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平家物語(巻第十二)と絵画

巻第十二のダイジェスト & 絵画のページです。

巻第十二
  1185(元暦二)年 7月 ~ 1186(文治二)年 1月、1205年頃
大地震 ( だいじしん )
平家が滅び、皆、安堵を覚えていた頃、1185(元暦二)年7月9日、大地震が発生した。皇居、神社仏閣、民家の多くが倒壊し、多くの人が死亡した。
紺掻之沙汰 ( こんかきの さた )
8月22日、文覚 が、源義朝の確かな「しゃれこうべ」を首に掛け関東へ下った。これは、源義朝に年来かわいがられていた紺屋の男が、獄舎の前の苔の下に埋もれていた義朝の首を検非違使の別当に申し受けて、東山円覚寺に深く埋めて収めていたのを、それを文覚が探し出してきたという経緯である。
源頼朝 は険しい岩山を削り、父の供養のため道場を作り、勝長寿院と号した。
平大納言被流 ( へいだいなごんの ながされ )
9月23日、鎌倉から、都に留まっている平家の残党を全員流罪にせよと、いうことになった。
平時忠 → 能登、 平信基 → 佐渡、 平時実 → 安芸、 平尹明 → 壱岐
二位僧都全真 → 阿波、 法勝寺執行能円 → 上総、 経誦坊阿闍融円 → 備後
中納言律師忠快 → 武蔵
昔、平時忠 が検非違使の長官だった時、逮捕した緒国の窃盗・山賊・海賊は、一人残らず肘から下を斬り落として追放した。人々からは「悪別当」と呼ばれた。源義経 を婿にしたので色々と減刑を願い出たが叶わず、終に流されることになった。
土佐房被斬 ( とさぼう きられ )
源頼朝 は、源義経 を押さえつけたかったが、都が争乱になるのは良くないと考え、土佐房昌俊 に 義経暗殺を指示する。9月29日、土佐房 は都へ到着。翌日、義経 を往訪し「頼朝殿より『都が安泰なのは義経のおかげだ。よく守護せよと伝えよ』とのことです」と言った。 ところが、義経 からは「そうではあるまい。お前は、この義経を暗殺するために上ってきた刺客だろう」と見透される。土佐房 は、めっそうもないと、急場しのぎに 7枚の起請文を書き、あるものは焼いて飲み、あるいは神社に奉納して、やっと 義経 の許から戻った。
土佐房 は宿所に戻り、その夜のうちに攻め込むための準備を始めた。大路に武者が満ちていることを不審に思った 静御前 が召使の女に確認に行かせると、土佐房 の宿所は、まさに出陣寸前の状態であったと報告した。静御前 は急いで 義経 に大鎧を着けさせる。

上村松園 『 静 』 1944 (S19)    
東京国立近代美術館

  植中直斎 『 堀川夜襲 』 1944 (S19)  京都市美術館

土佐坊 が門に押し寄せて来ると、義経 は馬を駆って蹴散らして回った。そこに、伊勢義盛、佐藤忠信、江田源三、熊井太郎、武蔵坊弁慶 らの強者が馳せ集まる。土佐房 は負け、鞍馬山の奥へ逃げ込むも、ココは 義経 ゆかりの地なので、鞍馬の法師たちが生け捕りにして、翌日、義経 に差し出した。
「どうした土佐房、起請文に従わず罰が当ったな」と 義経 が言うと、土佐房 は「あぁ、嘘デタラメ書いたのでな、罰が当った」と笑った。義経 が「主の命を重んじ、自らの命を軽んずる志は、誠に神妙。命が惜しければ鎌倉へ帰してやる」と告げる。しかし、土佐房 は「この身は法師なれど、既に、命は頼朝殿に捧げてある。温情あらば、早く首を刎ねてくれ」と答えた。そして、六条河原で斬られた。
判官都落 ( ほうがんの みやこおち )
源頼朝源義経 に付けておいた 足立新三郎 というスパイがいた。彼は、土佐房が斬られると、急ぎ、鎌倉に下り、頼朝 に伝えた。頼朝 は大いに驚き、今度は 源範頼 に 義経追討を命じる。範頼 はしきりに辞退したが、頼朝 から「お前も義経の真似するなよ」とクギを刺されるや、自分も排除されることを恐れ、その後、頼朝 に全く不忠が無い由の起請文を 100日に 1,000枚書いて提出したのだが、叶わず、その後、ついに討たれてしまう。次に、北条時政 が大軍を連れて上洛することになった。
義経 は、ひとまず九州へ落ちようと考え、緒方惟義 に味方するよう持ち掛ける。惟義は「長年の宿敵、菊池高直を斬り捨ててよかなら、受くる」という条件提示をしたので、義経 は 菊池高直 を 惟義 に渡し、そして、高直は斬られる。
11月2日、義経 は、後白河法皇 から「九州の者は皆、義経の命令に従うこと」との院の庁の下文を受け、都落ちした。11月4日、大物浦から船で下ったのだが、西風が激しく、住吉の浦に打ち上げられてしまう。信太義憲源行家・緒方惟義 らの乗った船も、ここかしこの浦や島に打ち上げられた。突然、西風が吹き始めたのは、平家の怨霊によるものだろうと噂された。
  前田青邨 『 大物浦 』 1968 (S43)  山種美術館
  前田青邨 『 知盛幻生 』 1971 (S46)

11月7日、北条時政 が上洛。「源義経、源行家、信太義教を皆、追討すべき院宣を賜れと、頼朝が言っています」と伝えると、後白河法皇 は、節操もなく、すぐさま 義経 追討の院宣を出したのであった。
義経 は吉野山へ籠るも、吉野山の法師から攻められて奈良へ落ちる。しかし、奈良の法師からも攻められて、都へ戻り、北国を通って奥州 藤原秀衡 の許へ下った。
  葛飾北斎 『 和州吉野義経馬洗滝 』 江戸時代
吉田大納言沙汰 ( よしだ だいなごんの さた )
源頼朝 は、全国の治安と警備を行う「日本国総追捕使」となって、田一反あたり 5升の兵糧米を割り当てるよう、朝廷へ申し入れた。後白河法皇 は、この取り分は過大であると判断するが、公卿詮議で「頼朝の申し出にも、半ば道理がある」と言うので、認められてしまった。
さらに、源義経 らの捜査を名目に、各国に警備役としての「守護」が置かれ、荘園管理役としての「地頭」が置かれた。こうして、鎌倉幕府は全国の統治権と税徴収権を一挙に手に入れたのである。
頼朝 は、この改革を厳格な性格の官僚である、吉田経房 に命じて実行させた。
六代 ( ろくだい )
都を守護していた 北条時政 は「平家の子孫を探し出せば、好きなだけ褒美を与える」という告知を出したものだから、京中の者が平家の男子探しを始めた。とても、やりきれない。一般人の子でも、色が白くて見目麗しいというだけで捕えられ、幼き者は水に入れられ、土に埋められた。少し大人びた者は、締め殺され、刺し殺されたのである。
ただ、平家の嫡流である 六代御前 が、どうしても見付からなかった。しかし、ある女房が居場所を密告したため、時政は 六代御前 の隠れ家を囲む。見つかってしまった 維盛の北の方 は全くどうしてよいか判らず、うろたえて、わめき叫ぶ。六代御前 は 「いつかは捕まる身。しばらくしたら、暇を請って帰ってきます。そんなに嘆かないでください」と、北の方 に言った。母の 北の方 は、泣く泣く 六代御前 に着物を着せ、小さくて美しい黒檀の数珠を取り出し「この数珠で最後の時まで念仏し、極楽へ参られよ」と 六代御前 に持たせた。六代御前 は「母上とは今日を限りでお別れです。今はなんとしても、父上のおられる所へ参りたいです」と告げた。武士たちが警護し出発すると、斎藤五斎藤六 も輿の横についていった。
乳母の女房が、ある人から「高雄山の山寺に 文覚 という聖がいて、源頼朝と親しく、身分の高い人の子を弟子にしたいと言ってられました」という事を聞く。彼女は、すぐさま 文覚 を尋ね「12歳になる若君が、六代御前殿 と間違えられ、昨日、武士に捕まりました。命をもらい請け、御坊の弟子にしてあげてください」と嘆願する。文覚 も不憫に思い「それなら尋ねてみよう」と、坊を飛び出して行った。
文覚は、六波羅で 北条時政 に事の子細を尋ねた後で、六代御前 を見てみると、髪の毛のかかり具合、骨格、振る舞い、まことに美しく、この世の人とも思えない。すると、文覚は「前世からの宿縁があるんだろうか、この若君を見てると、あまりにもいとしく思える。20日の猶予をくれ。鎌倉へ下り、頼朝殿から許しをもらってくる」と言い出した。そして「頼朝殿は『どのような事でも、文覚が言うことなら、頼朝が生きている間は叶えよう』と約束された。総追捕使となって慢心が起きていなければ、まさか約束を忘れておられますまい」と。
文覚は、次の日の暁に鎌倉へ出発した。20日の間命が延びたことに、北の方 も乳母の女房も、ひとえに長谷観音のお助けだろうと感謝した。
しかし、20日が過ぎても、文覚は戻って来なかった。北条時政 も、このまま京にいるわけにはいかず、12月17日の暁、六代御前 を引き連れて都を出発する。逢坂山を越えて大津の浦に向かった。国々、宿々を過ぎて駿河に来た。いよいよ、沼津市の西の「千本の松原」という所で、六代御前 の輿が下され、敷物が用意された。
北条時政 は「もしや道中で文覚に行き会わないだろうかと思い、ここまでお連れしましたが、もはや叶いません。頼朝殿には、近江の国で命を失われたことにします」と告げる。六代御前 は、斎藤五、斎藤六を呼び、「汝らは都へ帰り、われが道中で斬られたなどとは申すな。いつかは知られるだろうが、母上や乳母の女房がこの状況をまさしく聞いたら、極楽往生の妨げにもなろう」と言った。
その後、六代御前 は西へ向かって手を合わせ、声高に念仏を 10回唱えた。そして、首を差し出した。 斬り手に選ばれていた 狩野工藤三親俊 が、まさに刀を振り降ろそうとした時、狩野は目がくれて「自分にはできません、ほかの者に命じてください」と告げて、太刀を捨てて退いた。
「それなら、あれに斬らせよ、これに斬らせよ」と斬り手を選んでいたところ、黒衣の僧が一人、月毛の馬に乗り、ムチを打って駆け付けて来る。それは 文覚 の使者の僧であり、馬から飛び降りて「若君、乞い請けたまわったり。頼朝殿の教書、これにあり」と、取り出した。時政 が中を確認すると「平維盛卿の子息、六代御前、高雄山の文覚坊がしばらく乞いうけることになった。疑いを持たず、身柄を預けよ。北条四郎時政殿へ。源頼朝」と指図が記されていた。斎藤五、斎藤六 はいうに及ばず、北条の家の子・郎党も皆、よろこびの涙を流したのであった。

→ 参考:「観世音菩薩普門品」  

泊瀬六代 ( はせ ろくだい )
使者に続いて「若君、乞い受けたり」と、文覚 も到着。文覚は「頼朝殿 は当初、『それは、誰がどう申し出ても無理だ』と言われたんだが、『この文覚の頼みを退けて、どうして神仏のご加護を得られようか』等と、さんざんに申し出て、やっと、六代御前の命を乞い受けたんや」と言った。北条時政 は「今まさに、ここで過ちを犯すところだった」と、ほっとする。
そのようにして、文覚が 六代御前 を乞い受けて京へ戻り、途中で年を越して、1186(文治二年)正月5日に都へ入った。再会した 維盛の北の方 は「これは夢かや、夢か」と泣き驚き喜ぶ。文覚は 六代御前 と 北の方 を一緒に高雄山に迎え入れ、かすかな暮らしをさせた。観音菩薩は、罪人も、罪のない人も助けることがあり、まことに、ありがきことである。

さて、源行家 も追われていたが、居場所を突き止められ、北条の指示で、比叡山の 常陸房正明 という法師が差し向けられた。屋敷の中で 2時間ほどの斬り合いをするも決着が付かず、両者、太刀を捨てて組合いになった。そこに、常陸房側の下男が石で 行家 の頭を思いっきり打つ。行家は「バカもん!石で敵を打つ奴があるか!」と笑って怒るが、その場で縄で縛り上げられた。既に観念した 行家 が「斬り合いはどうだったか?」と、常陸房 に聞くと「こんな手ごわい敵は初めてだ」と言う。行家が 2人の太刀を確認させてみると、常陸房 の太刀には 42か所の刃こぼれがあったのだが、行家 の太刀には 1か所も無かった。そうして、行家は 京に入る前に、淀の河原で斬首された。
信太義憲 も伊賀方面に逃亡中という情報が入り、追われる。伊賀の山寺に居ることが突き止められ、北条方が押し寄せるが、義憲 は既に寺内で切腹していた。
六代被斬 ( ろくだい きられ )
月日が流れ、六代御前 は成長し、14,5歳になった。源頼朝 は事あるごとに、文覚 に「預けている 六代御前 はどのような人物に成長しているか?」と心配して問い合わせてきた。文覚は「六代御前 は、全く大変な不覚ものです。ご安心ください」と返事をしていたが、頼朝 が「謀反を起こせば、すぐに加担する御坊のことだ。しかしながら、頼朝 の目が黒い間は大丈夫としても、子孫の代においては判らない」と言った、その執念は恐ろしい。
維盛の北の方 がそのことを聞きつけ「六代御前、早く出家したまえ」と告げたので、16歳になる 1189(文治五)年の春に修行に出た。斎藤五斎藤六 も供に付いた。六代御前 は高野山に登り、斎藤時頼 を尋ねる。維盛の出家の様子や最期を聞き、熊野へ参詣した。濱の宮という王子の前から海を眺めているうちに、「わが父はどこに沈んだのだ」と、沖から寄せる白波に聞いたのであった。夜が明けると、僧を招いて供養し、その功徳を父の精霊に回向して、都へ帰った。

平重盛の子 平忠房 は屋島のいくさ後、行方不明となっていたが、紀伊の住人 湯浅宗重の許に隠れていた。これを聞いて、平盛嗣伊藤忠光伊藤景清・飛騨四朗兵衛 などが集まってきているという噂が立った。この攻略に、湛増 が鎌倉から任命され、湯浅城を攻める。敵が弱ってきたのを見て、頼朝が「重盛殿の子息は助ける」と言ったため、平忠房 は投降した。しかし、鎌倉へ護送され、頼朝と面会した帰りに、平忠房 は無残にも、瀬田の橋のほとりで斬り殺された。
平重盛の子に、もう一人、18歳になる 土佐守 宗実という公達が居た。3歳の時から左大臣経宗の許へ養子に行き、姓を改めて他人となっていたのだが、平家だということで養家から追い出されてしまった。宗実は 俊乗 を訪ね、弟子にしてもらうよう請う。出家後「それでも心配であれば、鎌倉へご報告ください」という 宗実 が申し出るため、不安ながらも、俊乗が鎌倉へ連絡すると、鎌倉へ下りるようにとの通知が来る。しかし、宗実 は奈良を立った日から飲食を断ち、道中、関本という所で衰弱死した。「とても助かるまい」との決心のほどは、たいしたものである。
1192(建久三)年3月10日、後白河法皇 が亡くなる。
1195(建久六)年3月13日、奈良の大仏再建の供養が行われる。
平盛嗣 は但馬の国に逃れ、気比道弘の婿となっていた。周りの者は 平盛嗣 の素性を知らなかったが、夜な夜な馬を駆り、海に潜ったりしていたので、怪しまれ、とうとう、入浴中に捕えられる。鎌倉へ護送され、頼朝から「何故に一門と運命を共にしなかったのだ?」問われると、盛嗣 は「平家が、あまりにも脆く滅んでしまったので、万一の期を窺っていた」と答える。 頼朝は「源氏に仕えるなら助けてあげる」と言うものの、盛嗣 は「勇士は二人の主人を持たない。情けあれば、早く首を刎ねて戴きたい」と言った。そうして、由井の浜で斬首される。
その頃は、後鳥羽天皇 の時代であった。後鳥羽天皇 は遊びにふけり、後鳥羽天皇の后の母である 卿局 がすべてを取り仕切っていた次第。そういう中で、二の宮は、政道に励み、学問を怠らなかった。文覚は、なんとしてでも、この二の宮を皇位につかせいようと思い、1199(建久十)年1月13日に 頼朝 が 53歳で死去すると謀反を起こした。しかし、すぐに露呈して捕まり、文覚 は 80歳を過ぎて隠岐の国へ流される。都を去る時「後鳥羽天皇を、なんとしても、われが流される隠岐の国へ連れ出してやる」と、文覚は、さんざんに悪態をついた。その後、承久の乱で 後鳥羽天皇 が謀反を起こして隠岐の国へ流されたのは不思議である。隠岐では、文覚 の亡霊があばれて恐ろしいことがたくさんあった。後鳥羽天皇 の御前にも、文覚 の亡霊が現れたと云う。
六代御前 は、三位禅師と称して高雄山で修業していた。頼朝 は「六代御前は維盛の子であり、文覚の弟子。頭は剃っても、心までは仏門になりきれまい」と、召し捕って関東へ下された。そして、駿河の住人 岡部泰綱により、相模の国の田越川の端で、ついに斬られた。12歳の時から 30歳過ぎまで生き長らえることが出来たのは、ひとえに、長谷観音のご利益といわれた。
六代御前 が斬られ、平家の子孫は永久に途絶えた。




この巻の登場人物と他巻リンク

後白河法皇( ごしらかわ ほうおう )

後鳥羽天皇( ごとば てんのう )

平時忠( たいらの ときただ )

平時実( たいらの ときざね )

平信基( たいらの のぶもと )

六代御前( ろくだい ごぜん )

維盛の北の方(これもりのきたのかた)

斎藤五( さいとう ご )

 平維盛の侍。斎藤実盛の子
 巻十二.六代
 巻十二.六代被斬
 巻七.維盛都落
 巻十.首渡

斎藤六( さいとう ろく )

 平維盛の侍。斎藤実盛の子
 巻十二.六代
 巻十二.六代被斬
 巻七.維盛都落
 巻十.首渡

平忠房( たいらの ただふさ )

平盛嗣( たいらの もりつぐ )

伊藤忠光( いとう ただみつ )

伊藤景清( いとう かげきよ )

斎藤時頼( さいとう ときより )

俊乗( しゅんじょう )

 東大寺再建の大勧進。俊乗房重源
 巻十二.六代被斬
 巻十一.重衡被斬

源頼朝( みなもとの よりとも )

北条時政( ほうじょう ときまさ )

 北条四郎時政。源頼朝の舅
 巻十二.判官都落
 巻十二.六代
 巻十二.泊瀬六代
 巻五.早馬

土佐房昌俊(とさぼう しょうしゅん)

 源頼朝の御家人
 巻十二.土佐房被斬
 巻十.藤戸

湛増( たんぞう )

文覚( もんがく )

源範頼( みなもとの のりより )

源義経( みなもとの よしつね )

伊勢義盛( いせ よしもり )

武蔵坊弁慶( むさしぼう べんけい )

信太義憲( しだ よしのり )

源行家( みなもとの ゆきいえ )

緒方惟義( おがた これよし )

菊池高直( きくち たかなお )

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