが、
平盛国 が
忠清 を弁護したこともあり、この件は、その後、うやむやになって実行されなかった。
11月13日、福原に内裏が完成し、
安徳天皇 が御幸した。大嘗会が行われるべきなのだが、福原では大極殿などが出来ていないので、実施されなかった。
都帰 ( みやこ がえり )
今回の福原遷都は、延暦寺、興福寺をはじめ、誰もがよろしからぬ旨を訴え出たので、さすがの
清盛 も「ならば都還りをする」と言った。そして、12月2日、急に都還りをすることになった。6月2日に遷都して、わずか半年であった。
12月23日、近江源氏が攻め寄せてきたとして、
平知盛 と
平忠度 を大将軍に近江へ向かう。山本・柏木・錦織などという根無し草の源氏どもを攻め落とした。
奈良炎上 ( なら えんしょう )
5月に三井寺が焼かれ、次は興福寺が危ないと噂され、興福寺側もいきり立っていた。
清盛 は「手出しはするな」という指示の上、南都の狼藉を鎮めようと
瀬尾兼康 を大和の検非所に配置した。ところが、興福寺の大衆は、その 60騎余りを殺害し、首を猿沢の池の端に掛け並べたのである。激怒した 清盛 は、12月28日、
平重衡、
平通盛 を大将軍に南都を攻めさせる。
終日苦戦の末に攻め込んだ平家は、般若寺の門の前に立った 重衡 が、もう暗かったので「火を灯せ」と命じた。手下の者が松明で近くの家に火を付けると、その時、風が激しく、あっという間に火の手が広がり、多くの伽藍にも回った。東大寺大仏殿や興福寺の中へは老僧や女・子供たちが逃げ込んでいたのだが、ここにも、まさに猛火が押し寄せた。うめき叫ぶ声は八大地獄の三つ=焦熱・大焦熱・無限阿鼻よりもひどいものに聞こえた。各寺での焼死者は合計 3,500人。東大寺の大仏は焼け落ちて溶けた山のようになってしまった。
憤りが晴れて喜んだのは、清盛ただ一人。
中宮 徳子、
後白河法皇、
高倉上皇 は「悪僧こそ滅ぼすとしても、伽藍を破滅させることがあろうか、、」と嘆いた。
あさましかった年も暮れて、1181(治承五)年になった。