■ 巻第一
1153(仁平三)年 ~ 1177(安元三)年 4月
祇園精舎 ( ぎおん しょうじゃ )
ゴ~~ン ゴ~~ン ゴ~~ン
絶大な権勢をふるう者も必ずや落ちぶれてしまうという仏教無常観の中、
平清盛 により頂点を極めたものの、その後、一門絶滅してしまった伊勢平氏の 30年間ほどの超激動のストーリーのはじまり、はじまり。
平氏の祖先は、桓武天皇の第五皇子=葛原( かずのはら )親王の子孫が 平正盛( まさもり )であり、その子が
平忠盛( ただもり )。忠盛 の嫡男が 清盛。
殿上闇討 ( てんじょうの やみうち )
平忠盛 は備前の国守であった時に 鳥羽上皇 に寺院を寄進したことによって、褒美として清涼殿への出入りを許される。「武士の分際で」と殿上人たちに嫉まれた 忠盛 は、ある夜、殿上で闇打ちされそうになるが、巧みに難を逃れる。その行動を非難する人がいたが、鳥羽上皇 にはかえって気に入られた。
鱸 ( すずき )
1153(仁平三)年に 忠盛 が死去し、清盛 が家督を継ぐ。
平清盛 が、その後、急成長できたのは、熊野権現のご利益と言われている。熊野詣の際に乗っていた舟に大きな鱸が躍り込んできて、それを食した後というもの、信じられないような吉事が続いたのである。
清盛 は保元の乱、平治の乱で手柄を立て正三位に。その後、とんとん拍子に昇進して、中納言、大納言を経て内大臣になった。さらには左右の大臣をすっ飛ばして太政大臣までになった。そして一門の子孫たちも、龍が天に昇るよりも速く昇進していった。
禿髪 ( かぶろ )
そんな一門超バブリーな状況の中、清盛 の義兄=
平時忠 は「平家でないもんは、人では無いわ」とまで言ったのであった。
当然、避難の声が上がるはずだが、
清盛 は私設の秘密警察隊を組織していた。「禿髪」とは、赤い服を着て髪の毛をおかっぱに切り揃えた 300人の童子たちであり、彼らは平家の悪口を耳にするや、大挙してその者の家に乱入し、資財を没収して六波羅まで引き立てて行った。この粛正により、誰も平家の横暴に対して文句を言えなくなってしまった。
※
菊池契月 『 悪者の童 』(右隻・部分)
1909 (M42)
吾身栄花 ( わがみの えいが )
平清盛 自身の栄花だけでなく、一門も大繁昌であり、下記の通り。
・ 嫡子
平重盛: 内大臣 左大将
・ 次男
平宗盛: 中納言 右大将
・ 三男
平知盛: 三位中将
・ 嫡孫
平維盛: 四位少将
8人の娘たちは、
・ 一人は
藤原兼雅 の妻
・
平徳子:
高倉天皇 の后 = 建礼門院
・ 四女 平盛子: 藤原基実( ふじわらの もとざね )の妻 = 白河殿
・ 六女 平完子( さだこ ):
藤原基通 の妻
・ 一人は
藤原隆房 の妻
・ 一人は 藤原信隆( ふじわらの のぶたか )の妻
・ 厳島神社の巫女を母とする一人は
後白河法皇 に仕えた
・ 常盤という女官を母とする一人は、藤原兼雅 の高位の女房 = 廊の御方
そして、平家の知行国は全国の半数以上を占め、栄華を極めたのであった。
祇王 ( ぎおう )
祇王 は 清盛 の若い愛人であった白拍子。祇女(ぎにょ)は、その妹。ところが、仏(ほとけ)御前という 16歳の新たなアイドルが現れるや、清盛 は三年住まわせた 祇王 をあっさり捨てて 仏御前 に鞍替え。祇王 は憂き恥を重ねることが辛く、祇女 と母と共に剃髪し嵯峨の奥に籠もってしまう。
ある日、祇王 に負い目を感じていた 仏御前 は、剃髪して庵にやってくる。その後、4人は揃って念仏三昧の生活を送り、それぞれ往生した。
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菱田春草 『 仏御前 』 1906 (M39)
※
木村武山 『 祗王祗女 』 1908 (M41) 永青文庫
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二代后 ( にだいの きさき )
保元の乱、平治の乱が終わり平和になるだろうと思われたが、実際は戦乱が終わらず不穏な日々が続いた。
そんな中、全国びっくり仰天の事件が起きる。
二条天皇 が
後白河上皇 の説得も聞かず、
太皇太后宮 を無理矢理、后にしてしまったのだ。太皇太后宮 は、後白河天皇 の一つ前の天皇であった 近衛天皇 の后。近衛天皇 の死後、ずっと表に出ずにひっそりと暮らしていたのだが、すごい美人で、二条天皇 は、無茶押し通してしまったのである。
中国には則天皇后の例があるが、日本では
神武天皇* 以来この方、二代后の例はない。
額打論 ( がくうち ろん )
しかし、この
二条天皇 は 1165(永万元)年の春頃から体調を崩し、夏には重篤になった。二条天皇 は、当時わずか 2歳であった長男(=六条天皇)に、6月25日夜、突如、皇位を譲り、そして 7月27日に亡くなってしまった。
葬送の際、各寺は御陵の周りに自分の寺の額を立てる習わしになっていた。順序は、東大寺→ 興福寺→ 興福寺に向かって延暦寺→ 三井寺。ところが、この時、延暦寺が先例に背いて、東大寺の次に額を立てたのである。怒った興福寺側が反論。続いてやって来た悪僧が、延暦寺の額を斬り、さんざんに叩き割ってしまった。
清水寺炎上 ( せいすいじ えんしょう )
延暦寺側は、この時はやり返さずにすんなり帰る。しかし、29日に大リベンジのために大挙して山を下りてきた。この時「後白河上皇が延暦寺に平家追討を命じた」という噂が流れ、あわてた平家一門は六波羅に馳せ集まる。ところが延暦寺の大衆は六波羅には行かず、清水寺に押しかけて行った(清水寺は興福寺の末寺であった)。そこで仏閣や僧坊を一切焼き払ってしまった。
ほっと安堵の平家であったが、
清盛 が「そんな噂が立つとは、やっぱ、後白河上皇は怪しい」とこぼすと、
重盛 は「決して、そのような事を言ってはなりません」と諫める。清盛 曰く「重盛は甘いよのう」 と。。
後白河上皇 も「とんでもないことを言う輩がおる」と冷や汗なるも、
西光 は「天が人に言わせたのかもしれませんよ」と不穏なことを言うのであった。
東宮立 ( とうぐう だち )
1168(仁安三)年3月20日、
後白河上皇 と
建春門院 との間の皇子が、わずか 7歳であったが、即位し、
高倉天皇 となった。六条天皇は 2歳で天皇になり、5歳で早くも譲位。こんな例は中国にもありゃぁせん。
平時忠 は 建春門院 の兄であり、高倉天皇 の執権職かのように意のままに振る舞い、人々に「平関白」( へい かんぱく)と呼ばれた。
殿下乗合 ( てんがの のりあい )
「殿下」 とは摂政関白のこと
1169(嘉応元)年7月16日、
後白河上皇 は出家して法皇となった。
1170(嘉応二)年10月16日、
平資盛 ら一行が鷹狩をして夕暮れどきに六波羅に帰還。ちょうど参内中であった
藤原基房 一行と 資盛 らとが出会い頭にはちあわせになってしまった。「馬を降りよ」「降りぬ」と、互いに譲らぬ両者は争いとなり、資盛 側が負けて逃げ帰る。
重盛 は 資盛 が悪いと叱るものの、激怒した
清盛 は
難波経遠、
瀬尾兼康 らの平家の荒くれどもにリベンジを指示。21日に 基房 一行が再度出かける際に襲いかかり、全員の元結いを切ってしまった。
過去に摂政関白がかような大恥をかかされた事は無く、これこそ平家の悪行の始まりであった。
※
『 平家物語絵巻 』 殿下の乗合(部分) 江戸時代 林原美術館
鹿谷 ( ししのたに )
翌、1171(嘉応三)年1月5日、
高倉天皇 は元服となった。
さて、
藤原師長 の左大将のポストが空くことになり、数名の候補が出た。
藤原兼雅 が狙い、出世欲の強い
藤原成親 も、このポストを狙った。成親 は、そのために様々な祈祷を始めるのだが、ことごとく凶と出る。
後任は
徳大寺実定 が最有力候補であったものの、結局のところ人事権は平家にあったわけで、
平重盛 が右大将からスライドして左大将に、
平宗盛 が数段飛び越して右大将に就任してしまった。宗盛 にまで抜かれてしまった 成親 の「平家憎し」という恨みは募り、密かに平家滅亡の計画を進めるのだった。
東山の鹿谷は、後ろが三井寺へと続く絶好の要塞である。ココに
俊寛僧都 の別荘があり、時折、仲間たちが集まり平家打倒の謀をめぐらしていた。ある夜、
後白河法皇 も、この会に参加した。この企てを聞いた
静憲法印が、蒼くなって異を唱え出したところ、
藤原成親 が立ち上がった際に、狩衣の袖が 後白河法皇 の前の「瓶子(へいじ)」(酒の徳利のこと)に触れて、ひっくり返してしまった。成親 が「平氏が倒れましてございます」と言うと、それが 後白河法皇 のツボに嵌まったらしく、その後、猿楽を舞っての騒ぎとなった。
この企てには、源成雅、俊寛、中原基兼、式部大輔雅綱、
平康頼、惟宗信房、平資行、
源行綱、そして、
西光 らが参加していた。
俊寛沙汰 ( しゅんかんの さた )
鴨川軍 ( うがわ いくさ )
以下、
西光 の子 =
近藤師高 と
近藤師経 の悪行に端を発する事件。
1175(安元元)年12月、加賀守に任命された 師高 は荘園没収などの非法非礼をくり返していたが、翌年夏には弟の 師経 を加賀の目代に任命した。師経 は鵜川という山寺の僧たちに騒動を仕掛け、戦いの上、坊舎を焼き払ってしまった。怒った寺側は団結して 2千人余で 師経 の館まで反撃に出たが、師経 は都に逃げ帰る。
願立 ( がんだて )
怒りのおさまらない加賀の大衆は、かくなる上はと、比叡山延暦寺に助けを求める。これに応じた延暦寺の大衆は、
師高 の流罪と
師経 の禁獄を、たびたび朝廷に迫った。しかし、朝廷からは一向に裁断が下されなかった。
延暦寺の圧力には、朝廷もたびたび手をこまねいてきており、過去に 白河上皇 も「加茂川の水、双六の目、比叡山の僧、こればかりは朕にもどうにもできぬ」と嘆いたことがあったとか。
御輿振 ( みこしぶり )
延暦寺は、とうとう、1177(安元三)年4月13日に、十禅師権現・客人・八王子の三社の神輿を内裏に入れて直訴しようと動き出し、内裏への路は大衆・神人・宮仕・専当らで溢れかえった。
※
前田青邨 『 御輿振 』
1912 (T01) 東京国立博物館
朝廷は源平両兵に延暦寺の神輿突入を防ぐよう命じる。平家は、
平重盛 が多くの兵を率いて比叡山側の東の各門を固める。弟の
宗盛、
知盛、
重衡、
伯父の
平頼盛、
平教盛、
平経盛 らが西南の門を固めた。
源氏では、内裏守護役の 源頼政 が僅かな兵で北正面の門を固めた。
延暦寺は無勢な北門から神輿を入れようとした。しかし、
源頼政 は
長七唱 を使者にして「山門の大衆が、こんな手薄な門から入っては、後々、子供たちから笑われましょう。重盛殿の陣から入られては如何?」と畏まって申し入れる。僧たちは、それを了解してしまうと、重盛 が守る待賢門へと向かった。しかし、そこを固める武士から大量の矢を浴びせられ、神輿にも無数の矢が突き刺さった。神人や宮仕たちも射殺され、大衆は神輿を置き去りにして、泣く泣く比叡山に帰っていった。
内裏炎上 ( だいり えんしょう )
神輿に矢が射られたというのは、これが初めて。人々は「霊神がお怒りになったら、災害だらけになると云う。おそろし、おそろし」と怖れた。
翌4月14日、再び、延暦寺の大衆が大挙して押し寄せてくるという噂が流れるや、この難局打開のために
平時忠 が臨時の対策委員長に指名される。彼は息巻く僧らを前に、ちょっと待てと。。
衆徒が乱暴な悪事をするのは魔閻の仕業である
賢明な王がお止めになるのは薬師如来の加護があるからである
という一筆を、ひょいと書いて送ってやった。すると、これに延暦寺の僧たちは皆「なるほど、もっともだ、もっともだぁ」と、妙に納得して帰っていった。
こうして、4月20日、ようやく評議の末、
近藤師高 は尾張へ流罪、弟の
近藤師経 は禁獄となった。また、門前で神輿に矢を放った
重盛 配下の六人の武士も投獄となった。
かくして、この騒動は一件落着。。。とはいかなかったのである。
4月28日の夜、大火事が発生し、京の町の多くが焼け落ちてしまった。